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四章、炎天(10)




 はらり、はらりと、曇天から舞い落ちる雪片を桜は見上げた。
 花びらにも似た牡丹雪は肩口に触れると、すぐに消えいってしまう。赤らんだ手をこすり合わせ、息をふきかける。目的の場所にたどりつくと、背筋を一度すっと伸ばして、桜は几帳や屏風で仕切られた部屋に踏み入った。控えていた侍女が疎ましげな視線を寄越すが、すでに文でうかがいを立てた件なので、やわい微笑みを返して取りあわない。

「月殿下」

 几帳に隠れて丸まっている子どもに、桜は声をかける。しかし、月はちらとも反応を見せない。昨日のことが気にかかり、桜は日をあらためて、月のもとへ向かっていた。蝶の講義は三日に一度で、今日はその日ではない。

「少し、おはなしできませんか」

 諦めず尋ねるが、返事は返らない。観念した桜が几帳を動かそうとすると、「おやめください」と控えの侍女が眦を吊り上げた。

「繊細な御方なのです。殿下をおびえさせるふるまいは慎みください」
「おびえさせるつもりは、」
「おびえています」

 侍女が言うことは的を外れていることが多かったが、今回ばかりは嘘ではないようだ。几帳を取り払われそうになった月はますます小さくなって、櫃の後ろに隠れてしまった。

「だいたい、きのうもあなたさまがあのように乱暴にお止めするから。葛ヶ原とは噂通りの野蛮な地でございますこと」
「……葛ヶ原のひとびとはみな穏やかです」

 自分のことはともかく、あの風吹き渡る土地までも悪く言われるのは耐えかねて、桜は言い返した。左様ですか、と首をすくめる侍女はさして関心もなさそうだ。小さく息を逃して、桜は櫃にぎゅっとしがみついている月を見やった。ふと妙な既視感に囚われ、微かに眉をひそめる。

「……あ、」

 俯きがちに震えている子どもの姿に蘇るものがあって、桜はなんともいえない曖昧な笑みをこぼした。思い当たってしまった。この子どもは、かつての自分だ。ひとが怖くて、身体を丸めておびえていた頃のわたし。
 桜にとって、世界は当たり前のようにやさしいものではなかった。どろどろした欲と、ざらざらした冷たさと。唯一の風除けとなってくれた縫が死んだあとは、たくさんの恐ろしいものたちから自分を守るので必死だった。傷ついて力なく丸まったわたしの前に、あのひとはどんな風に現れたのだっけ。どんな声で、どんな表情で、導いてくれたのだっけ。心を奥に閉じ込めていたわたしを。

「月殿下」

 膝をつくと、桜は月の前へ手を差し出した。前髪越しにそろりと視線が向けられる。長いこと、月は桜の手のひらを、そこになよやかにかかった常盤色の布の切れ端を見つめていた。きのう、庭に入った迷い犬が咥えていたものだ。今朝がた、探し当てて返してもらった。

「この布をお探しでしたか?」

 尋ねると、おずおずと伸ばされた手が切れ端を握り締める。月が持っていたものと合わせると、ちょうどひと繋がりの布切れになる。たどたどしくふたつを繋ぎ合わせ、月はそれを腕に結ぼうとした。けれど、片手ではうまくいかないようだ。はらりと落ちかけた切れ端を受け止めて、桜は月の細い腕に手を添えた。

「殴らずとも、頼めば、ちゃんと返してくれます。あの子たちはみんな心がやさしいから」

 話しながら、蝶の講義の間中、ときどき月が腕をさすっていたあたりに切れ端を結びつける。月は身を固くしたまま、それでも黙って布が結ばれるのを見ていた。はい、としまいに蝶々結びにすると、小さな手のひらがそっと腕を引き寄せた。

「殿下、その布は……」

 ぶんっとかぶりを振ると、子犬さながらの俊敏さで、月は几帳の向こうに駆け去ってしまった。小さな足音が遠のくのを見送って、桜は肩をすくめる。もう少し話ができるかと思ったのだけど、なかなかうまくはいかないらしい。
 布色には覚えがあった。
 常盤は雪瀬が参内する折、しばしば身に着ける色である。確証はないが、あの皇子の腕に衣を裂いて結んでやったのは雪瀬である気がした。ためらいなく自らの衣を裂く手が桜には見える気がしたのだ。
 そして、いっとう大事な宝物にそうするように、腕を引き寄せる月の横顔を見たとき。やっぱりあの子は女の子ではないかと思った。何かを乞うてうなだれる子どもの顔は、桜にはあまりに覚えがあるものだったからだ。


 雑事を片付けると、桜は日が暮れる前に姫宮御殿から下がった。迎えに来てくれた無名と落ち合い、丞相屋敷へ向かう。桜が住んでいた頃から、屋根瓦が壊れ、しばしば雨漏りをしていた屋敷は、久方ぶりに見上げても、やはり古びたあばら屋のままだった。おざなりに置かれた門番に取次を頼むと、すぐに屋敷の女主人自ら戸を開けてくれた。

「いらっしゃいませ、『姉さま』」
「柚」

 現れた変わらない面影に、思わず顔を綻ばせる。都に入ってから、文を交わしてはいたが、実際に顔を合わせるのはこれが初めてだった。桜の髪や被布に絡んだ雪片に気付くと、あらあら、と苦笑して、柚葉は屋敷のうちへ桜と無名を案内する。客間に据え付けられた炭櫃がちろちろと赤く燻っている。押し寄せた暖気にくしゃみをして、桜は柚葉が渡してくれた手拭いで髪や衣を拭いた。

「寒かったでしょう。今熱いお茶を淹れます」
「柚、わたしが」
「お客様はそこでお待ちください?」

 腰を上げかけた桜を押しとどめ、柚葉は厨へ向かった。残された桜は髪を拭いながら、柚葉が去った廂のほうへ視線をやる。音もなく降る雪が欄干にうっすら積もっていた。――ここはとてもさみしいところ。三年間、この屋敷で暮らしていた桜には容易に思い起こすことができた。橘のお屋敷で生まれ育った柚葉の目にはどう映っただろうか。

「桜さま?」

 ぼんやりと外を眺めていた桜を不思議に思ったらしい。手に盆を抱えて戻ってきた柚葉が声をかける。なんでもない、というように首を振って、あのね、と桜は懐にしっかり入れていたものを取り出した。

「きのう、おまんじゅうを蒸かしたの。冷たくなってしまったけど……」
「おまんじゅう」
「あんこがたくさん入ってるよ」

 丞相屋敷にいた頃は、暇さえあれば、自分で甘味を作って食べていた。橘の家に入ってからは、手慰み程度にしか作ってなかったけれど、各種甘味は、桜の唯一といってよい特技である。柚葉と無名においしく食べてもらえたら、あしたは蝶と、それから月のもとへ持って行こうと思っている。御毒見が必要だと、例の侍女にまた睨まれてしまうかもしれないけれど。
 
「桜さまは本当にどこにいらしても変わらない」
「……そう、かな」
「そうです。お皿を出しますね」

 目を伏せて微笑むと、柚葉はお茶を桜と無名に差し出す。もともと用意されていたお茶請けと一緒に、まんじゅうも食す。皮は菓子屋のそれよりもぶ厚くなってしまったけれど、白あんがほろりと口の中で溶けておいしい。

「月殿下のほうはいかがですか」

 熱い茶を啜ってひと息をつくと、柚葉が尋ねた。お椀を手で包みながら、桜は短い間考える。

「すこし――、不思議な子。前髪を目にかかるくらいに伸ばしているの」
「噂には聞いたことがあります。殿下は緋の眸を隠されているのだとか」
「蝶が皇族には普通、見られないことだって」
「ともしたら、氷鏡藍のほうが白雨の血を引いておるのかもしれませんね。何しろあの容姿ですし、月詠と行動をともにしていたことを考えますと」
「……それと、」

 言いかけて、桜はしばしためらう。まだ証拠もない話のため、柚葉に話してしまってよいものかわからなかったからだ。言い澱んでしまった桜に、「それと?」と柚葉はやさしく先を促す。

「自分でもよくわからないのだけど、」
「ええ」
「もしかしたらわたしが変なのかもしれないけれど、」
「ええ」
「おうじ、が、おうじょ、に見える」
「はい?」

 平静を装っていた柚葉が思わずといった様子で素っ頓狂な声を上げる。黙ってまんじゅうを食していた無名もいぶかしげだ。ふたりの反応に自信を無くしてしまって、桜は俯いた。

「月殿下がおんなのこに、わたしには見えるの」
「……それはつまり、あるべきものがなかったと?」
「殿下には決められた女官のひとしか触れられないから、わからない。でも、そんな気がする」

 どうにも的を射ない桜の物言いに、柚葉と無名は顔を見合わせた。ふう、と先に息を吐き出したのは無名だ。

「こいつにはわりとこういうところがある。動物の勘というのか……。しかも結構、当たることが多い」
「確かに、伝承では緋の眸は白雨一族の女子のみにあらわれるものでしたね。氷鏡藍の両親は毬街の商人、でしたか。試しに素性を当たってみましょうか」

 思案げに唇に指をあてる横顔によぎるのは、ただの好奇心ではなさそうだ。

「桜さまの仰ることが本当なら、これは大変なことになりますよ」

 状況についていけずにいる桜を振り返ると、柚葉は言った。

「何せ、この国の皇位は男子継承。月殿下が女児だというならば、皇太子の地位そのものが危うい。月殿下を推す丞相一派は、足がかりを失うことになる」

 宮中は今、月を推す丞相派と今上帝である朱鷺派に分かれて争っている。その争い自体を無に帰すほどの切り札となりえるのが月だと、桜にもようやく理解できた。

「こちらもこちらで調べてみます。桜さまはくれぐれも月皇子から目を離すことがないように」
 
 柚葉の言葉に、桜は小さく顎を引いた。





 雪降る夜、赤の殿では釣り灯籠の明かりが落とされているせいで、ひとがまるで寄りつかない。その中でひとつ、暗い室内に蜜蝋が灯されている。隙間風に吹かれて、じじ……と揺らめきを見せたそれを月詠は手で囲った。はずみに弱い空咳を繰り返す。

「月詠さま」

 今の時分にはそぐわない、一匹の蠅が御簾のあいまから入り込んだ。暗がりに幽然とたたずむ少女に気付いて、「白藤」と月詠は呼ぶ。十人衆のうちでも、諜報を主とする白藤は表立っての官職もなく、外の者にはほとんど存在を知られていない。丞相屋敷にはときどき飯を食いに来ていたので、せいぜい桜くらいか。何年経っても、十五、六の姿を変えない少女は、操る蠅を指に留まらせて数歩離れた場所に膝をついた。

「お呼びですか」
「ああ。院の崩御から一年。そろそろ頃合いかと思ってな」

 長きに渡る喪も、先日ようやく最後の儀式が執り行われて、完全に明けた。とはいえ、年中黒衣で通している月詠にはさしてその実感はなかったが。

「万葉山のふもとに黒鳥居の社がある。神主は先年亡くなって、今はあばら屋だ。仔細は前に伝えたとおり。できるだろう」
「はい」

 白藤という少女は、拝命時に必要な「ハイ」と「イイエ」以外、余計なことは一切口にしない。必要最低限のやり取りを終えると、いつの間にか姿を消しているのが常であったが、今日は珍しく何かに逡巡する様子を見せた。

「どうした?」
「屋敷に、サクラ、来てた。おまんじゅう、置いていってた」
「ほう」
「ツキの性別のこと、気にしてた。オンナじゃないかって」

 ほう、とうなずく声には、薄い笑みが含まれている。たったひと月で、これまで宮中の誰も気に留めなかった事実にあの娘が感づいたことは、正直意外だった。蝶姫の側仕えとして桜が上がる話は月詠も聞いていたが、取るに足らない些事ゆえ、特に警戒もしていなかったのだ。
 桜というのは、つくづく奇妙な縁を持つ娘である。
 この宮中に集う人間たちと比すれば、駆け引きに足るだけの度量も経験も、才覚もない。そのくせ、ときどき無為に月詠の前に現れては、ひょい、と盤面をひっくり返してしまったりなどする。本人にその意思はない。ただ、誰かのために必死にやったことが、結果として別の場所に思わぬ影響を与える――そういう星を持った娘のようである。

「しかし、今回は遅い」

 独白めいた呟きを漏らし、月詠は硯に置いた筆をとった。めずらしいな、と再び白藤のほうへ意識を向けて呟く。

「おまえがひとの名前を覚えているなど」
「ごはんをくれないひとはキライ」

 唇を尖らせる白藤の表情に、思いのほか人間らしいものを見てとって、月詠は苦笑する。さして何かに心を動かすことのない娘であったが、桜が丞相屋敷にいた数年ののち、世の中の人間がごはんをくれる人間とくれない人間で大別されるようになったらしい。そうか、とうなずくと、白藤はそれで話は終わったものだと思ったらしく、現れたときと同じ唐突さで姿を消した。ぶん、と蠅の羽音が耳朶に触れたが、それもすぐに遠のく。

「細い綱の上か」

 輿入れしたときの柚葉の言葉を思い出して、低く咽喉を鳴らす。はずみに空咳がまたひとつこぼれて、蜜蝋の炎をかき消してしまった。煙がたゆとう暗がりの中、月詠は呟いた。

「筋書き通りに踊ってくれよ、葛ヶ原領主」




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