秋の終わりに、桜は荷をまとめて葛ヶ原から旅立った。
見送りに立ち会ってしかるべき葛ヶ原領主は、その日も朝から多忙で姿を見せなかったのだけども――。次第に小さくなる一行を、高台で馬を休ませながら見つめていた影のことは知られていない。
毬街から都の玄関口である霧井湊には水路で十日ほど。そこからさらに一日ほどかけて都の大門にたどりつく。門前では人の出入りの確認も行われるため、一緒についてきてくれた無名がいないと、ひとごみにたやすく押し流されてしまいそうになる。
「桜さまでいらっしゃいますか」
通行証となる木鈴を役人に見せていると、見知らぬ青年が手を振った。皇祇に仕える舎人で、都の外にいるあるじの代わりに桜たちを迎えに来たのだという。
「遠路はるばるよくぞお越しくださいました」
つやつやした顔を綻ばせた青年は、さっそく蝶姫の居所へ案内する旨を告げた。桜のほうも、今日は長らく空けていた都の橘邸を掃除するくらいしか予定はない。荷物を代わりに持った舎人の青年について、大門をくぐる。
「……すごい」
いつ見ても、都の中央を貫く大路の広さには圧倒される。行き交う旅人たちに、路端からかかる威勢のいい物売りの声。活気に溢れた都の様子は、桜の目にも好ましく映った。
「こちらです」
案内されたのは、琵琶師の邸宅だった。数年前、琵琶師本人はこの世を去ったが、邸宅自体は整然と保たれている。木戸のそばの手水場にはらりと落ちたもみじを見つめ、桜はひととき故人の影を偲ぶ。
「琵琶師さまのご息女が姫の乳母を務められた縁がございまして。今は縞さまの療養先になっております。桜さまのご到着を心待ちにされていたのですよ」
風通しのよい一間には褥が敷かれ、半身を起こした女性が書き物をしていた。今は髪を下ろしているが、几帳面そうな懐かしい横顔に、「縞」と桜は笑みを綻ばせた。
「これは桜さま……!」
慌てて褥から出ようとした縞をとどめて、桜は膝を折った。
「足はまだ……?」
「ええ、かなりざっくりとやりおりまして。いえ一時はあたりが真っ赤に染まって、姫様がタマよ死ぬなタマと泣き騒ぐものですから、いいえタマではございません縞です、と言い直したのが遺言になろうかと……」
「でも無事で、よかった」
「まったく姫様にくっついている虫に救われた形ですわね」
「むし?」
瞬きをすると、縞は忌々しいものでも思い出したかのように顔をしかめた。
「おやー、命の恩人に『虫』呼ばわりはないんじゃありませんか」
板敷きを鳴らして、折よくその場に現れたのは、くだんの青年だった。縞のかたわらに座る桜を見つけると、愉快そうに口端を上げる。
「懐かしーい子犬様までいるじゃねえの。葛ヶ原産の」
「真砂」
ひとを食った物言いといい、どこか皮肉っぽい笑い方といい、まるで変わっていない。桜の隣に断りもなしに座ると、「相変わらずほっぺたが大福みたいデスネー」と両頬をいっぺんに引っ張った。いたい、と腕を叩けば、笑いが弾ける。
「ふくふくしてきたねえ桜サン。やっぱり人妻はちがうもんかな」
「……真砂は蝶の?」
「そう。そこの縞を身体張って助けたの俺ですぜ」
縞の冷たい視線はものともせずに、真砂は肩をすくめた。ようやく解放された頬をさすって、桜は真砂が入ってきた戸のほうを見やる。
「じゃあ、蝶は?」
「ああ? さっきまでそこにおいでなすったはずだけども――」
「桜!!!」
首をひねる真砂を押しのけ、白銀の髪を高く結い上げた娘が駆け込んできた。桜に体当たり気味にぶつかって両腕を回す。
「ちょ、蝶……?」
「う……」
しっかり桜の首根っこを引き寄せた蝶が小さく咽喉を震わせる。
「うわああああああああああああああああああん!!」
天を仰いで盛大に泣き始めた姫君に、桜は瞬きを繰り返した。真砂と縞のほうへ視線をやるが、両者とも訳がわからぬ、といった具合だ。その間も蝶はおいおいと号泣して、すまぬ、すまぬな、と桜を離さない。その背に手を回して、そっとあやしながら桜は尋ねた。
「どうしたの、蝶?」
「だって、怒っておるであろ? 桜は橘と『らぶらぶときめき浪漫』の毎日であったのに、蝶のせいでかようなところへ連れてこられて」
「らぶらぶときめき……」
しばらく会わないうちに蝶はまたひとつ、桜の知らない言葉を覚えたらしい。とはいえ、蝶が遠因となり、桜が都へ呼ばれたことに対して、わだかまりを持っているらしいことは察せられた。小さく首を振って、「だいじょうぶ」と桜は蝶の頭を撫でる。
「私が行きかったから来たの。蝶は私の大事なひとだから」
だから泣かないで、とささめくと、「ばかもの」と泣き濡れた眸が桜を睨んだ。文は頻繁に取り交わしていたが、顔を合わせるのは久方ぶりになる。花が開くようにますます美しくなった友人を見つめて、会えてうれしい、と桜は微笑んだ。
その後ひと月ほど、縞のもとで手ほどきを受けた。宮中のしきたりは桜には謎めいたものが多く、しかも数が多いので、結局覚えきれたとは言えなかったが。縞曰く、桜さまは要領は悪いですが、乾いた海綿のようなので吸収は早いですよ、という。したり顔でうなずかれたが、褒められてはいない気がする。
水まじりの湿った雪が足元を濡らす中、十一月のつごもりに桜は宮中に上がった。何枚も重ねた袿の重みに少し息を弾ませ、磨き抜かれた鏡床を擦る。向かった先は、今上帝の朱鷺の御座所だった。普通、一介の側仕えが呼ばれることはまずないが、桜は橘家のものであり、帝自ら呼び寄せたという特別な事情があったため、朱鷺から内々にお呼びがかかったのだった。
「顔を合わせるのは数年ぶりだな」
御簾越しに朱鷺が言葉をかけた。
御座に腰掛けた朱鷺は、雪輪を描いた冬らしい直衣を纏っている。結い上げられた髪は、蝶と同じ光沢のある白銀で、雪白の色とあいまってどこか果敢なげな印象を与える。前に会ったときのことを思い出して、桜は少しわらった。
「じょせふぃーゆ高田さん?」
「よう覚えておったな。じょせふぃーゆは、懇意であった西大陸の商人の愛妻の名じゃ。そなたはしかし、変わらぬのう」
御座から身を乗り出して桜を見つめ、「いや」と朱鷺は口端だけを上げた。
「眼差しは変わったか」
「帝は、おかわりないようです」
皇族特有の翠の眸は深いきらめきを帯びて細められている。朱鷺や蝶、皇祇の兄妹は目が似ている。他者と比べたり、陥れたり、損ねようとしたりする意志のない、確かな自信に支えられているものの目だ。ただ、今御座にいる朱鷺は、目の輝きはそのままに、少しやつれたように見えた。
「橘も変わりはないか」
「はい。葛ヶ原のひとは皆」
「……すまぬな。そなたをかの風の地から引き離してしもうた」
眉根を寄せて朱鷺は息を吐いた。
いいえ、とこたえる声は少し強張ってしまったかもしれない。
「このふた月で五度。何のことだかわかるか」
「……いいえ」
ふるりと首を振った桜に朱鷺は苦笑し、「政争に絡んでいると思われる殺傷沙汰の数じゃ」と明かした。桜は小さく息をのむ。
「丞相を筆頭にした月を帝に推す一派と、俺の陣営とが争っていることはそなたも聞いておろう」
月皇子は先帝の遺した末の皇子であり、丞相月詠はその後見役についている。皇祇からも説明されたように、皇子の教育係となった蝶は、自ら敵陣に乗り込んでいったことになるが――、これほどとは。
「縞の足は、もうもとのようには戻らないと言っていました」
「縞にはかわいそうなことをした。危険があるとは思っていたが、俺もつくづく平和呆けをしていたようだ」
「帝は月詠を……」
どうなさるおつもりですか、と尋ねようとして、桜は口を閉ざした。朱鷺の穏やかな目が静かな拒絶を示したことに気付いたからだ。それで、この一見穏やかなひとが何かの覚悟を固めつつあることを悟る。雪瀬の言が蘇る。桜は橘を裏切らせないための質であると。
蝶や皇祇の兄でもある朱鷺が、残忍な人間であるようには桜には思えない。けれど、多くの人間の上に立つひとは、ただやさしいだけでは生きられないのだと、今はもう察せられつつあった。
「桜」
そのあとふたつみっつ世間話のようなものをしたあと、朱鷺はおもむろに立ち上がり、御簾を払った。周囲は人払いがされているため、朱鷺と桜、それから側近の稲城しかいない。かたわらにかがんで、桜の手を包んだ朱鷺の手のひらは、ひんやりと冷たかった。雪瀬の、清涼な水の冷たさとは異なる、もっと無機的な冷たさだった。
「丞相月詠と十人衆には気をつけよ」
短く囁いて立ち上がる。問い返す暇はなく、朱鷺は舎人を呼んで、桜を下がらせるよう言った。案内されるまま外廊を歩きながら、桜はそれとなく髪に挿した銀簪に指を触れさせる。花の透かし細工がなされた平簪は、雪瀬が求婚のときに彫金師につくらせて、桜に贈ったものだ。葛ヶ原を発つ前に、雪瀬は簪をもう一度彫金師のもとへ持っていった。意匠はそのままに、先端を鋭く尖らせるために。
『もしものときは』
桜の髪に簪を挿しやりながら、雪瀬は言った。
ためらうな、と。
――蝶に言ったことは嘘ではない。蝶は桜にとってはとても大事なひと。蝶を守るためにできることがあったらよいとそう思っている。けれど、桜は橘の女なのである。己の身は己で守れなければならない。そしてもしものときには、葛ヶ原領主のために、生き抜かなければならないのである。
一陣の風が吹き抜けた。髪を乱す風に目を細め、桜は簪から手を離す。かたん、と音がしたのはそのときだった。