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六章、常磐(8)




「俺は先に颯音のもとへ行く! どうにか攻撃を止められないかやってみる!」

 桜が渡した折鶴は、雪瀬が触れるとひらりと白鷺の姿に転じた。時折、外から火矢が飛び、柱や床を焦がして刺さっている。城館の外郭にあたる開けた橋廊に出ると、扇はそう言って翼を返した。刻限が過ぎてしまったのだと、桜は唇を噛む。雪曇りのせいで、おぼろにしかかたちはつかめなかったけれど、陽はすでに中天を過ぎていたのだ。

「俺たちは裏門のほうから出よう。伊南が先に行ってひらいてる。――一緒に来たのは?」
「真砂が……。今はどこにいるかわからない」
「あいつなら、自分でどうにかするでしょう」

 話をしていた雪瀬がつと顔を跳ね上げる。月とまとめて引き寄せられ、雪瀬の胸に顔をうずめる。頭上で建物に弾が当たる音がして、壊れた外壁の破片がいくつも落ちてきた。地揺れにも似た振動はしばらく続いたのち、止んだ。そろそろと顔を上げると、雪瀬が近くに落ちた外壁の塊に目を向けて息をつく。外廊にかかった屋根のおかげで、落下する破片の直撃を受けずに済んだようだ。

「すごい……、びっくりした」
「……ん」

 柱に背を預けたまま、雪瀬はしばらく動かなかった。何気なく男に触れた手を見て、桜は瞠目する。
 
「雪瀬」
「だいじょうぶ。早いとこ、通ろう」

 一瞬心もとなくさまよった手を桜はつかみ寄せた。
 城館内の道は月がいちばん詳しい。先導して歩く月に寄り添い、桜は雪瀬の手を引いて歩いた。扇は颯音のもとへたどりつけたのだろうか。火矢や砲弾はまだ止む気配がない。桜たちがいるのは城館の外郭で、ところどころ損傷し、火の手が回り始めていた。足取りが徐々に遅くなっていく。子どもの足にすら追いつけぬほど。手を引くのをやめて、桜は男の腕を支えた。口を固く閉ざしたまま、何も言わず、何も聞かずに。重く垂れこめた空から、ひらり、ひらり、と花びらとみまごう雪が降る。それは戯れのように桜の額に触れて、溶け入った。

「知ってる? 殿下。葛ヶ原にもたくさん桜の樹があるの」

 外廊を進むと、火矢の量は目に見えて増えた。怯える少女の肩にそっと手を置いて、桜は口を開いた。さくら?と目だけで問い返した月に、「そう、桜の樹」とうなずく。

「春になるとたくさん、咲く。とてもきれいなんだよ」
「き、れー……?」
「うん」

 桜はもう、気付き始めている。

「見ようね、『月』」

 否。
 すぐに、わかってしまったことだった。
 すぐに。彼をひと目見た瞬間すぐに。濃い鉄錆めいたにおいが。押さえた端から溢れてとどまることのない血液が。徐々に荒くなる呼吸が。徐々に――。

「次はちゃんと、つれていってくれるよね……?」

 徐々にぬくもりを失っていく手のひらが。
 それらの示す意味に気付きたくなくて、涙をいっぱいにためて振り返ると、雪瀬は瞬きをしたのち、すこしわらった。

「いいよ。いちばん見晴らしのいい場所に連れていってあげる」
「嘘じゃない?」
「嘘じゃない。風音の機嫌がよければ、だけど。桜」

 背中からそっと抱き締められる。一瞬だけぬくもりを確かめるように触れて、そのあと雪瀬が差し出したのは『白雨』だった。

「――できる?」

 問われた言葉は短かった。けれど、桜はそれで大半を理解してしまって、息を詰まらせる。雪瀬は自分の代わりに『白雨』を連れて行けと言っているのだ。月皇子と『白雨』をもってして、戦を止めろとそう言っている。桜は小さく首を振った。嫌だった。そんなことをしたら、雪瀬は。いなくなってしまう。ほんとうに、いなくなってしまう。こんなところで。たったひとりで。言われていることを信じたくなくて、桜は何度も首を振る。
 ……それでも、もしも、ひとりでいってしまうなら。

「いや……」

 せめて、つれていってほしかった。
 ようよう上げた声に淡い苦笑が落ちて、手のひらが濡れた頬に触れる。
 
「いやだよ。いや。おねがい……、いっしょにきて。おねがい……」

 息も絶え絶えになって、男の胸にすがりつく。だけど、頭のどこかではきちんとわかってしまっていた。こんな風に懇願しても、雪瀬はきっと来ない。来ない。来ない。だって、そういうひとだ。一度決めたら、桜の願いなんて聞いてくれない。ずっとずっと、いつもそうだった。わかっていて、それでも、桜は不毛で、無意味で、何も生まない懇願を続けた。この手がなくなってしまったら。どう生きていけばよいかわからない。呼吸の仕方も、ひとのあいし方も、どれも、なにも、わからない。

「いかないで」

 凍てた虚空に向かって桜は乞うた。

「おいていかないでえ……」

 くずおれそうになった身体をそっと引き寄せられる。閉じ込めるように、桜の望みどおりに。息がすこしできるようになる。桜はまだきちんとあたたかな胸に頬を擦った。ああ、しかたないなあ……。腕の力をすこし緩めて、雪瀬は何故かわらったようだった。

「こんな面倒くさいやつに付き合ったあとは、好きにしていいよって言うつもりだったのに。そんなに……、おれがすき?」

 押し当てた胸越しに伝わる声を聞きながら、桜はぼんやりとうなずいた。いつもは雨上がりの草木の澄んだにおいがする男からは、今は噎せ返るような血のにおいだけがする。それに頬を擦る。水よりどろっとした血液が涙に溶けて、頬も手も赤く汚れる。もっとそうしてほしかった。もっともっと、わかちがたくなるように。目を瞑った桜に、雪瀬は少し身をかがめて言った。

「じゃあ、ずっと俺を待っていて」

 ねむりにつく前の、夜の睦言のように。

「何百年かかっても、かならず迎えにいくから。約束する。――ね。待てるでしょう、俺のこと。はじめて出会ったときとおなじ。どこにいても、どんな姿でも、かならずまた見つけるから……だからもう、そんなに泣かないで」

 桜がたくさん汚した頬に雪瀬はいとおしげに触れて、袖のきれいなところでそれを拭った。左も右も、指先も皆。それから何かを思い出したように、懐のあたりを探る。取り出されたのは、一度は桜の手を離れた花嫁簪だった。
 挿していい?、と尋ね、雪瀬は桜の髪を手ですくった。頭の後ろに手を回して、結った髪に簪を挿す。頬にかかった髪を耳にかけてもらいながら、桜はふいに思い出した。はじめてこのひとに簪をもらった日のことを。ちゃんとした求婚もなく、あいしていると面と向かって言われたこともついぞなかった。雪瀬は領主の仕事にかかりきりで家を空け、共に過ごした時間は結局そんなに長くなかった。だけど、そばにいてくれた。奇跡のように。このひとがこのひとでいる短い時間をぜんぶ桜にくれた。いとおしんでくれた、大切にしてくれた、だから桜は。きっと、かならず、何度でも、このひとを待つ。
 いつか、この空の向こうで。
 ふたたび、めぐりあえるまで。
 きれいだと呟く声に引かれて顔を上げる。彼はそっと満足げにわらった。

「走れ。橘の女ならできるだろう?」





 走った。走った。
 息が切れて、足がもつれ、転びかけそうになりながら、なおも前を見据えて走った。斬り合いの音が近くなる。火矢の量が増える。その中を桜と月は走った。





 さすがに立てなくなって柱にもたれ、そのままずるずるとくずおれる。途切れることのない争乱の声を聞いていると、目の前に昏い影が兆した。

「なんだ、まだ生きていたのか」

 雪瀬は薄くわらう。





 裏門への途上。城内に残っていたわずかな糸鈴兵が驚いた様子で、桜を止めようとする。それらの腕をくぐり抜けてまた走る。裏門にもすでに兵が回っていた。破られた扉と、その前で争う伊南たちの姿が遠目に見えてくる。桜は月の手を握り締めた。





「おまえひとりか」
「彼女たちには先に行ってもらった」

 『白雨』を桜に預けた雪瀬は、代わりに彼女の懐刀を持っている以外は丸腰だ。対する月詠は抜身の太刀を携えていた。近くに刺さった火矢が発する光に、刃が照り映える。藍もそのうちこの場所にたどりつくのだろうか。最期まで、この男のそばにあろうとしていた女は。想いを馳せて、雪瀬はまだやり残していたものがあったことに気付く。

「おまえが投げた『勝負』の続きをしようか、月詠」





「そこを通して」

 門衛に対峙して、桜は告げる。桜が手を繋ぐ姫皇女に気付いて、糸鈴兵が悲鳴を上げた。葛ヶ原兵もまた同様だ。幾本もの刀がふたりに迫る。





「俺の望みが叶うかどうか。正真正銘、さいごの『勝負』だ」
「だが、おまえはここにいる。もはやどうにもできまい」
「それでも、俺の望みは彼女が繋ぐ」

 足取りも危うく立ち上がって、雪瀬は月詠の前に立った。

「だから」

 藍も月詠も月も。皆で。
 皆で――。
 だから。

「だから、俺の手を取れ!!!」





 迫った刀をふたつの刀が跳ね返す。
 間に割って入った葛ヶ原側と糸鈴側の兵――透一と伊南、双方を見つめて、桜は淡く笑んだ。静かなわらい方だった。

「両軍に告げる」

 その声は小さくとも、戦場によく通った。

「月殿下はここにいる。橘雪瀬は生きている。この声が聞こえるのなら、刀をおろしなさい」

 『白雨』を地に横たえ、桜は顔を上げた。

「葛ヶ原領主・橘雪瀬に代わって告げる。戦は、終わりです」

 あたりは波を打ったように静かで、声ひとつ上がらない。それでもひるまず見つめ続けていると、やがてひとりの兵が切っ先を降ろした。それに端を発して次々、兵たちが武器を手放す。あっという間に桜と月の周りに円が広がった。

「桜」

 颯音への伝言を果たしたらしい扇が肩に降り立って翼を畳む。
 直後、だった。
 それまで火矢の攻撃を受けていた城館の一角が一気に崩れ落ちた。
 そこに。そこに、置いてきたのは――。
 声にならない悲鳴が潰れて、消えた。



【六章・了】




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