葛ヶ原の里桜は、盛りを迎えていた。
綻んだそれらを見上げ、桜は春の小道を歩く。花のひとひらが手を繋いでいた少女の鼻をくすぐり、小さなくしゃみが弾けた。うう、と赤い鼻を啜る少女に苦笑して、「ほら、月」と衿から懐紙を取り出す。
畑の間を流れる小川で水を汲み、木で組まれた階段をのぼる。月は桜と繋いでいないほうの手に水仙を握っている。高台にある墓前に供えるためだ。
一段、また一段とのぼるにつれて、視界がましろに染まる。光射す花群れには、どこか現離れした美しさがあった。ひときわ大きな老樹の下に立つひとを見つけて、桜はほのりと目を細める。そのひとの肩には一羽の白鷺が留まっていて、少しの間言葉を交わしていたが、そのうち、さっと翼を広げた。空を翔ける白鷺を見送り、桜は花びらをいくつもくっつけた背中に声をかける。
「雪瀬」
気付いて振り返った雪瀬の腕を、ててて、と駆け寄った月がつかむ。
「すいせんもってきた」
「へえ、月が見つけたの?」
「きんいろ。ぴかぴか。すごくきれい」
腕に頬をくっつけて、心地よさそうに目を瞑る月の頭を雪瀬がかき回す。そうすると、ころころと鈴のような笑い声が立った。
「扇と何のはなしをしていたの?」
「颯音兄とゆきが帰ってきたんだって」
声は平素を装っていたが、俯けた顔は存外素直だった。こらえきれずに頬を緩めている雪瀬につられて、桜も微笑む。
「雪瀬。すごく、うれしそう」
「……ええ、そんなにわかる?」
「わかるよ」
手桶を左に持ち替え、並んで樹を見上げる。今は国の官吏として丞相補のもとで働いている男は、蜷との交渉ごとを済ませたあと、ひとりこちらに立ち寄ったらしい。老齢の域に入った馬の風音が、まどろんだ顔で尾を振っていた。
炎天の乱後。
雪瀬は使者の任を果たせなかったことや、糸鈴城館の攻防にまで事を発展させたことを理由に、検察使の職を朝廷に返し、葛ヶ原領主の座を退いた。惜しむ者もいたが、意志を翻すことはなく。首謀者である葛ヶ原領主が自ら幕を引いたため、速やかに事後処理が進んだのだと、のちに漱が教えてくれた。
そもそも、雪瀬はあのあと目覚めるまでにひと月、普通に生活できるようになるまでに半年の月日がかかったのである。瀬々木医師や朧にすれば、それでも生きていただけ奇跡に近いのだという。崩れ落ちた城館から雪瀬は見つからなかった。何者かが少し早くに助け出していたらしい。その「何者か」は雪瀬を千鳥たちに預けるとすぐにいなくなってしまったし、尋ねても雪瀬は決して明かそうとしないので、仔細は定かでなかったが。
城館の焼け跡から、月詠の遺体が見つかることはなく、また、月の無事を確かめた翌朝、藍も陣幕からいなくなった。詫びる書き置きと、娘の幸福を願う糸鈴の守り鈴が首にかけられていた。その鈴は今も月の首にかかっている。
性別を偽った月の扱いは難しかった。
皇女に戻す手立てもあるが、と思案げに呟いた朱鷺に、桜は首を振って、叶うなら月皇子を死んだことにしてほしいと言った。
『それでどうするのだ?』
尋ねた朱鷺に、桜はわらった。
『わたしたちがお育てします。いつか、藍が迎えにくるまで』
それは月自身が望んだことでもある。
桜の言葉に何を思ったかは知れない。けれど、朱鷺は口元に笑みを湛えて、『さようか』とうなずいた。肉親の情を感じさせる、あたたかな笑顔だった。以降、月の記録は公から抹消され、藍が産んだ皇女は桜と雪瀬の養女として、葛ヶ原で育てられていた。
「そういえば、さっき扇から預かりものをしたんだった。月にって。扇も兄から、兄も道すがら出会った『旅人』から渡されたらしい」
「たびびと?」
「そう。たぶん、月をずっと見守っているひとから」
含みのある言い方をして、雪瀬は懐から小さな包みを取り出した。今は前髪を切り揃えている月は、緋の眸をきょとんとさせて、包みを受け取る。くるんだ懐紙の中には、花の種が入っていた。ぜんぶで十。月の歳と同じ数だけ贈られる花の種は、この三年欠かすことなく、春の頃になるとどこからともなく届く。いつかの芽吹きを待つように。
「植えようね、また」
これまでに植えた若木は、高台のかたわらで少しずつ枝を伸ばしている。十年、二十年が経つ頃には、ここも花でいっぱいになるにちがいなかった。送り主をなんとなく察しているのか、それとも、まだその深淵は十歳の少女にははかりしれないものなのか。神妙そうな顔でうなずくと、月は並んだ墓石のほうへ駆けていった。持ってきた水仙を供えて、手を合わせる。
「花たくさん、咲いたね」
「今年はすこしはやかったな」
幹の表面をさらりと撫でて、雪瀬は老樹から離れた。でこぼこした木膚には、刀でつけたような、古い三本の傷痕がある。葛ヶ原では願いごとをするときに、木膚に刀を立てると聞いた。彼の手がずっとそのあたりに触れていたのに気付いて、「お願いごとをしていたの?」と尋ねる。案の定、雪瀬は悪戯がばれたときの子どものような顔をした。
「どんなお願い?」
「……内緒」
歯切れ悪くこたえたあと、雪瀬は気を取り直した様子で、老樹を見上げた。
「それに、本当はもうずっと前に叶ってるんだ」
「そうなの?」
「うん。だからお礼を言っていただけ」
芽吹きを迎えたみどり野に、風が吹いている。髪をかき乱す風に心地よさげに目を細め、雪瀬は足元に広がる大地を見渡した。
「生まれてきてくれてありがとう、」
はやく、うまれておいで――。
やさしい呼び声がふいに耳奥で蘇った。それは遠いむかしの、はじまりの記憶。胎に手を添えた両親がまどろむわたしに語りかける。わたしたちのいとしい子。はやく、この世界においで。この、冷たくて、ときに多くを奪い去っていく、だけど、いとおしい世界に。どうか恐れないで、目をあけて。
「俺のところに走ってきてくれて、ありがとうって」
あなたを待っているひとが、きっとその先にいる。
刹那、花がいっせいに舞って、風が吹き抜けた。花群れのあいま、天穹から細い光が射す。泣き出しそうになって微笑み、桜は差し出された手に手を重ねた。
「春らんまん」
歌うように口にした桜に、雪瀬は目を伏せて、わらった。
「きれいだ」
そうして、手を繋いで歩き出す。
数百年にわたる悠久の生を女は風の里でまっとうしたそうだ。
さいごは約束どおり男が迎えにきたと、そう伝えられている。