しかれども、二ヴァナの拳銃から銃弾が放たれることはなかった。 正しくは、放つはずの相手が消えてしまったのだ。 「どういうことだ……?」 絨毯におびただしい血痕だけを残して、イジュは消えた。室内を見回したものの、どこにもいない。眉をひそめる二ヴァナをよそに、ルタのほうは落ち着きを払って、銃に弾を補充した。 「おそらく、転位です」 「魔術師どもの使うあれか?」 「聖音鳥は、移動に優れた神獣ですので。『王の契約』を結んだとなれば、彼も同じ力を使えるようになっているはず」 愚問ですね、と呟いていた男を思い出す。ここ最近、王都界隈でヘルヴィンナの森の関係者が殺されているのは知っていた。まさかと思っていたが、先ほどの口ぶりからすると、イジュが教会から抜け出せたのにも説明がつく。 「あの状態です。そう遠くへはいかないはずかと」 「黒騎士配下の者どもを呼べ。北騎士!」 呆けた顔で血痕を見つめていたツァリ=ヨーシュを呼び、ニヴァナは命じる。ルタが内鍵をかけたため、外に締め出されていた北騎士は先ほど中へ駆けつけたばかりだった。 「イジュを探せ。おそらくはまだこの敷地内のどこかにいる」 「見つけるって言ったって……死体をですか」 「それでも、構わない」 とはいえ、教会の下層の人間に『聖女』の死体が見つかるのはまずかった。七大老も一枚岩ではない。理由はいくらでもつけられようが、二ヴァナの独断で今代の『聖女』を殺害したとなれば、追求は免れないだろう。 「行け!」 鋭い声で命じれば、北騎士はただ「御意に」とだけうなずき、身を翻した。ルタもまた銃を装着して部屋を出ていく。ひとり残されたニヴァナは絨毯に染み込んだ血痕を見つめて、引き攣った苦笑をこぼした。 あの男は最後――。 泣き出しそうな、顔をしていた。 いたい。 あつい。あつい。あつい。 ぐちゃぐちゃと思考が乱れて一向に纏まらない。これでは見つかる。見つかってしまう。そう思うのに、乱れた呼吸を落ち着かせることもできず、身悶える。左脇腹からは未だ血が流れだしており、撃たれた肩や胸も同様だった。いたい。あつい。だれか、たすけて。 がたん、と頭上で大きな音がして、イジュは目を上げる。イジュが『転位』で逃げ込んだのは、教会のおそらくは中庭のどこかだった。外回廊の柱の影に隠れるようにして背をもたせていたのだが、眼前にランタンの明かりが突き出された。次に現れた顔を認めて、「ツ――」とイジュは叫びかける。それを手で塞いで押さえ、「静かにしろ」と北騎士ツァリ=ヨーシュは短く囁いた。ランタンを置いて、ツァリは中の火を消す。 「ツァリ! どうだ!?」 二階のほうから声がしたが、ツァリは「こっちにはいねえよ!」と声を張り上げた。うなずいたらしい相手の足音が遠ざかっていく。ぼんやり瞬きをしたイジュに、「見せろ」と言ってツァリは破れたシャツを裂いた。見る間に急所をとらえて、止血をされる。もはやそれくらいでどうにかなる傷にも思えなかったが、無理やり身体を引き立たせられた。 「どこ……いくんです……」 「外だよ。悪いが、最後まで付き合うわけにはいかねえ。ルタの餓鬼が出てやがる。おまえは動けるようになったらその転位とかいう便利な術を使ってうまく逃げろ」 「できな……ですよ……」 「知らん。やれ。でなきゃ死ね」 不思議に思った。何故この男は自分を逃がそうとしているのだろう。教会に連れ戻した張本人であるはずのこの男が。けれどもう、それを考えることすら面倒になって、イジュは意識を手放しかける。 「おい。寝るな」 イジュを引きずってツァリがたどりついたのは、教会の残飯などが運ばれる裏口のようだった。表門はともかく、夜の間は施錠されているここには見張りの兵がいない。首にかけていた鍵で閂を開けると、ツァリはイジュの身体を残飯よろしく外へ放った。受け身も取れず、力なく道に転がる。 「イジュ」 それでもなんとか石畳に爪を立てたイジュを見下ろし、ツァリは言った。 「俺はおまえを死なせるために連れ戻したんじゃない」 そして扉が閉じられた。 内側から閂をかける音がする。イジュは教会の外柵を支えによろよろと立ち上がり、歩き出した。聖音鳥はいつの間にか見えなくなっていた。ひとりきりで数歩歩いては、意識が遠のき倒れかかる。これでは埒が明かない。イジュは固く目を瞑ると、リィンゼント通り、眼鏡橋のたもとの付近を思い浮かべながら、移動を試みた。視界がふっと遠のく。けれど、落ちた場所といえば、教会から少し離れただけの路地裏だった。何度か『転位』を繰り返す。もはや自分がどのあたりに飛んで、どのあたりに落ちたのかすら定かではなくなってきた。ついに力尽きて、イジュは道端に転がる。 春であっても、王都の夜は寒い。 天穹に架かる月を仰向けになって見上げ、イジュは指を伸ばした。 「……ルノさま」 広げた手のひらが月を覆う。 己の血で赤く染まった手のひらを蒼い月光はしずやかに照らした。 「るの、」 触れたはずなのに。 手の中に包み込んだはずなのに。 ちっとも、あたたかくならない。 ねえ、早く見つけてください。わたしはここに。ここにいる。 あなたが現れるのを、待っている。ひとり、焼けつくほど。 「――イジュ?」 不意に視界が翳る。 そっとのぞきこんできた人影を認め、イジュは瞬きをした。空が割れる。乾いた唇が呆然とその名を紡いだ。 「……カメリオ?」
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