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四章、炎天(6)




 厚い馬肉が目の前の皿に盛られたので、雪瀬は小さく呻いた。対するアランガは、火酒を並々注いでこちらに差し出す。蜷(ケン)の歓待は喜ばしいが、獣肉を好んで食べない葛ヶ原の人間には少々つらい。特に馬については、食べるという習慣がなかった。

「領主殿は、馬肉は苦手かな?」
「……まあ少し……」

 雪瀬は視線をよそへとやって、火酒を口に含んだ。焼けるような熱さが咽喉を下る。相変わらず酒も強かった。アランガは上機嫌の様子で、葛ヶ原の連中に酒と肉をふるまっている。
 南海事変での協力以来、雪瀬は時折アランガに招かれて、蜷の地に訪れることがあった。数年前から両者の間で切望していた取引も調整があらかたついて、この夏から本格的に始めることができそうだ。

「時に、領主殿。あなたの聡明な妹君が嫁がれたと聞いたが」
「ええ。先年のことになりますが……」
「都の丞相のもとに?」
「……そうです」

 はなから耳に入っていたのだろうと踏んで、雪瀬もうなずく。花嫁衣装を纏った妹を丞相邸へ送り届けたのは、もう一年ほど前になる。あんなに気分の悪くなる高砂は、後にも先にもこれきりだろう。守れなかったのだという悔恨は未だに雪瀬の胸に燻っている。

「そう嘆かれるな」

 雪瀬の心中を察したのか、アランガは励ますような言葉をかけた。

「近頃、ランは何かとせわしない。心労も多いことだろう」
「早く落ち着くとよいのですが」
「馬ならいくらでもいる。領主殿が望まれるなら、いつでも、どこへでも届けよう」

 口端ににやりと笑みを載せたアランガに、「ありがとうございます」と雪瀬は心からの礼を述べた。外つ国の人間のほうがいっそ信頼できるというのは皮肉なものだな、とも思う。いつしかアランガとも通訳を介さずに話せるようになっているというのに、同じ言葉を話す者同士の争いはなかなか鎮火の兆しを見せない。


 せっかくだから泊まっていけばよいのに、というアランガには丁重に断りを入れ、雪瀬は日が没する前に蜷を出た。雀原の長老から、相談があるので屋敷に招きたいと再三の申し入れがあったためだ。雀原の長老はまだ四十と若いが、以前蜷と国境でいさかいに発展しかけたときなどは、すいと身を引くしたたかさがあって、あまり信頼できない。八代(やしろ)の代は父に取り入ることだけに執心し、そのくせ颯音が当主に立つと、先代の頃は私も心苦しゅう、と平然と言ってのけるあたりも好かなかった。
 相談といってもどうせろくなことでないだろうと、理由をつけて先延ばしにしていたが、雪瀬にも用ができた。

「さあさあ、雪瀬さま」

 雪瀬たち一行を迎えた雀原の長老は、いつになく上機嫌だった。そのままもみ手でもしてきそうな勢いで酒席へと招く。八千代という娘は案の定、雀原の隣に座っていた。父親に促されると、頬を染めて慣れない酌をする。歳は十六、七だろうか。内気そうではあるが、確かに「若く健康そうな娘」だった。

「それで、わたしに相談とはどのような?」

 いささか溢れ気味の盃を置いて、雪瀬は尋ねる。八千代が急に緊張した面持ちに転じる。早々に切りこまれるとは思っていなかったらしい。雀原が空咳をした。

「それにつきましてはもちっと夜が更けてからおいおい」
「では、わたしのほうから先に話をしてよろしいですか」

 雀原の言にかぶせるようにして雪瀬は口を切る。できれば八千代には下がってほしかったが、雀原は気を回さなかった。それならもうそれで仕方がない。

「聞きました。わたしが留守の間、雀原老にはいろいろと気を回していただいたそうで」
「いえ、気など……」
「けれど、心配には及ばず」

 言い訳を連ねる暇を与えず、雪瀬は断じた。

「わたしの後継なら、しかるべきとき蕪木家に養子をもらうことになっています。以前、皆の前でそう説明もしたはず。お忘れでしたか」
「ま、まさかそのような……!」

 雀原がみるみる蒼褪める。父親の焦燥を感じ取ってか、八千代に至っては今にも卒倒しかねない表情だ。正しく、雪瀬はそのとき静かに怒っていた。この男の取るに足らない野心で、彼女を不当に傷つけられたことに。付け入る隙を自分が与えてしまったことに。

「わたしの妻はあの娘ひとりです。この先も生涯違えることなく。ゆえ、金輪際ありもしない妄想を彼女に吹き込むことなきよう。二度目があると思いますな」

 はずみに八千代が手にしていた提子を倒す。畳に広がる濁り酒を無為に見やり、「……まだ若い妻ですので」と雪瀬は少し語調を緩めた。

「今後も変わらずお支えください」

 表向きは慇懃を装った結びをもって、雪瀬は腰を上げた。千鳥、と外に控えていた護衛の少女を呼ぶ。酒宴を続ける気はもう雪瀬とてなかった。うなだれる雀原の横を通り過ぎ、障子に手をかけてから、思い直して懐紙を数枚、八千代の横に置いた。

「八千代ではおめがねにかないませんか」

 眸を潤ませて見上げてくる少女に、ばつの悪さを感じて雪瀬は肩をすくめる。

「二度です」
「え」
「二度。彼女を捨てて逃げたんです、俺は。最低でしょう」

 呆けた顔をする八千代はおそらく正しい意味はわからなかったにちがいない。外に出ると、千鳥が刀を差し出してきた。

「一泊のご予定だったのでは」
「やめた。帰ろう、屋敷に」

 下男に手伝わせ、厩から出した馬に鞍を乗せる。すでにどっぷり夜も更けていたが、慣れた道だ。銀雫を纏った草野を馬で駆ける。気性の荒い風音も今晩はめずらしく言うことを聞いて、思うとおりに走ってくれた。

 ――側室をもらう選択自体は、一考の余地があるように思います。

 無論、雀原から娘をもらうというのはありえませんが、と蕪木は渋面をして告げた。蕪木から養子を差し出せというなら、その用意はある。けれど雪瀬はまだ若い。子どもを残さなくて本当によいのかと蕪木は案じたのだった。

 ――身の程をわきまえたおなごを選べばよろしい。あるいは子を産ませたのち離縁すれば。

 ずいぶんむちゃくちゃなことを言うものだな、と雪瀬は苦笑する。蕪木が言うのなら、まあそんなおなごもどこかにはいるのかもしれない。昔は雪瀬もそのうち家のためにしかるべき筋の女をもらうべきだと思っていた。

 ――考えられない。

 雪瀬は言った。そっけなく率直な物言いは慣れた相手を前にしているためだ。蕪木は皺の刻まれたおもてを上げ、眸を細めた。さようですか、という声には、何かを見通すやさしさがある。

 ――よいのですね、それで。
 ――いい。

 数をあげればキリがない。彼女から自分が奪ったもの。ふつうのしあわせ。安寧。穏やかな時間。与えたくても与えられないもの、そればかり。けれど、ないものを数えて彼女に背を向けるのはもうやめたから。
 この命は、曠野の道を行くためのもの。
 それは譲れない。けれど。
 瞼をおろす前のほんのひとときでいい。あるいは、夜明け前の淡いまどろみのあいだ、花がこぼれるひと刹那でも。一緒にいたい。時を重ねたい、彼女と。それは季節がめぐる中で、近頃とみに、雪瀬に芽生えた感情だった。
 月光を浴びて、風音は黒い鬣を艶やかに輝かせている。草の生い茂る野のただなかを青馬は疾駆する。




 その夏から秋にかけて、雪瀬はいつになく桜のそばにいてくれた。新婚早々に、南海への派兵で屋敷をあけた雪瀬である。その後も後始末や検察使の職で、ひと月以上屋敷にとどまることはほとんどなかったから、季節がめぐっても屋敷で仕事をしているのは本当に珍しいことだった。といっても、留守のあいだ溜まった案件のせいで、しばらくは内政のほうにかかりきりになってしまったのだけども。

「それでね、結局また梨の苗をもらってきてしまったの」

 濡れ縁のそばにぽつんと置かれた苗木を示して桜が息をつくと、雪瀬は思わずといった様子で笑い出した。しばらく屋敷で休養していた桜も、秋の涼風が吹き始める頃には、また奥方としての仕事を始めた。以前にも梨の苗をもらって帰ってきたことを思い出したのか、「そのうち庭が梨畑になる」と雪瀬は言った。
 並んで座る濡れ縁では、虫の声が時折、夜風にまぎれて聞こえてくる。蚊帳はすでに取り払われていたが、板敷きの上では蚊取り線香が焚かれていた。

「そろそろ中に入ろうか」
「もうすこしだけ」

 朧月の薄明かりのした、雨上がりの庭は銀色に染まっている。うつくしい夜だった。隣であぐらをかくそのひとの肩に桜はことんと頭を預けた。

「こういう夜は箏が映えるんだろうな」
「雪瀬は楽のよしあしなんてわからないくせに」
「それはまるでわからないけど」

 こと楽や詩吟を雪瀬がさっぱり解さないのは、周知の事実である。

「前に弾いてたでしょ」
「いつ?」
「乞巧奠」
「……見てたの?」
「見てたよ。二度とも」

 瞬きをすると、雪瀬はゆるりと笑んで、桜を肩にかけた藍鼠の羽織のうちに招いた。戯れに髪に差し入る手に目を細めて、「どうだった?」と尋ねる。

「まあまあ」
「まあまあ、よかった?」
「でも、今のほうがいい」

 意味をつかみかねてぽかんとすると、額にふわりと口付けが落ちた。瞼に、眦に移った唇は、髪をかけた耳朶に触れ、首筋に降りた。吐息がこぼれる。あたたかい。膚を重ねるのはあたたかくてすきだ。このひとの吐息とにおいにいっぱいに包まれて、安堵する。きもちよくて、ここちよくて、すべての境界が曖昧になって、満たされて、満たされて、満たされる。だいすき。ふとそれまでどんなときも口にしなかった言葉がほろほろと滑り出た。だいすき。だいすき。あなたが、すき。あふれないように、こぼれないようにしていたのに、一度あふれだすともうだめだった。しゃくり上げ始めた桜に気付いて、雪瀬はすこし動きを止めた。あきれられるだろうか。そう思って見上げると、どうしてか雪瀬はふいにとてもやさしい顔をした。唇が重なる。ながく、丁寧に。まるで慈雨のようだと、かゆらいだ夢のなかで思った。




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