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四章、炎天(7)




 朱鷺帝の勅使がひそかに葛ヶ原へたどりついたのは、すすきの穂が揺れる秋のことだった。ちょうど宗家屋敷には雪瀬が不在だったので、受けたのは家令の蕪木だった。すぐさま呼び戻すための伝令を放ち、客間を整える。

「どうぞ」

 盥で足を洗っていた青年に、桜は腕に抱いた手拭いを差し出した。ほかにも数名、護衛の武官を引き連れていたが、数としては少ない。かたじけない、と足を拭いた青年がかむりに被っていた衣を取り去る。はずみに、はらはらと処女雪にも似た白銀の髪が青年の肩を滑り落ち、桜は瞬きをした。

「皇祇(すめらぎ)、殿下」
「久しいな、桜。なんぞ鳩が豆鉄砲を食らったような顔をしおって」

 得意そうに胸をそらして、皇祇は桜を見下ろした。以前、アランガへの使者としてこの地に訪れたときよりも、さらに背丈も伸びて、すっかり凛々しい美丈夫になっている。どうして、と呟いた桜に、皇祇は人懐っこい笑顔を見せた。
 
「ひそかに、と言っただろう。玉座から動けぬ兄上に代わって、ときどき各地へ足を運んでおるのだ。無論、公務とてきっちり果たしておるがな!」

 翠の眸に溌剌とした光を宿して、皇祇は桜の手を取った。

「桜は相変わらずきれいだな。むしろさらにきれいになった」
「皇祇殿下も、ご立派になられておいでです」
「であろう? であろう?」
 
 賛辞に素直に顔を綻ばせるところは、昔から変わっていない。懐かしい知己と再会できたことにほっと微笑み、桜は整えたばかりの客間へ皇祇を案内した。上座に腰を落ち着けて脇息を引き寄せる皇祇の姿は悠然としている。紅鼠の小袖をさばいてかがむと、桜は皇祇の前へ茶を差し出した。

「今日はどのような用事でこちらへ?」
「うー……む。それがのう……」

 皇祇が顔を曇らせたとき、当の本人である雪瀬が外から断りを入れて襖を開けた。すでに蕪木から話は聞いていたらしい。皇祇の顔を見てもさして驚かずに、まかりこすのが遅くなったことを詫びる。皇祇は一笑した。

「そなたのつまらん面構えは相変わらずだな、橘」
「幸い顔を売る仕事にはついていませんので。殿下も健勝そうで何よりです。――桜」

 さりげなく名を呼んで、雪瀬は桜に部屋から下がるように促す。それを皇祇が止めた。

「待て。こたびの件は桜にも関わることなのだ。できれば、ともに聞いてもらいたい」
「桜に?」

 怪訝そうな顔をしたものの、皇祇が朱鷺帝の勅使を名乗る以上、無碍にもできないようだ。雪瀬は仕方なくといった風に、最低限の人間だけを置いて、人払いをした。
 ……わたしにも関わること、とは何だろう。心当たりもないまま、桜は所在なく雪瀬の隣に座した。

「先立って秋の除目が出たのは知っているだろう。こたび、それに伴い、若宮御殿のほうの人事も動いてな。蝶の姉上が月皇子の教育係につくことになった」
「噂では聞いていましたが……」

 皇祇が差し出した文箱を雪瀬が注意深く受け取る。除目といえば、宮中の諸官の人事を指す。皇祇がそれ以上の説明を控えたので、雪瀬は文箱から出した書状へ目を通す。その横顔がみるみる険しいものへと転じた。読み終えたと思うと、中に書状を戻し、箱を突き返す。かたん、と螺鈿細工のほどこされた蓋が微かに音を立てた。

「お断りします」
「橘」

 不敬も厭わぬ返しように、さすがの皇祇も眉根を寄せた。

「これは仮にも兄上の――帝の思し召しぞ」
「お言葉はもったいなく存じます。ですが適任はほかにいるかと」
「ほかにおらんから、ここまで俺が参ったのだろう」
「申し開きが必要なら、こちらも使者を立てましょう。わたしが直接参じても構わない。ですが、答えは変わりません」
「一考もせずにそれを言うか」

 頬を歪めて、皇祇が吐き捨てる。にわかに転じた空気に、冷ややかな火花が散った。

「そなたは姉上を見捨てるつもりであると?」
「そうは言ってない」
「……蝶がどうかしたの?」

 皇祇というよりは雪瀬に向けて尋ねると、雪瀬はあからさまに嫌そうな顔をした。言いよどんだ雪瀬に代わり、うむ、と皇祇がうなずく。

「蝶の姉上が月の教育係になったはよいが、そのときに連れていく側仕えが問題なのだ。下手な者をつけられれば、姉上に危険が及びかねない。つい先だっても、内裏の外で縞が暴漢に襲われてな」
「縞が?」

 思わず身を乗り出した桜に、「幸い大事には至らなかった」と皇祇は首を振った。

「ただその際、足を怪我してしまってな。今も床から起き上がれぬ。ゆえ、当分の代役が必要となったのだ」
「代役」
「今、宮中では朱鷺の兄上と、丞相月詠を筆頭にした月派の者どもが対立し、不穏な気配に満ちておる。正直、代役の側仕えを選ぼうにも、どの者が丞相方で、どの者がそうでないのか、定かでないのが実際のところなのだ。ゆえにこそ」

 翠の双眸が真摯な光を湛えて、桜を射抜いた。

「そなたにこの役目、引き受けてもらいたい。蝶の姉上を守ってほしいのだ」

 わたしが蝶の。
 意表外の話で、桜もすぐには口を開くこともできない。話を一度断ち切るように、雪瀬が動いて文箱をすいと横へ押しやった。

「お断りしますと言ったはずです。協力はしましょう。お力になれることなら何なりと。ですが、彼女を差し出すことはできない」
「そこをどうかと、こうして頼みに参ったのではないか」
「殿下」

 雪瀬は嘆息した。さらに言い募ろうとしてふと言葉を止める。桜が皇祇から見えないところで、そっと袖端を引いたためだ。

「文箱をいただいてもいいですか」

 雪瀬が一度は突き返した文箱を持ち上げる。皇祇の顔にさっと希望が広がったが、桜は緩く首を振った。桜の一存でいいとも悪いとも答えられる話ではなかったためだ。桜はただ即断しようとした雪瀬を止めたに過ぎない。

「葛ヶ原にとどまれるのはいつまでですか」
「明日の……夕方の船じゃ」

 浅く顎を引いて、桜は雪瀬を見る。いつまでに結論を出すべきかはこれでわかった。しばし雪瀬は皇祇を睥睨していたが、やがて息を吐き出して、「では、明日の昼にもう一度」と言った。


 すぐさま蕪木をはじめとした家令や補佐たちが集められて、話し合いがもたれた。しかし皇祇が持ってきたのは秘密裏とはいえ、帝の印が入った勅書である。断るにも並大抵ではない理由が要る。代役という話からしておそらく務めるのは一年程度。丞相への牽制を考えても、引き受けるべきでは。
 そのような意見が大半を占めるなか、一向にうなずかなかったのは雪瀬である。めずらしい。雪瀬はひとの意見によく耳を貸すのに。

「引き受けない」

 場が静まるのを待って、雪瀬は言った。中央には螺鈿細工の文箱が置かれている。濃茶の双眸がそれを忌々しげに見つめた。

「帝の思惑は読める。蝶姫の名を持ち出してはいるけれど、結局は月詠に柚が嫁いだぶん、自分の側にも質がほしくなったんだろう。絶対に裏切らないという質が。……馬鹿げている。少しはマシだと思っていたのに、どちらも似たようなもんだ」

 冷ややかな声には静かな憤りが満ちていた。隣に座した桜は、頬を歪める雪瀬の横顔を見上げた。赴けなどと。雪瀬が言うわけがなかった。だって、柚葉のときも雪瀬は最後まで譲らなかった。仕方ないとわかっていても、どうしようもないと理解していても、それでもどうしても譲れない。――そういう、ひとなのだ。
 惑うように視線をさまよわせていた蕪木を桜は見た。小さくうなずく。蕪木の顔に複雑そうな表情が広がった。

「……一年の期限を切りましょう」

 ようやく口火を切った蕪木は、雪瀬にそう諭した。

「帝の思し召しである以上拒むことは難しい。ですが、唐突な申し出に無体を強いられるは異なこと。期限を切ります。そこは帝も譲歩するでしょう」

 ぎりぎりの譲歩案を示したのだと桜にもわかった。それでも張りつめた雪瀬の空気は動かない。ややもして、「返書を」と雪瀬は短く言った。長く重い息を吐き出す。了承の意を示したのだと、蕪木の表情で察した。





「蕪木に目配せをしたでしょう」

 散会して私室へ戻るさなか、雪瀬は低い声で言った。前を歩く背中を見上げ、桜は苦笑する。

「みなが困っているようだったから」
「――行く必要なんかなかった」

 足を止めて、雪瀬は呟いた。ちょうど外廊に出たため、ほの暗い板敷きにさやかな月の光が射している。暗がりに所在なくたたずむそのひとを桜は見上げた。袖端をそっと引きやると、半身が振り返る。冷たい手のひらが頬に触れた。

「俺の奥さんだから、行かなくちゃいけないって思った?」

 やるせなく細まった眸を見つめて、桜は首を振った。

「おもってないよ」
「……こんなことをさせるために銀簪を渡したわけじゃない」

 吐き捨てる雪瀬は歯がゆげだ。

「こんなことに巻き込むために……」

 求婚を意味する銀簪を挿してくれたときの手のひらを、桜は思い出した。桜の気持ちを受け入れてくれるまで、雪瀬はさんざんためらった。桜を拒んだ。逃げもした。その理由が、今ならわかる。つきあわせたくなかったからだ。雪瀬の、おそらく雪瀬自身にとっては、血を流し屍を積み上げていく人生に。
 ふいに胸がくるおしく痛んだ。
 それでも、最後には手を伸ばしてくれた。
 桜を選んでくれた。その裏にどれほどの苦悩と決意があったかは、桜にははかれない。けれど。

「巻き込まれてないよ」

 頬に触れる手に手を重ねて、桜は言った。

「巻き込まれてない。これはわたしが選んだことだから」
「桜」

 苦しげに目を伏せたそのひとに、桜はそっと微笑む。少しでもその凝りがやわらぐように。 

「――だから、そんな顔をしないで」

 月の下、緩やかにふたつの影が重なる。
 葉先に宿った露を散らして、夜風はあまねく大地へ吹き渡る。




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