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13



 たどりついたイルテミーシアの空は晴れていた。
 
「海ね!」

 船の手すりから身を乗り出すようにして、ルノは蒼い海原を見つめる。頬を撫ぜる潮風が心地よい。帽子が飛ばされそうになり、ルノは舞い上がる栗毛ごと帽子の端を押さえた。

「騒いでいると落ちるぞ」
「うるさいわね。おまえこそ、肩は平気なの?」
「おかげさまで」

 オテルは負傷した肩を隠す無骨な外套に、杖を持った男装をしている。ソラミラの一件で、教会が追っているのは黒髪の若い女と金眸の男であると知れた。そのため、ソラミラの村を出る際、オテルは例の暗示術を使った上で男装し、シャルロ=カラマイに至っては老婆に扮した。ルノは髪を栗毛にしているだけで特段変装はしなかったが、三人で並んでいるときは、老婆とその孫とその妹ということで通している。
 無論、黒騎士は多くの手勢をソラミラ近郊に置いていった。それでも商隊と、帰路の巡礼者の一群に紛れることで、ルノたちはなんとかイルテミーシアまでたどりつくことができたのだった。黒騎士対策として、シャルロ=カラマイはあらかじめソラミラの北方で、金眸の男が北を目指しているという情報を流しておいたらしい。他にもいくつか攪乱の情報は流したらしく、それらが功を奏したのか、追手と鉢合わせすることはなかった。

『本当に、行くの?』

 お別れのとき、リシューは何度もルノに訊き返した。自分たちに気を遣っているのなら構わない、むしろ『シエラ』にそばにいてほしいのだと。手のひらを包んで真摯に誘ってくれたリシューを本当にいとおしく思った。もしも自分がただの『シエラ』として生まれていたら、リシューを姉のように慕ったに違いない。

『ありがとう、リシュー』

 大好きよ、と囁いてルノはリシューを抱き締める。それから、数か月の間お世話になったひとたち、エクやラットといった『青の家』の子どもたちにも挨拶を済ます。最後まで素性は明かせなかったけれど、いつかまたかならず、という約束はこの先もずっと忘れないだろう。

『余にせいぜい感謝するんだな』

 シュシュ伯爵に至っては、忙しい御身であるにもかかわらず、わざわざ嫌味を言いに来てくださった。ありがとうございます、と微笑んでから、『リシューのこと』とルノはそっと少年伯爵に耳打ちしてやった。

『本当に好いておられるなら、素直に告げたほうがいいと思いますよ。リシュー、鈍感だから』
『よ、余計なお世話じゃ!』
『それと伯爵。前からひとつだけ言いたかったのですけれど』
『まだ何かあるのか!』
『その輿は趣味が悪いと、思います!』

 みるみる頬を赤くしてこぶしを振り上げたシュシュ伯爵から、ルノは軽やかに身をかわして『お元気で』と王宮風の礼をした。のちに王都にのぼった伯爵が、このときの『シエラ』が王女ルノ=コークランであったことに気付くのはしばし先の話である。

「ハザへはどれくらいかかるの?」
「この船はクレンツェを経由するルートだから、六日だな」
「結構かかるのね。……あのひとは?」
「船室で寝てる」
「完治しても、結局変わらないのね……」

 嘆息し、ルノは手すりに頬杖をついた。

『名前は見つかった?』

 別れ際、ローブの裾を引っ張って尋ねたアリアに、金眸の男は笑ってこたえた。
 とてもいいのが見つかったよ、と。

『エン。東国で、めぐりめぐるひとの縁を意味する言葉なんだ。いいでしょ?』

 以降、男はエンと名乗り。
 だからもう、『シャルロ=カラマイ』はどこにもいない。

「先に入ってるぞ」
「ええ。私はもう少しだけここにいる」

 オテルに答え、ルノは離れゆく港と王都の方角を見つめた。日輪の下、海鳥が一斉に蒼い海原を翔ける。さあ、花よ歌え、風よ祝え……。口をついて出たのはいつかの懐かしいメロディだった。優しい旋律を口ずさみながら、ルノは高らかな汽笛の音に耳を傾ける。
 いつか、また。
 また、必ず。
 固く誓って、王女はこぶしを握る。


 ・
 ・

 さあ、花よ歌え、風よ祝え……


 ・
 ・


 長い回廊をイジュは北騎士ひとりを連れて歩いていた。
 宵に近い刻限だ。磨き抜かれた窓には、残照と爪痕のような細い月が映っている。明かりがまだ入れられていないため、足元は薄暗い。衣を裁くたび立つ涼やかな衣擦れだけが、夕闇に沈む回廊に響いていた。目当ての部屋にたどりつくと、「聖女様」と見張りの兵が気付いて、扉を開けた。蝋燭がひとつ灯された室内には中央に執務机があり、男がひとり座っている。

「久しぶりだね、イジュ。君のほうから私を訪ねるなんて珍しい」

 かつて父であるリシュテン老が使用していた執務室は、今は息子のニヴァナ=リシュテンの居室となっていた。二ヴァナにイジュが北騎士を通じて訪問を申し入れたのは、一時間前だ。「突然すいません」とイジュは詫び、蜥蜴の刺青の少年が勧めた席に座る。運ばれてきた瓶を取って、二ヴァナは空のゴブレットに葡萄酒を注いだ。

「先日父に会ったそうだね」
「ええ。あなたの取り計らいだったようで。ありがとうございました」
「君が見舞って以来、病が格段によくなったと医者たちも驚いているよ。父は君のことを案じていたから、安心したんだろうね」
「はあ」

 二ヴァナの口から語られる『父』がどうしても自分の『父上』と同一とは思えず、相槌は曖昧になった。母は違うが、二ヴァナとは確かに半分血が繋がっているはずだ。けれど、物心つく前にリシュテン家から教会へ連れられてきたイジュには、この異母兄がどうしても家族のようには思えない。

「それで?」

 葡萄酒を一口含んで咽喉を潤すと、ニヴァナは切り出した。

「本題に入ろうか。君も私と世間話をしに来たわけじゃないだろう」
「ええ。――ツァリ」

 イジュは隣に侍る北騎士ツァリ=ヨーシュに下がるよう命じた。ツァリは一瞬意図を探るような目をしたが、追及はせず、そのとおりにする。ツァリを下がらせたということは、ニヴァナとの間に内密の話があるという意味だ。当然、ニヴァナのほうも随身の少年ルタを下がらせなければならない。察したニヴァナが「ルタ」と少年に部屋を出るよう言った。
 ツァリとルタが揃って辞去し、オーク材の分厚い扉が閉じられる。燭台の明かりが揺らめく室内には、イジュと二ヴァナだけが残された。扉のほうへ何気なく視線をやりながら、あの分厚さだとどれくらい音を遮れるものなんでしょうか、とイジュは考えた。

「それで、イジュ。話とは何だ?」
「ゼノ=アーチス。そう呼ばれている男を知っていますか」

 扉から視線を解き、おもむろにイジュは尋ねた。

「ゼノ? 記憶にないな。失礼だが、どの関係筋だ?」
「では、フラン=シシリイという男はどうです」
「イジュ」
「ああ、これもご存じでない? じゃあ、マゼン=ミラン」

 その名にはさしものニヴァナも反応した。
 
「……姫と私を襲った盗賊の頭領だ」
「そのとおり。では、これはご存じでしょうか」

 胡乱げに細まったニヴァナの眸がはっと瞠られる。首筋の急所にナイフを突き立てた。イジュが右手を少しでも引けば、動脈が切られ、真っ赤な雨が降るだろう。

「君は何を……」
「質問をしているのは私のほうです」

 長卓に片足を乗り出し、イジュは言った。

「聞いた話では、マゼン=ミランに、あなたの侍従のルタが会っていたらしい。襲撃の前のことです。彼らはいったい何を話したんでしょうか。それに、当日ヘルヴィンナの森では、銃声はしたはずなのに、馬車で待機している兵たちはすぐには駆けつけなかった。逃げる盗賊たちの姿も、誰も見ていない」
「何が言いたい?」
「むしろ、聞きたいのは私です。あの日、ヘルヴィンナの森で何が起こったんです? あなたは本当に盗賊に襲われて足を怪我したんですか。ねえ侯爵。どうなんです?」

 押し付けたナイフから血の筋が生まれ、ニヴァナの糊の張った襟元を汚す。やめろ、とニヴァナは呻いた。

「私と姫のいた馬車を盗賊が襲撃した。私はそのとき足を負傷し、ルノ姫は肩を撃たれて峡谷へ落ちた。君は信じたくないのかもしれないが――」
「平行線ですね」

 イジュは嘆息する。
 もとより長話をするつもりはない。

「あなたがルノ様を撃った。そうでしょう?」
「違う。――と言っても信じないだろうな、君は。こんなこと、正気の沙汰じゃない」
「あなたがたがまだ私に正気なんてものを期待していたことのほうが驚きですよ。理由はなんです? 千年間虐げられたリシュテン家による王家への復讐? 王の失踪もそのせいでしょうか。まあなんだって、構いませんが」
「ここで私を殺して、いったいどうするつもりだ? 外にはルタも、北騎士もいるのに」
「愚問ですね」

 イジュは薄く嗤った。
 こらえていなければ、哄笑が口をついて出そうだった。言っただろうに。私に正気なんてものを期待するなと。もう、戻れる地点はとっくに過ぎている。だから、ためらいもまったくなかった。イジュはニヴァナにあてがったナイフを引きやる――

「っ!?」

 ぱん!と乾いた銃声がしたのは刹那だった。遅れて肩に激痛が走り、イジュはナイフを取り落とす。とっさに銃声のした方角を振り返ると、侍従の少年ルタが立っていた。いつの間に扉を開けたのか、イジュの死角となる背後に回ってまっすぐ銃口を向けている。
 引き金にルタの指先がかかる。イジュが落ちたナイフに飛びつくのと、二度目の銃声が火を吹いたのは同時だった。おそらく心臓を狙ったのであろう銃弾は左脇腹を貫いた。ナイフはつかんだが、衝撃で床に転倒する。口内に血の味がこみ上げる。内臓を傷つけたのか、腹が焼けつくように痛んだ。それでも、本能と呼べる衝動が勝った。床を這い、なお身じろぎしようとすれば、目の前に立った少年に三発目を撃ち込まれた。ついに動けなくなる。イジュの眉間に銃口をあてがい、「……旦那様」とふと少年が口を開いた。

「いいのですか」
「ああ」

 首をさすりながら立ち上がったニヴァナがうなずく。血が抜けたせいで白濁し始めた視界で、みどりの眸が冷ややかに自分を見つめていた。

「に、ヴぁ、な……」
「君がこうも早く真相にたどりつくとは思いもしなかったが……、私が君のような存在を生かしておくとでも思ったか?」

 かがむ二ヴァナの前に、ふわりと白翼の少女が現れた。聖音鳥だ。しかし、様子がおかしい。シミューズからさらけ出した肩は傷つき、身体のそこかしこに銃創がある。イジュとそっくりそのまま同じ箇所が傷ついているのだ。顔をしかめて、聖音鳥は弱々しく翼を震わせた。

「やはり」

 イジュと聖音鳥を見比べた二ヴァナが唸る。

「思ったとおりだ。何故、聖女と聖音鳥は『王の契約』を結んではならないのか。何故、本来の伝承とは異なる『噛み痕』による契約や二年という任期をクロエが考案したのか。それは、『王の契約』が聖音鳥を己の肉体に降ろすことに他ならないからだ。千年前に何があったかはしれないが、そこの聖音鳥はおそらく実体の薄い亡霊のような状態なのだろうね。彼女は通常、契約により、聖女の精神に降りる。初期の聖女が次々に心を壊したのはそのためさ。痛みや感覚の共有も、それなら説明がつく。しかしイジュ。君は愚かにも――」

 憐憫を込めた眼差しでイジュを見つめ、二ヴァナは言った。

「その肉体まで聖音鳥に差し出した」

『――聖音鳥はきっと君をそそのかす』

 あれはいつだったろう。
 金眸の魔術師は、幼いイジュへそう言って戒めた。

『わたしをのぞんで。わたしをもとめて。わたしを呼んでって』
 
「憐れにな。ひとの身が神獣に耐えられるわけがない。遅かれ早かれ、聖音鳥に喰い尽くされて君は死ぬ」

『けれど、それがどんなに悲痛な声でもこたえちゃいけないよ』
『聖音鳥は君を孤独から救ったりなんかしない』

 身に余る力。
 その代償。代償は――。

「だが」

 二ヴァナはルタの拳銃を取って、銃口をこちらへ向けた。

「私には幸いだ。今なら、忌々しき聖音鳥を君ごと葬り去れるのだから」
「えん……」

 急速に目の前に見えるものたちが形を失っていく中、私はどうしてここにいるんだろうと疑問に思う。思い出せなくなってきた。身体が動かない。私はどうしてこんなところに寝転んでいたのだっけ。

「……ちちうえ?」

 しかし、ここは父の執務室であるはずだった。ああそうか、北の塔から抜け出して、父のもとへ来たんだった、と思い直す。月に一度しか会いにこない父。会いたくて、会いたくてたまらなくて、こっそりと北騎士のツァリに頼んで抜け出したことがあった。あのとき父はどんな顔をして。どんな風に迎えてくれたのだっけ。

「父は」

 頭上から声が降った。

「父も、このことは承諾済みだよ。『シュロ』」

 瞬間、かちりと撃鉄が上がる音がして、イジュの視界は完全に虚無と化した。


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