「だれ?」
背後で微かに立った物音に、桜は簪をそっと握る。雪笹の描かれた几帳から何かがこちらをのぞいている。暗がりのせいでよく顔は見えなかったが、桜の視線に気付いたのか、相手は几帳の奥に引っ込んだ。
「そこに誰かいるの」
尋ねながら、桜は足音をひそめて几帳に近付く。呼気を整え、一息に回り込む。あっと叫んだその声は、桜が思っていたものよりもずっと幼く、愛らしい。おびえた子犬のように離れた小さな影に、桜は瞬きをする。丸柱にしがみつくのは、松葉色の水干を着た子どもだった。
「待って、」
桜の制止を振り切って駆け出そうとしたものの、小さな影は廂に足を滑らせて転んでしまう。まさか何もないところで転ばれるとは思わず、桜は松葉色のかたまりの前におずおずとかがんだ。
「へいき?」
手を伸ばして、動かなくなってしまった肩に触れようとする。とたん、子どもは獣めいた俊敏さで飛びのき、歯をむき出しにして威嚇をした。引っ掻かれたらしい手を中途半端に浮かせたまま、桜は低い声で唸る子どもを見つめる。小さく息をのんだのは、威嚇されたことより、子どもの鼻先まで伸ばされた前髪ゆえであった。これほど長く伸ばせば、視界は悪く、転びやすいだろう。すっと通った鼻梁や、花色の唇、処女雪にも似た白い膚は、ひと並ならぬ美貌の片鱗を感じさせたが、まだ幼子といっていい頬はやつれ、猜疑と警戒に満ちて歪められている。
「あなたは……」
「――月」
冷ややかな呼び声がして、子どもはびくりと身体を強張らせた。視線に気付いて、桜もまた振り返る。
「……藍」
月、と藍がもう一度促すと、子どもは顔を蒼白にさせたまま、侍女のもとへ戻っていく。数年前、一児を出産したという藍は、以前よりもますます痩せ細ったように見えた。眇められた目の色は陰鬱で、髪を払うとき袖からのぞいた手首はびっくりするほど細い。それなのに、女の色香は痩せたうなじからにおいたつようで、ひとの目を捕えて離さない。藍は美しい。けれどそれは月詠にも通じる、この世の者ならぬ美しさだった。
微かに眉根を寄せた藍は、呆れた顔で呟いた。
「ほんとうに。少女のまま変わらないのね、おまえは」
はじめて会ったときは、藍はまだ十代の少女だった。藍にしてみれば、変わらない桜のほうがずっと奇異に映るのだろう。
「藍は――」
「呼び捨てないで」
ぴしゃりと藍は言った。
亡き桔梗院の后だった藍。今は皇太子の生母にあたる。宮中のしきたりは縞から学んだし、そうでなくとも地方領主の妻に過ぎない桜が気安く口をきける相手でないことは察せられた。考えて、道を開ける。
「意外だったわ」
通り過ぎざまに、ぽつりと藍が言った。
「葛ヶ原領主がおまえを手離すなんて。まあ、帝の思し召しを拒めるわけもないのでしょうけれど。――魑魅魍魎の箱へようこそ」
虚ろにわらう横顔を桜は見た。その表情には少し見覚えがある。疲れ果てて、倦んだひとのそれ。目を伏せて、桜は別のことを言った。
「藍と雪瀬は似ているね」
「……何を」
「桜!」
背中からかかった声に気付いて、藍は言葉を切った。見れば、案内役の女官とともに蝶がこちらへ向かってくる。
「すまぬな、待たせてしもうて……」
息を切らした蝶は、桜の視線の先にたたずむ藍に気付いて眉をひそめた。
「氷鏡の君」
「お引止めしてしまいましたね」
蝶の登場によって、藍の中で何かが切り替わったらしい。涼やかに微笑むと、「月」と側仕えの背に隠れた皇子を呼んで、その場を辞去する。俯いた月の顔は暗い。「またあとでな」と蝶が声をかけたが、こたえる様子はなかった。くすくすくす……。側仕えの娘の甘い笑い声だけが、毒のようにその場に残った。
「気味の悪い笑い方をしおって、菜子め」
「なこ?」
「玉津卿の奥方・鬱金姫の側仕えだった娘じゃ。物乞いに身を落としたのを氷鏡の君が拾ったらしい。まっこと奇怪な御趣味じゃ」
忌々しげに呟き、「到着早々、驚かせたであろ」と蝶は苦笑交じりに桜を振り返る。通された姫宮御殿は、以前地揺れで倒壊したものを建て直したばかりで、まだ若い樹の芳香に包まれている。几帳は蝶の趣味にあわせて、やさしい雪兎色に揃えられていた。
「もしかして、あの子が?」
「ああ。今の皇太子――月じゃ」
「……でも、」
蝶の言葉に微かな疑念を抱いて、桜は顔をしかめる。確証はない。だけどあの子は……。
――おうじ? おうじょ、ではなく?
「桜?」
蝶が不思議そうに瞬きをしたので、桜は首を振って先を促した。茵に座した蝶が紫檀の肘掛に寄りかかる。
「すまぬの、先に話しておかなくて。しかし、実際に見たほうが早いと思ったのじゃ」
「月殿下は、ずっとああなの?」
「らしい。ひとをまったく寄せ付けず、懐かぬ。それでも、赤子の時分から世話をした鬱金姫には心を開いていたというが……、鬱金がいなくなったあとは、ますます心を閉ざしてしまった。身の回りの世話も、側仕えの菜子と数少ない侍女以外にはやらせぬ。他の者が触ろうとすると、とたんに暴れ出して手が負えなくなるのだ」
ほんの短い邂逅だったが、月の様子は常軌を逸している。鬱金姫は雪瀬を襲おうとしたことで、島流しに処せられた。姫がいなくなったせいで心を閉ざしたのかと思ったが、蝶曰く、鬱金がいなくなる前から、ひと慣れはしてなかったのだという。
「あの前髪にも理由があるの?」
「あれは……眸のせいじゃ」
「目?」
訊き返した桜に、蝶はうむ、とうなずく。若干気まずそうに桜のほうを見たあと、しかし蝶らしく、さっぱりと口にした。
「緋の色なのじゃ。皇族とはこのとおり、白銀の髪と翠の眸を持つのが常。……蝶がそう思うておるわけではないぞ。だが、この場所では、月の目と髪は忌の色だとして、倦んでいる者が多くいる。困ったことに、それは兄上に味方する者たちに多いのだ」
「帝の」
「兄上を支持する者は、若い公家衆や南海や百川をはじめとした領主が多い。旧来の公家衆は、ほかの皇子と組んで、兄上を南海遠征に飛ばした過去があるゆえな。しかしここにきて、幾人かが丞相から離反し、兄上についた。月詠の台頭を危険視した者もおるが、月の血に疑念を抱いている者も多い」
「……それは、月皇子が皇族の血を引いていないと考えたということ?」
「そのとおりじゃ」
蝶は疼いてきたらしいこめかみを押して、うなずいた。潔癖な性格の蝶からすると、耐えられないところがあるのだろう。深いため息をついて、蝶は顔を上げた。
「だが、蝶の務めは兄上をお守りすることじゃ。月に近付く不穏な影があれば、必ず蝶に言ってくれ。……月だとて、あのようにまだ小さいのだ。守ってやりたいと思う。誰が何と言おうと、蝶の弟であることには変わりないのだから」
きっぱりと言い切る蝶に、桜は微笑む。蝶のこういうところが好きだった。蝶はたぶん桜より物事のいろんな面が見えて、わかっているのだろうけれど、不条理なものには屈しない。蝶の大事な芯の部分はいつもしゃんとしていて、揺らぐことがないのだ。それを以前にも増して尊いと、桜は思う。
若宮御殿の一日は午後から始まる。
蝶がやってくると、半ば引きずられるように侍女に連れられた月が対面に座る。蝶はいつも、具合はどうだとか、季節のことなど、さまざまな話を月にしたが、月はいつも俯いて、蝶の言葉には何ひとつ答えない。蝶はそれでも諦めることなく、講義を続ける。朗々とした声が響く間、月はときどき歯軋りをし、手首のあたりを握り締めた。そうすると、短い間震えがおさまる。月はそんな仕草を蝶の講義中、何回も繰り返した。
「では次に、『白亀考』の読み方であるが――」
「蝶姫様」
蝶が書見台の本をめくったところで、蝶付の侍女がいざり出た。何かを耳打ちする。蝶は眉根を寄せたが、月付の侍女の手前か、取り乱したそぶりは見せず、立ち上がった。
「すまぬ。急用が入ったゆえ、一時失礼する。続きはあとじゃ。桜は蝶が戻るまで月の相手をしてやってくれ」
一緒に退室するものと思っていた桜は、降ってわいた話に、一瞬反応を遅らせる。同じように考えていたらしい月付の侍女があからさまに嫌な顔をした。残された桜は小さく詫びて、書見台に残された書を片付ける。蝶がいる間はかろうじて対座に座っていた月は、水干をひらりと翻して、外へ出て行ってしまった。月様、と侍女が声をかけるが、反応はない。月は簀子縁にめぐらされた欄干によじ登ると、手摺に腰掛けた。すでに慣れたものなのか、侍女も匙を投げている様子で、月が散らかした懐紙をしまっている。
「あの……」
「無駄ですよ」
桜の言葉を先回りして、侍女が息をついた。
「あのものは、好きにさせておけば、よいのです」
あのもの、というのは月皇子のことだろう。鬱金の時代からの侍女だと聞いたけれど、ずいぶん他人行儀な言い方をするのだな、と思った。桜の様子に割り切れないものを感じ取ったのだろう。「こちらの言葉も解しませんから」と侍女は肩をすくめた。
桜は欄干に腰掛け、風に髪を揺らしている月を見つめる。
なまじ整った容姿をしているためか、月の姿はさながら精緻な人形だ。前髪越しに世界を眺める眼差しは、玻璃めいた透明さがあった。
「何を見ているのです?」
淡い切なさに駆られて、皇子の隣に立つと、声をひそめて尋ねる。月は前髪越しに広がる庭を見ているだけで、こたえなかった。もとより聞いてもいないのだろう。蝶の声も。侍女の声も。何ひとつ。桜の問いかけをつゆとも介さず、月は不意に肩を震わせた。人形にふっと魂が宿ったかのように、はっきりと何かを見据える。
「殿下?」
「ううううう」
急に唸り声を上げるや、月は欄干から飛び降りた。あまりにもすばやい身のこなしであったため、桜も最初、何が起きたのかを理解できない。そのわずかな合間に月は放たれた弾丸のように庭を駆け、ちょうど茂みのあたりで何かを漁っていた犬に体当たりをする。
「殿下!?」
音に気付いた侍女が悲鳴を上げる。月を追って桜もひらりと欄干から庭へ降りた。袿が重かったので、上の何枚かを脱ぎ去って月のもとへ走る。迷い犬らしい。痩せて骨が浮き出た犬を月は蹴り、何度も殴りつけた。弱々しい鳴き声を上げて、犬が身体を丸める。月は荒く息をつき、足元に転がっていた石をつかんだ。
「でんか!!!」
とっさに桜は後ろから月の身体を抱きしめた。つかんだ石は犬に当たらず、ぽろりと足元に落ちる。犬がおびえた様子でその場から逃げ出す。
「ううー!!!」
唸り声を上げて、月は桜の腕に噛みついた。暴れて、手当たり次第にこぶしを振り回す。先ほどまでの人形めいた無表情が嘘のような剣幕だった。月がいったい何に怒って、何に憤っているのか、桜にはわからない。けれど、あのまま止めなければ、この子どもは犬を殺していただろう。
「殿下!」
見とがめた侍女が月の身体を桜から引き離す。むずがるように手足をばたつかせた子どもは、疲れた風に頭を振ると、きゅっとこぶしを握り締めた。色褪せた常盤の布が指の間から微かにのぞく。庭のほうへ目を戻す。先ほどの迷い犬が咥えていたのも、そういえば同じ色の切れ端だった。