そのまま空を飛ぶように思われた身体は、しかしすぐに重力に引きずられて落下した。悲鳴を上げた気もするが、実際には一瞬の出来事だったのだろう。ちょうど植え込みのあたりに落ちたシエラは小枝を薙ぎ倒して草むらに数度転がった。腹を打ち付けた衝撃で声も出せない。 「捕虜が逃げたぞ!」 頭上から発せられた声に気付いて、何とか身を起こす。とっさに腹に抱えて守ったため、オテルは無事だった。腕の中から抜け出そうともがく鴉を無理やり懐うちに入れ、シエラは立ち上がる。膝小僧は擦り剥けていたし、ほかにも無数に切り傷のたぐいはあったが、幸いにも骨を折ってはいないようだった。追手がかかる前に、ひとまずこの場所から離れなければならない。痛みをこらえ、建物とは反対の方角へよろめきながら進む。だが、ほどなくシエラの前に数人の男が立ちはだかった。黒騎士方の兵に違いない。彼らの目は皆血走って、異様な殺気に満ちている。 「その女をこちらに寄越せ」 「変なことを言うのね。ここにいるのはただの鴉よ」 「とぼけるな!」 胸を張ってこたえたシエラを男が恫喝する。伸ばされた手を跳ねのけ、シエラは鴉を抱えて逃げた。後ろから髪をつかまれ、草むらに引き倒される。口内に血の味が広がった。肩を取られ、腕を捻り上げられそうになるのをシエラは必死に身をよじって抗った。抱いていた鴉が腕から転げてしまい、片翼を男の手がわしづかむ。シエラは。シエラは。男の腰に差された剣を抜いた。よもや少女の手が伸びるとは思わなかったらしい。面食らってたたらを踏んだ男に向かって、つかんだものを振りかぶる。けれど、実戦用の剣はシエラが思っていたより、ずっと重かった。危うく振り回されて重心を崩しそうになり、なんとかとどまったが、もう一度振り上げる前に別の男に肘鉄を喰らわされた。シエラの小さな身体はたやすく草むらに吹っ飛ばされる。 「返しなさい!」 シエラは鴉を摘まみ上げる男へ叫んだ。なおも身じろぎすれば、脇腹を剣の鞘で殴られる。だが、シエラは草むらに爪を立てた。しがみつかなければならなかった。どうしても『それ』にしがみつかなければならなかった。ただ、オテルを取り返すだけではない。シエラはそのとき、もっと別の何かに対しても爪を立てていた。それは、かつて、厭い、嘆いて、俯き、傷ついて、倦み、もういらないと、捨ててしまいたいとすら思ったもの。認めよう。わたしは、『おまえ』を捨てたいと願い、確かに捨てた。けれど、ならば。ならば。もう一度、わたしは『おまえ』を取り戻したい。厭うた。嘆いた。押し潰されそうになり、傷ついて、けれど決して、忘れることができなかった。 それは誇り。 わたしをわたしたらしめるわたしの名だ。 「奪わせない、決して奪わせない、それは『わたし』のものなのよ!!!」 声が咽喉をほとばしる。 直後、男が動きを止めた。 「我が領内をこれ以上荒らすのは遠慮願おう」 「――伯爵」 男たちを取り囲むのは、群青の紋章をつけた兵だった。見れば、馬上に小柄な影――シュシュ伯爵がたたずんでいる。伯爵は腰を落とした男たちに向かって、銀杖を突きつけた。 「ソラミラは我が領内ぞ。それを我が許しなくして荒らし回るとは何事か。いくら教会の黒騎士殿とて、これは目に余る。かつてユグド王より賜った土地を預かる者として国王代理に申し入れるが、いかがか」 「ですが、この村にオテルという女とクロエという罪人がひそんでいると……」 「黒騎士殿より書状を受け、配下の者に調べさせたが、この村にそのような事実はない。領主である余が言うておるのじゃ。信じるに足らぬと?」 「そのようなことは……。ですが女は」 「――してそなた、鴉を摘まみ上げて何をしておるのだ? かわいそうに、羽を怪我しているではないか。シエラ。手当をしてやれ」 シュシュ伯爵の目配せを受けて、「はい」とこのときばかりはシエラも従順にうなずいた。男たちは一時抵抗するそぶりを見せたが、伯爵方の兵が剣に手をかけると沈黙し、鴉をシエラに返した。 「このようなことをして、ただで済むとは思われますな」 「そなたらこそ、我が領内でかような振る舞い、次は許さぬ」 男たちを追い返すと、シュシュ伯爵はふんと荒く息をついた。 「黒騎士はソラミラから引いたそうですよ」 長椅子の上で脚を組んで葉巻をふかしていた『カラス』に、シューラと呼ばれる伯爵の侍従が告げた。そう、と葉巻を咥え直すカラス、もといシャルロ=カラマイのそぶりはすげない。すでに黒騎士が去ったことを知っているかのようだった。 「あなたがお作りになられた教会の偽造書が利きましたな。失礼ですが、似せ字にも心得が?」 「長いこと生きていると特技は増えてゆくんだ。オテル術師の言うところの、『ちまくて下らない遊び』だね」 シャルロ=カラマイが、七大老の署名がなされた証書をシューラに持たせたのは数時間ほど前になる。それは『シャルロ=カラマイがシャンパーニュにて捕獲されたとの由』及び『即効帰還せよとの由』を綴った秘文書だった。黒騎士とはいえ、大老名で命令が出された以上、一時はこれに従わざるを得ない。 「命令を受けた以上、黒騎士は証書が偽か真かを教会に判じるまでは動くことができない。領主であるシュシュ伯爵自ら出れば、ソラミラ内に兵を残すことも叶いませんでしょう。証書が偽とわかり、ソラミラに戻る頃にはあなたはここを発っている算段ですか」 「そちらに迷惑はかけないよ。あなた方も偽の証書に騙されていたというふりをしてくださいね? そうすれば、教会は伯爵に手が出せない」 「ソラミラはいつ、発たれるのですか」 少しの感傷をこめて尋ねたシューラに、明日の朝にも、とシャルロ=カラマイはこたえた。引き止めても無駄なのだと、その声からうかがえた。 「イルテミーシア港へ向かう予定の商隊にまぎれる。黒騎士が周辺で張っているだろうから、二三小細工をしないとだめだろうけど、まあどうにかなるだろう。長いこと、世話になったね。あなたの可愛がっている少年伯爵にも伝えておいて」 「今回のことはシュシュ坊ちゃんにもよい勉強になったでしょう。ゆえに貸し借りは零といたしますよ、時渡る魔術師」 「あなたは子どもの頃から抜け目がなくって、苦手だ」 苦笑し、シャルロ=カラマイは葉巻を灰皿に押し付けた。短くなった燃えかすを残して腰を上げた男に、「もうお出かけで?」とシューラは瞬きをする。シャルロ=カラマイは肩をすくめた。 「いいや。ただ一個、先に片付けておくことがあるんだ」 リシュテンの占い師ローザは、ポケットの中の懐中時計が急に震え出したことに気付いた。ちょうどソラミラ村から引き上げるさなかだった。彼らを率いる黒騎士エヴァはたいそう機嫌が悪く、早馬を王都に出すなり、帰りはまだか!と怒鳴り散らす始末だった。 王都とソラミラは、休まず駆けても三日はかかる。往復を考えれば、六日。エヴァたちはソラミラを含めた侯爵の領内に立ち入ることはできず、みすみすシャルロ=カラマイを逃す可能性が高かった。無論、周囲では兵が張っているが、あちらも見つかる愚は侵すまい。 二ヴァナから懐中時計を預けられ、昼夜シャルロ=カラマイの所在を追っていたローザは、近頃妙な幻影に悩まされるようになっていた。持ち主であるシャルロ=カラマイの気配を探ろうと意識の深くに潜っていくと、急に時計が喋り出すことがあるのだ。 (エン……エン) (エン) かすれた男の声は、誰かを探しているかのようだ。怯えたローザが蝋燭の明かりにあてると、時計は銀の蓋を輝かせて沈黙する。最初は気のせいだと自分に言い聞かせていたが、この数日男の声は増すばかりだ。 (エン) (エン) 呪物は、長く使われているうちに意思を宿すようになるという。そして、ただびとを狂わせるとも言われていた。たぶんこれはそういったものなのだ、とローザは考え、恐ろしくなった。時計を捨てたくてたまらない。だが、自分を信頼して二ヴァナが預けたものなのだと思うと、できなかった。 「まただ……」 ローブのポケットから時計を取り出す。今や銀の表面は熱を帯び、内側から発火せんばかりだった。これも幻覚なのだろうか。だが見る間にわたしの手のひらが焼けただれていく! (エン) (エン) (エン!) 額にかさりと濡れた木の葉が当たる。それでローザは我に返り、目を開いた。あたりを見回し、ひっと叫び声を上げる。先ほどまで夜営のテントの中にいたはずなのに、今、足元には固い根雪が横たわり、密に立ち並ぶ樹影からは星の淡い光が射していた。いつの間にかテントを離れ、林の中に迷い込んでしまったらしい。 「何故、こんなところに……」 ひとりごちて、夜営のある明かりのほうへ戻ろうとする。しかしローザのすぐ前方で、人影が身じろぎした。 「こんばんは、ローザ術師。ご機嫌うるわしく。時計は持っている?」 「だ、誰だ!」 鋭い誰何を投げる。ローザの手元に明かりはなく、夜営の逆光のせいで男の顔は見えない。にもかかわらず、ローザには男が誰であるのかわかってしまった。懐中時計が叫んでいる。エンと。男の名を呼んでいる。 暗がりに光る金の双眸が、ローザを捕えた。 「確かに、俺とそれとは引き合うようにできている。でもまさか、こっちの探索に使われるとは思わなかった。二ヴァナにはやっぱり手を明かし過ぎたなあ」 「あな、あなたは時渡る……」 「この時代に残る魔術師の端くれに敬意を表して、その時計の話をしようか。それは、もとは俺の師であり、養父であった男の持ち物だった。ザイ=フォームント。俺の知る限り最高の魔術師であり、この国の星詠み師だった男の名だ」 男はポケットに手を突っ込んで、懐かしむように夜空を仰いでいる。対するローザは時計の鎖を握り締めたまま、少しも動くことができない。幾千の星が頭上で静かに瞬いている。 「俺は十九のとき、ザイから時計と星詠み師の称号を譲られた。この国を守るように、というのがザイの最後の願いだった。以来、俺は編み出した術式のすべての発動キーにその時計を設定している。二ヴァナの見立ては正しい。時計がなければ、俺は術式のひとつも使えない、不死の呪いを患うだけのただびとだ」 ローザも今は占い師に身を落としたが、もとは魔術をおさめた術師である。術式を使えばよかった。それでこの男を退けられるはずだった。なのに、魅入られたように動くことができない。男はそんなローザにはさっぱり気を留めた風でもなく、何故か愉快そうに咽喉を鳴らし始めた。 「ところで、まだ卵だった頃の俺に、ザイが言っていたことがある。あれはそう、確か星詠みの塔で修練を積んでいた時代だった。星詠みの塔に入るや、俺はすぐに周囲の年長の魔術師たちを追い越してしまった。結果やっかみを買って、とても大事にしていた宝物を盗まれてしまったことがあった。何かは忘れたけれど、とにかくそのときの俺にはとても大事なものだった。悔しくて、腹立たしくて、情けなくて、泣き出した俺に、ザイは言った」 『いいじゃねえか』 『泣くなよ、エン。そんなものは――』 不意にローブのポケットに入れていた手が突き出される。男の手には艶やかに光る拳銃が握られていた。ローザは声を失する。銃口はまっすぐローザへ向けられていた。引き金を引くとき、男は少し笑ったらしかった。 「“そんなものは、くれちまえ”ってね」 銃声が轟き、ローザが持っていた懐中時計の中央を射抜いた。かしゃん、と軽やかな音を立てて時計が砕け散り、ローザの手には重みのなくなった鎖だけが残る。男は金の眸を眇めてそれを見ていた。 「正気ではない」 知らずローザは呟いていた。 魔術師は、常にひとつの呪物しか持つことはできない。別の呪物を得るには、もとあった呪物を壊す必要がある。しかし壊すと同時にその呪物で設定していた術式はすべて消滅してしまう。すべて。すべてだ。千年に及ぶ時間の間に編み出し、構築した術式のすべて。ローザは絶叫していた。それは、魔術師として生まれた者すべての絶叫といってよかった。そんなことがあってよいわけがない。あってよいわけが。 「術式なら編み直せる」 「千年分の構築してきた術式は? 消えてしまった。消えてしまったではないか!」 「今必要なものだけあればいい。昔つくったものなんかいらないね」 這いつくばり砕けた時計をかき集めようとしたローザを遮り、男はブーツの底で破片を踏んだ。ひび割れた文字盤が崩れて、なくなる。足元を見下ろす金色の眸につかの間、愛情を湛えた光が宿って消えた。 「バイバイ、ザイ。せいぜい樹天で笑ってろ」 泣き叫ぶローザを残して、男はきびすを返す。 以降、『シャルロ=カラマイ』の足取りを黒騎士は完全に見失う。 |