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六章、常磐(7)




「これ……あなたがやったの?」

 きざはしから下りてきた女に、雪瀬は目を上げた。凍て氷を思わせる灰白の打掛をさばき、藍は倒壊した木格子を見渡す。牢を破ったときの音を聞きつけて来たのだろう。雪瀬は瓦礫に足を取られないよう気を払いながら、きざはしをのぼる。思うように足が動かない。壁を支えにしていないと、そのままくずおれてしまいそうだった。

「どこへ行くの?」
「正門へ。攻撃を止める」
「そんな身体で? 無茶よ」

 雪瀬の前に立ちはだかった女は、「月は……」と何かを探すように視線を彷徨わせた。蒼白い横顔につかの間よぎったのは、ほのかな焦りと不安。この女もこういう顔をするのか、と虚を突かれて、雪瀬は足を止める。それは娘を案じる母親の表情にも似ていた。そのとき、甲高い笛音が響き渡る。

「今の……」
「侵入者が出たようね。今朝方、南海と葛ヶ原による城館への攻撃が始まったの。おそらく時間はかからず表門も破られるわ」

 短くなされた説明に、やっぱりと奥歯を噛む。雪瀬が意識を失っている間に、事態は望まぬ方向へ進んだらしい。あのとき月詠は戦意を喪失していたのに、自分が表門に戻れなかったばっかりにこんなことになってしまった。

「城館は落ちる。おまえを生かしたのは私の一存で、まだ城内の多くの者はおまえのことを知らないわ。――『裏門』を開く。伊南が経路を確保しているはずだから、おまえは月と逃れなさい」
「……藍は?」

 尋ねた雪瀬に、藍は必要のなくなった鍵を帯元に戻しながら、薄く笑んだ。

「私は月詠様のそばにいる」
「あの男はもう長くない。それでも?」
「約束をしたの。さいごまでおそばにいると」

 さっぱりとしたその表情を見て、すでに覚悟を決めたあとなのだと察する。壁に半身を預けたまま、雪瀬は口を閉ざした。きざはしの上にいるため、藍のほうが今は目線が高い。こちらを見つめる女の双眸に、さざなみのように淡い光がよぎった。

「ぼろぼろね。ひどい姿をしている」

 頬に細い指先が触れる。血と埃とを拭う姉めいた仕草が、記憶の底にあるおぼろげな像を呼び起こした。いつも、雪瀬の世話を焼いてくれた女の子のすがたを。

「月のことをおねがい」

 それだけを藍は口にした。

「あなたに頼むのがおかしいことはわかってる。だけどもう、あなたしかいないの。この先降りかかる災いからあの子を守り、導いてほしい。あなたは私とはちがう……。つよくて、ただしいひとだから」
「……つよくなんか、ないよ」
 
 知らず女のほうへ雪瀬は手を伸ばしていた。引き寄せると、細い身体はたやすく腕の中におさまる。怯えた風に身を固くする女に、そっと身を寄せる。記憶のものよりずっと細くなってしまった身体は冷えきっていて、けれどそうしていると、脈打つ微かな心音が内側のほうから伝わってくる。それは確かなひとのぬくもりだった。まがいものではない、この女の。
 ふしぎだと、思った。この女も雪瀬も、心の在り方や姿はずいぶんかたちを変えてしまったのに。変わらない。いとおしいと感じるものが、まだここにある。

「ちっともつよくなんかない。俺はまちがえて、助けられてばっかりだ」
「そうね。そうかもしれない」

 元の調子を取り戻したのか、こたえる藍の声は少しだけ笑みを含んでいた。その声を聞きながら、目を閉じる。

「ずっと一緒にいるって、昔、皆でした約束も守れなかった。ひとりにしてしまった。おまえも、凪も。……恨んでるかな、あいつ。それでもずっとしがみついて離せなかった俺のこと」

 手のうちからするりと抜けた爽風を思い出し、雪瀬は苦笑した。あれは凪だったのだと雪瀬は何故か確信している。あれは、あのみどりごのような風は凪だった。俺がずっと手放せないでいた凪の一部。

「わたし。わかるわ」

 吹き寄せた風の名残のように、そよそよと空気がさざめいていた。足元の衣裾を翻し、女の背に流れた黒髪をくすぐる。水と樹のにおいのする葛ヶ原の風だった。身を寄せ合うふたりの間から生まれた風は、ひとときその場にとどまるようにしてから、またいずこかへ流れ去った。

「それでも、ずっといっしょに生きていくんだよって」

 藍の細腕が雪瀬の背に回る。

「そうこたえるの。凪ちゃんはきっと」

 ずっといっしょに。
 春空のしたで、きみがわらう。
 三人で、ずっといっしょに、いようね。
 
「手当、藍がしてくれたんでしょう」
 
 傷の縫合は簡易なものだったが、包帯の下にあてられた薬草は確かな知識に基づいてほどこされていた。小さく首を振った藍に額をくっつけて、雪瀬はわらった。

「ありがとう。俺を生かしてくれて」

 それがこの地で女と交わした最後の会話になった。





 約束の刻限が近付いていた。
 頭上近くにのぼった陽を仰ぎ、颯音は息をつく。表門での攻防は、両者が一歩も引かず、長期戦の様相を呈していた。網代軍は後方に配置されているだけで、未だ直接の交戦はしていない。糸鈴側もきつく命じられているのか、城館から打って出る気配はなかった。微動だにしない表門を見つめ、まだなのか、と珍しく急いた心地に颯音は駆られた。開門をさせるとあの娘は言った。必ず月殿下と雪瀬を取り返して、あの門を開くと。されど、陽はまもなく中天を指そうとしている。

「ゆきくん」

 そばに侍る青年に、あらかじめ決めていた攻撃の刻限を告げた。うなずいた透一は愛馬を引いて、その場から離脱する。後方の網代軍に今の言葉を伝えるためだ。透一から報せを受けた網代あせびが待機していた兵を動かし、城館の左右へ回る。

「全軍、配置につきました!」

 にわかに雪雲が広がり始めた空の下、伝令の少年が跪いて告げる。
 雪瀬。
 瞼裏によぎった青年に祈るように呼びかけたが、門が動く気配はなく。しばし沈思したのち、颯音は顔を上げた。

「了解。これより糸鈴を落とす」

 松明の炎を移した火矢がきりりとつがえられる。合図と同時に、張りつめた弓弦が唸る。放たれた矢は、人々のはるか頭上を越え、一直線に表門へと向かった。





「月詠」

 現れた男と対峙し、桜は懐刀を握りこむ。常と同じ黒衣姿の男はひとふりの太刀を携えていた。護衛のたぐいはほかにいない。攻防のさなかであるのに、鎧や武具といったものもつけていなかった。首をすくめて、月詠は泰然と嗤う。

「笛の音がしたと思えば、おまえか。ほかの橘の手の者も一緒だな」
「そこをどいて」
「どかぬと言ったら?」

 殿下、と桜の腕を抱き締める少女に呼びかける。すこし離れていて、と柱のほうを示すと、月はふるふると首を振った。安心させるように額に手を当てる。しばらく月は抵抗を続けていたが、そのうち絡めていた腕を静かに解いた。利発そうな目に覚悟を湛え、そのまま柱の影へ走っていく。
 月が離れたのを見届け、桜は鞘から懐刀を引き抜いた。しろじろとした刃があらわになる。ここまで使わずにいた刀は一点の曇りもなく澄んで、桜を映した。

「俺を斬るか」

 痩せた身体を太刀で支え、月詠は問うた。
 思い返すと、これは始めから定まっていたことのようにも感じられた。月詠の手を逃れ、雪瀬によって拾われたそのときに。それからの数多の岐路と選択。桜は常に月詠を選ばなかった。すくわなかった。もしも『鵺』がそばにいたら。男の破滅は止まっただろうか。それとも、結局何も変わらなかったのだろうか。わからない。わからなかった。

「あなたが、わたしを阻むなら」
「そうか。なら、来い」

 まるで無防備に、月詠は腕を広げた。
 懐刀を胸に抱いて、桜は目を細める。霜の張った床を歩く音が高らかに響いた。息と息が触れ合うくらいに近くに立ったとき、見上げた月詠の顔は何故か穏やかだった。艶をなくした銀髪がかかる頬は色がなく、蜻蛉のよう、と思う。本当に今にも死にゆくもののような。

「かつて、おまえは戦うと言ったな」

 ふと月詠が呟いた。
 懐かしむというよりは、ただ事実を確認する言い方だった。まだ少女だった自分が、すべてを喪って、身ひとつで丞相邸にやってきたときのことだ。身の処し方を問うた月詠に、桜はこたえた。雪瀬がもうこれ以上傷つくことのないように。わたしはあなたと戦いに来たのだと。

「おまえは抗い続けた。俺が下りたあとも」

 目を伏せ、月詠は微笑めいたものを口端に載せた。

「ここまでたどりついた。おまえの『勝ち』だ、桜。のぞみのものをやろう」

 男の手が桜の両手に添えられる。桜は息を詰めた。刀を握る手がどうしようもなく震えているのがわかる。それでも、終わらせなくてはならないのだと自分に言い聞かせる。刻限が近付いている。月が、いる。雪瀬を助けなければならない。そのために、わたしが終わらせなくては。わたしが。
 
 ――なまえは、どうしようか。
 
 不意に脳裏に閃いた声に、桜はゆっくり瞬きをした。
 目の前の男のものより、少し高い。やさしくて、懐かしい声。

 ――さくらがいいな。

 こたえる少女の声もまた、自分の咽喉から発せられているはずなのに、自分のものではない。さくら? と問い返した少年に、そう、とわたしを抱いて彼女がうなずく。春になると、この里を覆う花。春を告げる花。わたしたちの子はね、つき。きっと、春のにおいのする可愛いおんなのこだ。あなたの子だから、心のやさしい子になるよ。ねえ、だから、つき。
 わたしはそれを聞いている。
 あたたかく、どこよりも守られた場所で、それを聞いている。これからきっと出会えるはずのわたしの両親の声を。ぬくもりに満たされた胎のうちから、花を仰ぐ少年の姿がみえた。穏やかに微笑む少女に反して、少年はどこか思いつめた顔をしている。まるでこれから起きる喪失を予感しているかのように。そんな、泣きそうな顔をしないで。今は届かぬそのひとに、わたしは呼びかける。かなしい顔をしないで。だいじょうぶ。

『あいしているよ、月。たとえあなたがどんな姿になっても』

 すぐに、会えるから。

「いや……」

 か細い悲鳴が咽喉からこぼれる。
 刹那、懐刀を握り締めていた手をつかんで止められた。桜の手に比して、赤黒い血にまみれたそのひとの手はとても熱かった。春風のように現れたそのひとを桜は泣き出しそうな顔で見つめる。

「雪――」
「離せ」

 荒く息を吐いて、雪瀬は目の前の男に言った。

「この娘の手はこんなことをさせるためのものじゃない」

 ぐっと引き寄せられると、あれほど固く握られていると感じた月詠の手は、あっけなくほどけた。からんと音を立てて、懐刀が転がる。それでもまだ強張っている指先をあたたかな手のひらが包んだ。
 雪瀬を見た月詠は咽喉を鳴らした。

「……しぶとい奴め」
「あいにく諦めがわるいんだ」

 拾い上げた抜身の懐刀を雪瀬は鞘におさめる。

「どうして……」
「月殿下に呼ばれたんだ。表門に向かう途中に」

 説明して、雪瀬は懐刀を桜ではなく自分の腰に挿し直した。そこには同様に愛刀の『白雨』が佩かれている。

「表門はすでに突破されたぞ。兵がこちらへ流れ込んできている」
「月殿下はこちらにいる。それを示せば、止まるはずだ。颯音なら必ず」

 桜に駆け寄った月の頭に手を置いて、雪瀬は言った。

「俺は攻撃を止める」
「さて、思うようになるかな」

 肩をすくめた男を一瞥してから、雪瀬は桜の背を押した。行こうと言われたのだと仕草で悟る。男の横を通り過ぎる瞬間、引かれるように振り返る。月詠もまた、桜を見つめた。口を開く。あいに、きたよ。すぐにはこられなかったけれど。わたしは、あなたに。あいにきたよ。あいにきたんだよ。月。わたしの。わたしの――。

「……つき」

 結局、言葉にできたのはそれきりだった。一度目を瞑ると、桜は月の手を引き、ゆるぎない足取りで歩き出す。そしてもう男を振り返ることはなかった。




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