ソラミラの村に夜明けが訪れる。 悪夢にも思えた夜が終わり、シュシュ伯爵の采配によって黒騎士はソラミラを去った。オテルはあのあとすぐにリシューのもとへ運ばれ、肩の治療を受けている。そばについていようとしたら、顔を歪めて追い払われた。 幸いにもシエラのほうは、打ち身と擦り傷程度で済んだ。殴打された脇腹にはリシュー特製の湿布が張ってある。その上に厚手の外套を着て外に出たシエラは、朝靄の中、白い息を吐いた。首に巻いたマフラーを引き寄せて、冷たくなった顎をうずめる。朝のソラミラはまだぐんと気温が下がる。草原には未だ根雪が横たわり、丘の上へ立つと、ましろの世界が足元に広がっていた。さくりと雪を踏む微かな足音に気付いて、シエラは足を止める。振り返らずとも、背後に立ったのが誰であるのかシエラにはわかった。 「シャルロ=カラマイ」 「おや。今日はカラスって呼ばないの、姫」 「ええ、呼ばないわ」 「そうだね。君はもうぜんぶ思い出しているんだもんね。ルノ=コークラン」 シャルロ=カラマイは肩をすくめて、ルノの隣に立った。男の姿がいつもと違うことに気付く。外套をきっちり着込み、手には箱型のトランクを持っている。旅装だった。目が合うと、男は黒髪を揺らして首を傾げた。 「聞いてもいい? いつ、思い出したの?」 「だって、おまえの弟子ったら、私のことをルノと呼んで起こしたのよ」 「あの子は素直だからさあ」 「オテルは?」 「問題ない」 こたえる言葉は短い。けれど、彼がそう断言するからには心配はないように思えた。総じて考えの読めない男であるが、嘘はつかない。 「ルノ姫。俺とオテル術師はこれからソラミラを発ち、イルテミーシアの港へ向かおうと思ってる」 「イルテミーシアへ?」 「うん。そこから船を使ってハザ公国へ渡るつもり。ユグド国内はしばらく自由に身動きとれなそうだから、先にスゥラ王とハザ公の失踪を確かめにゆくよ。ハザ公国には知り合いもいるしね」 「……そう」 「君はどうしますか、姫」 こちらを少しのぞきこむようにして、シャルロ=カラマイは口元に笑みを浮かべる。ルノの反応を楽しがっている、いつもの笑い方だ。 「『シエラ』としてソラミラに残っても構わない。リシューは君が望むなら、青の家に置いていいと言っていた。ルノ=コークランとして王都に戻る選択肢もあるけれど、そちらはあまりお勧めしないな。周辺にはまだ黒騎士がいる。彼らは君が生きていることを知るや、君の帰還を阻止しようとするだろうから、単身で挑むのは危険ですよ」 「かもしれない」 風が吹いていた。 ソラミラに吹く三月の風からは、今の季節、王都で咲き誇っているのだろう花たちを感じることはできない。ルノは舞い上がる髪をそのままに、まだ夜明け前の灰色の大地を見つめる。 「私はね、シャルロ=カラマイ」 やがて、ルノは口を開いた。 「この国の王女であることが、ずっと誇りだったの」 生まれたときから、わたしは『王女』だった。ルノ=コークランとはすなわち『王女』の名前だった。 「父上の治める王国ユグドラシル。花に歌われ、風に祝福された千年の国。父上の娘として、ルノ=コークランとして、生まれたこと。ずっとずっと、それだけが、何もない私の誇りだったのよ」 そのためには血を吐くような努力も厭わなかった。すべては『わたし』が『わたし』であるために、必要なことだ。『わたし』は誰よりも『わたし』らしくいなければならない。常に背筋を張り、前だけを見据えて、慈愛深く、迷わない。そんな王女でなければ。 「シャルロ=カラマイ」 つよく、つよく、つよく、つよく。 願うたびにけれどわたしは。 「けれど、私、ほんとうは。ほんとうは、ずっとこんな名前、捨ててしまえたらいいのにって、そう思っていたの。そう思っていたのよ……!!」 こらえようとして、とどめおけなかった涙がいくつもいくつも溢れだす。 軽蔑すればよいのだとルノは思っていた。目の前の男であるなら、冷ややかにそれをしてくれる気がした。シャルロ=カラマイという男はいつもそう。ルノの奥底の弱さや醜さといったものをやすやすと暴いてしまうから。だからまた、思い切り罵倒すればよいのだと泣き濡れた視界で、何かを乞うような気持ちで金色の双眸を睨みつける。けれど、ちがった。伸ばされた男の腕がルノの頭を引き寄せる。 「泣くな」 囁かれた声はとても、優しかった。 「泣くな、ルノ=コークラン」 引き寄せられた男の肩越しに、天穹が見える。 草原に伸びる地平線は、東の端のほうからあかく、あかく。 「俺は、嘆かないよ。もう立ち止まったりもしない。君はどうなの、ルノ=コークラン。ここで終わりにする? その名を捨てるのか。聞いてあげるから、今ここで俺に言ってみなよ」 あかく、染まっていく。 耐えられなくなって、ルノは目を瞑った。 ほら、やっぱり悪魔みたいな男だ。 そうやって挑発するんだ。わたしを挑発するんだ。 吹きすさぶ嵐のように、わたしを、呼び起こすんだ。 ――ええ、そうよ。 「私はルノ=コークラン、この国の、王女よ!! この名は誰にも奪わせない、決して奪わせないわ!!!」 目を開いて、夜明けの天穹を仰ぐ。 燃え盛る炎を抱いた天は、赤かった。 それが。それこそが。ルノ=コークランの知る夜明けの色だった。 |