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終章、蒼穹、その果て(2)




 みどりの浅瀬に寄せる波に、白い花びらが混じるようになる。
 近付いてきた故郷を船の甲板から見渡して、颯音は目を細めた。潮風を受けた帆が大きく翻る。昨年、都の玄関口・霧井から葛ヶ原へは船の定期便が出るようになった。これは今代の女領主が辣腕を振るって、葛ヶ原湊を整備したことによる。

「霧ヶ浦もすっかり湊町の様相ですねえ」

 隣に立った透一が手で庇を作って呟いた。春の葛ヶ原は山から里に至るまで花霞に包まれている。沖で船が停泊し、乗客を乗せた小舟が湊との間を往復する。ずた袋を担いで、葛ヶ原で下りる人の列に加わりながら、颯音は途中の経由地ですれ違った男女のことを思い出していた。
 男は片足と片腕が不自由らしい。寄り添う女が健気に手を貸して、小舟に乗せていた。颯音が乗るものとは別の船だ。男を支える女が不意によろめいたので、颯音はそっと手を差しだした。深い藍色をした双眸とひととき目が合う。けぶるような睫毛が震え、女は微かに息をのんだようだった。

『どちらへ向かわれるのですか』

 小舟に座した男の顔は、颯音には見えなかった。つかんだ手を離して尋ねると、女は帯につけた鈴の根付に触れながら、口を開く。

『北の……糸鈴へ。あなたは?』
『東の葛ヶ原へ』

 返答の奥に互いに秘めた想いを察した。よい旅を、とやがて告げた颯音に、よい旅を、女も淡く微笑って返す。在り日の凍てた美貌が解けたかのような、やさしい微笑みだった。そのまま過ぎ去ろうとした颯音の腕をふと思い立ったように女がつかむ。

『旅人さん。もし葛ヶ原へ帰るのなら――……』

 そのとき託された包みは今、懐紙にくるんで颯音の胸に入っている。

「颯音さん、僕たちの番ですよ」

 つかの間の回想にふけっていた颯音は、透一に促されて視線を上げた。春の穏やかな海原を渡り、ひとがにぎやかに行き来する湊へ下り立つ。十三年。十三年ぶりである。葛ヶ原へ帰るのは。大地を踏みしめた瞬間、吹き抜けた風に身体ごと持っていかれそうになる。防砂のために植えられた木々がさわさわと若葉を揺らしている。なだらかな山の稜線。道を越えると広がる田畑。変わったものもあれば、変わらないものもあった。

「これからどうします?」
「そうだねえ、まずは……」

 荷を肩にかけ直して一本道を歩いていると、防砂林のひとつに背を預けて立っている人影を見つけた。かたわらには、愛馬らしい黒毛が寄り添っている。先に気付いた透一が足を止めた。こちらを振り返った顔には、してやったりというような満面の笑みが乗っている。

「じゃあ、僕は別の道から帰ります。じいさまや家族の皆にも顔を見せてあげなくちゃ」
「ちょっと、ゆきくん」
「長旅、お疲れさまでした」

 明るく放たれた言葉にこもった想いに、気づかないわけではなかった。複雑な気持ちになって顔をしかめると、透一はそんな胸のうちすらお見通しといった様子で、目を弓なりにしている。

「あなたと旅をご一緒できてよかった。この十三年は僕の誇りです」
「……それは」

 それは自分が言うべき言葉だ。
 きみが隣にいてくれて、よかった。きみがいなければ、途中できっとくじけていた。この、いつ終わるとも知れない旅の重みに潰されて。
 けれどそういった御礼の言葉がすぐには口をついて出てこない。有難う、と結局、短く呟いた颯音に、透一は微笑んだ。

「もう逃げちゃあだめですよ」
 
 軽く背を押して、立ち去った青年の気遣いに、少々ばつの悪い気持ちに駆られる。しかし今さら方向を変えることもできない。しぶしぶ樹下に立つ女の前に進み出ると、黒毛が忌まわしげに鼻を鳴らした。

「……船の日取りを伝えていたっけ」

 久方ぶりの再会となるのに、颯音の口から出てきたのは何故か情緒もへったくれもない、普通の言葉だった。対する薫衣はそれを揶揄するでもなく、「都にいる苑衣のばあさまが教えてくれた」と律儀に答える。目を合わせる。淡茶の髪は肩上でこざっぱりと切り揃えられ、意志の強い眼差しも、きりりとした眉も、まるで変わらなかった。懐かしさよりも不思議な感慨が押し寄せて、颯音は口を閉ざした。

「遅い」

 薫衣の発した言葉は端的だった。腕を組み直して大仰に息をつき、「遅い。遅すぎる」とさらに言い募る。

「いったい何年待たせる気だ。私はわりと気が長いほうだけど、いい加減ひからびて死ぬかと思った」

 いざ口をひらけば、次々文句を言い立てられる。高すぎず、けれどおなごのまろやかさもある声は、どうにも心地よい。何かを言ってやりたいのに、言葉が思い浮かばず、颯音は目を伏せた。近すぎず、遠すぎず。奇妙な距離を保つ男女の間に、葛ヶ原の爽風が駆け抜ける。

「……ごめん」

 考え抜いた末に搾り出した言葉は、その割にありきたりなものだった。苦笑がこぼれてしまって、颯音は困った風に眉をひらく。

「まだ間に合いますか、薫衣さん」

 瞬きをしたのち、薫衣はわらった。昔と変わらない、お天道さまが似合う朗らかな笑い方だった。

「一発殴らせてくれるならな。――おかえり、颯音」

 奇妙に開いたままの距離が弾けるように消える。腕の中に飛び込んできた女を抱き締めて、颯音は細く息をついた。視界が不覚にもゆらぐ。こんな風に、腕に抱くことはもうできないと思っていた。できないと、思っていた。この旅に果てがあるなんてずっと信じられないでいた。ただいま、と呟く。ただいま。……ずっと、ずっと待っていてくれて、有難う。あふれるものをこらえきれず、何かに祈るように目を瞑った。重なったふたつの影をことほぐように、風が駆け巡っていく。
 




 男が久方ぶりの帰還を果たしたその頃、橘の宗家屋敷では今代当主の強烈な一言が飛んでいた。

「お断りします」
「ですが、領主様」
「あいにくと、私に再婚の意思はありませんので」

 橘宗家十一代目当主――橘柚葉は、鉄壁の笑顔で雀原の長老の言をはねのける。その笑顔に殺気すら感じたからかもしれない。ひっと息をのみ、雀原は逃げるように部屋を出て行った。

「あなたさまはまたそのように邪険な扱いをされる」

 やれやれと肩を鳴らす柚葉に、茶を片付ける青年が苦笑気味に呟く。黒髪に朝空と同じ色の持つ青年。今は暁の名を改め、耀(あかる)と名乗っていた。柚葉が葛ヶ原に連れ帰った際、つけた名前である。

「邪険になど。結婚の意思がないだけです」
「さりとて、いずれはあなたさまも伴侶を持たなくてはなりますまい」
「まあ、いずれは」

 首をすくめて、柚葉は肩にかかる濃茶の髪を払った。火急の用と聞いてわざわざ時間をあけたのに、とんだ肩透かしを食らった。先送りにしていた案件を片付けようとひとを呼びかけて、別のことに気付く。
 
「千鳥。白藤。それと、竹」

 細く開いた障子に向かってじっとりと睨めつけるような視線を向けると、千鳥は淡然と、白藤はしょんぼりと、竹は興味津々といった様子で顔をのぞかせた。ついでに無名や沙羅と空蝉までいて、「おまえたちは」と呆れて息を吐く。

「揃いも揃って暇なんですか?」
「だーって柚葉さまの結婚なんて、気になるじゃないですかあ! 私たちも身の処し方を考えなくてはなりませんし、そりゃあお見守りもしますって」
「それより仕事をしなさい。まったくあなたがたときたら……」
「おい、いるか柚葉!」

 さらにふたつみっつ小言を連ねようとした矢先、外から一羽の白鷺が飛び込んでくる。次いでもたらされた報に、皆の顔に喜色が広がった。

「颯音さまと透一さまがお戻りに!?」
「こうしちゃいられない。迎えを出そう」
「私! 桜さんたちに伝えに行ってきます!」
「というかあのひと! あのひとは今どこほっつき歩いてるんでしたっけ!?」
「確か蜷から帰ってきて……」
「じゃあ、私が馬でひとっ走りしてきます!」
「いや、それなら俺が」
「――おまえたちちょっとは落ち着きなさい」

 騒然となった場を手をひとつ叩くことでおさめて、柚葉はそれぞれに役割を言いつける。先代から役目を継いで三年。すっかり慣れた采配だった。

「かしこまりました!」

 声を揃え、嵐のように散った一同を見送って、ひとり濡れ縁に出る。屋敷の庭には春の野草が咲き乱れていた。昔は荒れ放題だった庭も、桜が世話をし続けたおかげで、すっかり息吹を取り戻した。膨らむ蕾に目を留めて、柚葉は眦を緩める。待ちわびていた春の気配をすぐそばに感じていた。幼い柚葉が兄ふたりを追いかけながら、思い描いた光景。芽吹きの盛春が。
 ねえ、聞こえていますか。大地にねむるひとたちよ。
 わたしたちの葛ヶ原に春がやってくる。
 待ちわびた春が。

「柚葉さま?」

 青年の呼びかけに、柚葉はくすりと笑ってその場から離れた。
 
「さあて、今日も忙しくなりますよ、耀」
 
 濃茶の髪をひるがえし、前を見据える。
 こののち、長く葛ヶ原に繁栄をもたらすことになる若き女領主の頭上では、風に吹かれて、花の若木がさざめている。




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