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終章、蒼穹、その果て(1)




 炎天、と呼ばれた乱ののち。
 復位した朱鷺帝が最初に出したのは乱の終息宣言だった。
 これにより双方の陣営が干戈を下ろすに至ったものの、特に丞相方に与した者には、官職からの追放や領地の一部没収といった処罰が科された。月詠の腹心であった十人衆も解散を余儀なくされたが、その頃には彼らは影のように市井に紛れ、見つけることはできなかったという。
 乱の以後、丞相月詠は消息を絶っている。
 先帝の妃だった藍や月皇子そのひとについてもしかり。焼け落ちた城館からはひとつの遺体も見つかることなく、少数の負傷者のみを出して乱は終結した。後世、史書に短く記述されるにとどまったこれが、炎天の乱のすべてである。
 そして、――三年後春。都・紫苑(しぞの)。

「颯音さま!」

 殿中の床を鳴らす足音に気付き、颯音は振り返った。駆けてきたのは、亜麻色の髪を結えた長身の男――百川漱である。月詠が去った朝廷で、先年から丞相補について内政を取り仕切っている。先代おなじみの黒衣ではなく、薄水の明るい直衣をつけた男は、「こんなところにいらした」と切らした息を整える。漱が現れると、欄干に腰掛ける颯音の腕からひゅるりと白い鳥影が飛び立った。

「今の――……、葛ヶ原で何かあったんですか?」
「いいえ。あなたこそ、何かありました?」
「やりましたよ。お妃さま、ご懐妊です」
「それはまた」

 興奮気味に頬を紅潮させた漱に対して、颯音のほうはさして驚いたようでもなく、手摺に落ちた鳥の羽を拾っている。

「奥手そうな帝がねえ。意外に早かったなあ、あのひと」
「お妃さまがいいんですよう。ふふん」
 
 相手が颯音であるので、漱も素の口調を崩さない。苦笑して、「おめでとうございます、漱さま」と颯音は姿勢を正して礼をした。漱は先年輿入れした朱鷺帝の正妃・百川紫陽花の親族にあたる。
 紫陽花が嫁ぐことに決まったとき、当初さまざまな憶測が飛んだが、実際のところは数ある候補の中から朱鷺が見初めたらしい。というのは、この三年ほど朱鷺に近侍していた颯音だからこそ知る事実だ。漱のほうは無論、いつもの抜け目のない立ち回りで周囲を説得し、この良縁を成就させたにちがいないけれど。

「ちょうどよかった。私もあなたのもとへうかがおうと思っていたんです」

 欄干に並んだ漱に、颯音は切り出した。

「すでに帝からのおゆるしは得たのですが。暇をいただこうと思いまして」
「……また旅に出られるんですか?」
「いいえ。葛ヶ原へ戻ります」

 この三年、朱鷺帝のために各地の争いの芽を摘み続けた颯音である。しかし、丞相補についた漱に加え、検察使の網代あせび、正妃の紫陽花や皇弟である皇祇の支えもあって、朱鷺帝の世も落ち着きつつある。都での自分の役割は終わった、と颯音は思っている。

「それは……さみしくなりますねえ」

 勘のよい男であるので、どこかで予期していたのだろうか。しんみりと呟く漱の声に、その話を申し出たときの朱鷺帝の声が重なる。
 ――それはさみしくなるのう。
 朱鷺帝は御簾を引き上げて話をすることを好む。相手の顔がよく見えたほうが胸のうちを判じられるからだそうだ。広げた扇をゆるりと振って息をついた朱鷺に、『長い間、お世話になりました』と颯音はこうべを垂れた。

『引き止めても、無駄なのだろう?』
『実はもう帰りの船を取っていまして』
『ぬけぬけと言いよる。まったく自分勝手な男じゃ』

 言葉ほどには腹を立てている風ではなく、むしろ機嫌よく朱鷺は咽喉を鳴らした。

『南海の地で、そなたと出会ったのがもう十年以上前か。ついきのうのことのようであるのに……互いに年を取ったものよのう』

 嵐の夜、卒然と現れた男を思い出して、『ええ』と颯音は口端に笑みを乗せた。
 十年、正確にいえば十三年前だ。すべてを失って途方に暮れていた自分の前に、この男が現れたのは。
 要らぬなら、その命を俺のために使え。
 そう言い放ち、朱鷺が差し伸べた手を、颯音は取らなかった。意地になっていたのだ。あの頃の自分はまだ青二才と呼べる年頃だったし、今よりずっと頑固だった。無礼者だと、捨て置いてもよかったはずだ。けれどあの頃から朱鷺は奇矯なたちで、ならば対等な立場でかまわないから、ともう一度手を差し出してきた。
 ……今は、感謝している。どんなかたちであっても、あのとき朱鷺が手を差し出してくれたから、颯音はもう一度歩み始めることができた。苦しくてもみじめでも、しがみつくようにその先へと進むことができたのだ。

『あの地であなたにお会いできてよかった』
 
 めずらしく素直に颯音は胸のうちを吐露した。意外に思ったのだろう。かたちのよい眉をひそめた朱鷺を見上げ、一歩膝を進める。脇息にもたれる帝のかたわらには、青磁の花瓶に橘の枝が生けられていた。みずみずしい葉をさなりと茂らせた常磐の。

『この先、あなたの御身に災いが降りかかりしときは。必ず、私が退けると誓いましょう。お呼びください、いつでも。橘はとこしなえにあなたとあなたの血に連なる者を守る。あなたの御代がこの先も栄えますように』

 その声は朗々と昼の御座に響いた。新たな時代に漕ぎ出でる船へのことほぎのように。あるいは、曠野をひとり駆ける獣への賛歌のように。心地よさげにそれに耳を傾け、朱鷺は笑みを深める。扇を閉じ、おもむろに腰を上げた男に促されて、颯音も立ち上がった。目線はちょうど同じくらい。ひとさしの枝の代わりに、こちらに向かって開いた手が差し出される。

『生きよ、橘颯音』

 しろじろと光る手のひらに、眦を緩めて手を重ねる。ふたりの間に、一陣の風が駆け抜けた。それは悠久の時の先で生きたひとびとの祈りに似た息吹そのものだったのかもしれない。走れ、走れ、走れ。この曠野の果てをめざして、己の命を証しするように。走れ!
 ひととき握ったその手のぬくもりは、今も颯音のうちにひっそり息づいている。

「葛ヶ原に戻られたあとは、どうするんです? やっぱりもう一度領主につかれるんですか?」

 尋ねた漱に、颯音は苦笑まじりに首を振った。

「いいや、うまくやっている者が別にいるもの。私は私のやり方であの地を守ります」

 うんと伸びをした颯音は膨らみ始めた花蕾に目を細め、「それでは」と辞去の挨拶をする。まるで後腐れない。風のような男であったと漱はわらい、正妃の懐妊でいよいよ忙しくなるだろう赤の殿へと戻っていく。





 正妃懐妊に沸く都で、しかしただひとりしかめ面で鏡を睨みつけている姫皇女がいる。帝の実妹、蝶姫そのひとである。この歳まで独り身を貫いてきた蝶姫は、こたび老齢になった叔母に代わって、西方の社に入る打診を受けた。これは神婚といって、生涯独り身を通し、神に祈りを捧げる生活を送るということである。

「よもやここにきて神婚、とは……」

 まだ返事はしていない。しかし、叔母からの使者を迎えるため、都に置かれた分社に蝶は侍女の縞たちと入っていた。あしたから三日間潔斎をしたのち、清らかな身で使者を迎える予定である。

「よもやも何も、蝶が縁談を断り続けていたからでしょう。二十七にもなって情けない」
 
 嘆息をした蝶に、弟の皇祇が冷静な突っ込みを入れる。朱鷺帝の名代として、北方へ旅立つ船に乗ろうとしていた皇祇であるが、出立の前に蝶へ挨拶に来てくれたのだった。昔は蝶のあとについて泣きべそをかいている弟だったのに、今では皇弟として日々政務にいそしみ、その働きぶりも有能であると伝え聞く。弟の評判が高いのは喜ばしい限りだが、何やら釈然とせず、蝶は口をへの字に曲げた。

「その言葉、そっくりそのままそなたに返してやるわ。いったいいつになったら嫁取りをする気じゃ?」
「俺は兄上の片腕になるのが目下の目標だから、いいの。と言っても、俺のこの顔と仕事ぶりを見たら、国中の女が放っておかないと思うけど?」
「ふん。桜に求婚して断られていた奴がよく言うわ」
「……う、うるさいな」

 過去の古傷を持ち出すと、とたんに皇祇は頬をゆがめた。親友への初恋はいまだ、弟の泣き所であるらしい。

「桜は本っ当、見る目がないよねえ。俺と橘なら、地位でも顔でも性格でも、ふつうは俺を選ぶでしょうよ。まあそれを言うなら、蝶も十分趣味が悪いけどさ」
「ああ? いったいどういう意味じゃ」

 何故突然自分の話になるのか。わからず眉根を寄せた蝶に、皇祇は肩をすくめる。その含みのある顔が気に食わない。

「何じゃ。言いたいことがあるなら、はっきり言えい」
「そりゃあ、俺や縞としては蝶にはしあわせになってほしいから協力は惜しまないけども。でも蝶の見る目が最悪だってことは、言っておきたいよね。ほんとう……俺の大好きなひとたちってどうしてこういちいち、あの一族にかすめとられるのかな」
「おい、ひとりで喋ってないで蝶にもわかるように説明しいよ」
「しーらない。蝶が自分で聞いたら?」
 
 あっさりと説明を投げ出し、皇祇は猫のような身のこなしで立ち上がった。皇祇、と追おうとして、弟との身長差に軽く瞠目する。いつもは座して向き合うことが多かったから気付かなかった。皇祇はいつの間にかように立派な若者になっていたのか。

「蝶」

 半身を分けた弟は、翠の眸に真摯な色を浮かべて蝶を見た。

「どこにいたって俺は蝶のしあわせを願ってるよ。ひとりきりの姉上、だからさ」
「……皇祇」
「じゃあね、姉上」

 屈託なく微笑むと、皇祇は一礼をしてきびすを返す。それが何故か別れの挨拶にも思えて、蝶はいてもたってもいられず、外へ飛び出す。夜更けであるためか、肌寒い。紅梅の打掛を引き寄せて、蝶は声を張った。

「す、皇祇」
「はい?」
「達者でな!」

 皇祇は軽く目を瞠らせたあと、小さく吹き出す。

「蝶もね」

 ひらりと手を振ると、青年は颯爽と初春の梅咲き乱れる中、去っていった。

「達者で、と言われるのは蝶のほうであろうに」

 ひとりぼやくも、なんとなく御簾内に戻る気がせず、蝶は廂から空を見上げる。銀の星が幾千も瞬いていた。釣り灯籠に灯された火に時折羽虫がやってきてちらちらと音を立てる。あした迎える使者のことを考えなければならないのに、蝶の胸は重く塞がって、つい憂鬱げなため息を漏らしてしまう。いったい自分は何がこんなに憂鬱なのだろう。何に期待して、落胆した気になっているのだろう。あるいは、『誰』を待っているのか。
 と、庭の植え込みが急に揺れた。なんぞ賊か、と身構えるが、次の瞬間現れた男の顔を見て毒気を抜かれる。

「ごきげんよう、姫君。ずいぶんと夜更かしだぁね」
「何をやっておるのだ、そなた……」

 葉っぱを散らして、茂みから濃茶の頭を出したのは、蝶の護衛を長く務めていたはずの男だった。こたびの西方行きでは顔を見せず、どこへ行ったのやら、と呆れていたら。

「とりあえず出るの手伝って。尻が引っかかった」
「お、乙女の前で尻などと言うでない!」
「乙女というにはとうが立ってなぁい?」
「失敬な!」

 目を吊り上げて睥睨し、しかし生来の気性から放っておくこともできず、沓踏石に揃えてあった草鞋に足を入れて庭に下りる。よっこいせ、と蝶に手を貸されて茂みから脱した真砂は、何故か旅装だった。脚絆を履き、前にはずた袋、背には行李をくくりつけている。どうやら背の行李が椿の茂みに引っかかっていたらしい。自分よりはるかに上背がある男を見上げて、蝶は視線をやや下方へそらした。

「……なんだ。旅に出るのか、そなた」
「まぁね。あせび殿の誘いでさ、外つ国の仕事に付き合おうと思って。仕度をするのに都をあけていたら、あなたが社へ赴くっていうから、びっくりしましたよ」
「ふん。蝶を置いて好き勝手しておるそなたが今さらよく言う」
「おやおや。不服そうでいらっしゃる」
「不服など……!」

 叔母が生涯を通して果たした尊い御役目である。まだ、正式な返事はできていないが。……何故か、どうしても迷うところがあったのは事実だが。目の端を赤く染めて振り仰いだ蝶に、真砂はふいに凪いだ眼差しを向けた。背を少しかがめて、童女にそうするように目を合わせる。

「お望みなら、連れ出してあげましょうか?」

 瞬きをして、蝶は真砂を見返す。はかり知れない深淵を宿した眸にひととき呆けて、それからふんと鼻を鳴らした。

「もう遅いわ。打診を受けて断るなどと……」
「まあ、いいじゃないですか。神嫁くらい別の娘を探せばよいし、何より俺、三年前に朱鷺帝に蝶をくださいって言ってゆるしを得てますしね。身を賭してお命を救って差し上げたのだから、これくらいうまくやってくれるでしょう」
「し、しかしだな」
「蝶は」

 ぐずぐずと駄々をこねる蝶にかぶせるように真砂は言った。

「どうしたいの? 何が欲しいの?」
「……それは」
「言ってみぃよ、たまには素直にさ」

 眉根を寄せて蝶は目を伏せた。腹立たしい、と思う。ふてぶてしくも己の望みを叶えられると確信しているらしいこの男も、この男に結局どうしようもなく惹かれてしまっている自分も。腹立たしい。悔しい。こんな男、蝶の理想とはちがうのに。蝶の夢見た皇子様とはぜんぜんちがったのに、それなのに。
 それなのに、走る心を止められなかった。
 こぶしを握って、蝶はやがて観念したように息を吐き出す。

「海が見たい。……そなたと」
「えっナニ、聞こえなかった」
「海が見たいそなたと!!! わかったらさっさと連れ出せい!!!」

 頬が赤らむのを感じながら叫ぶと、真砂は瞬きをしたのち、相好を崩した。

「はいよ、仰せのままに。我が姫君」

 そうして紅梅の打掛ごと抱え上げられる。
 かくのごとく西方からの使者を迎える間際、かどわかされた妹姫の話を聞くと、「まったくしょうのない妹もいたものじゃ」と朱鷺帝は頬を緩めて笑ったそうだ。同じ頃、一組の男女を乗せた外つ国行きの船が滄海を旅立った。
 歴史の奔流の中ではちいさな、夜明けの船出である。




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