オテルを追って森に入ったシエラが見つけたのは、雪の溶け残る草原で燃える炎だった。とっさに火事かと思った。けれど、その割には炎の範囲は狭く、消火をする男たちも落ち着きを払っている。扉が開け放たれたままの家の前に、黒い甲冑に身を包んだ騎士らしき身なりの者がいた。その手が剣で貫かれた鴉を引きずり上げているのを見つけて、シエラは思わず悲鳴を上げかける。あの鴉は、オテルだ。オテルが剣に貫かれ、倒れ伏している。 「盗み見はよくありませんね」 すぐ耳元で囁かれた声に、シエラは肩を跳ね上げた。口を塞がれ、背に固い甲冑らしきものがあたる。身じろぎしようとすると、ますます拘束が強くなった。耳元に冷たい吐息がかかる。 「オテル術師の知り合いですか?」 「――だったら、なんだというの」 言うや口を塞ぐ手に思いっきり噛みついてやった。ぎゃっと叫んだ男が手を離した隙に身を翻そうとして、濡れた草に足を取られる。慌てたせいで油断した。地面にしたたか顔と腹とを打ちつけ、シエラは呻く。尖った草で顔を切ったかもしれない。それでもすぐに起き上がって背後へ向き直ったが、肝心の男自身を見失ってしまった。嘘よ。どこへいったの。せり上がる焦燥が背を這う。せわしなくあたりを見回すシエラを、しかし次の瞬間、鈍器にも似た衝撃が襲った。 「すいませんね、お嬢さん」 剣の柄頭の部分で殴られたのだとわかる。申し訳なさそうに目を伏せる青年騎士を最後に、シエラの意識はぷっつりと途絶えた。 ・ ・ ・ 『おまえ、名はなんというの』 『名無し』 沈んでいく。 しずんで、いく。 それはとても遠い記憶のように思えた。 『名無し?』 尋ねたわたしに、少年が唇を引き結んで俯く。果敢なげな見た目に反して、少年の表情は頑なだった。そう、とうなずく。それなら、わたしが名付けてしまってかまわないのね、とそのとき、わたしは思った。おまえを見つけた瞬間に、思いついた名がある。おまえが何者でもないというのなら、わたしがおまえが何者なのかを決めてしまっていいはずだ。だって、おまえは、わたしのもの。わたしだけの***。誰に奪われるのも許さない。 『あなたは、誰です』 『私? 私はそう――』 「……ノ。ルノ! おい起きろルノ!!!」 肩を足で蹴りつけられ、シエラは目を開いた。 「……ん、」 未だ痛む後頭部のあたりをさすり、半身を起こす。痛いわ、と呟くと、「なんだ生きてるじゃないか」と相手が舌打ちした。 「今、わたしのこと、呼んだ……?」 「死体と一緒にいる趣味はないからな。『シエラ』」 名前の部分を強調して、オテルが悪態をついた。その声に時折、ぜぇ、と喘ぐような吐息が混じる。室内にこもった鉄錆じみた臭気が鼻を刺し、シエラは眉をひそめた。 「オテル、まさかおまえ怪我をしているの?」 「うるさい。話しかけるな」 壁に背をもたせたオテルは、視線を注意深げによそへとやった。見れば、草むらに転がされていたはずのシエラは鉄格子の内側――牢らしき場所に閉じ込められており、少し離れた場所にはいかにも屈強そうな見張りの兵が立っている。明かりは遠いところにひとつ蝋燭が灯っているだけで、こちらまでは届かない。シエラは壁を伝ってオテルのかたわらにたどりついた。鉄錆のにおいが強くなる。そっと腕のあたりに触れようとすると、「触るな」とオテルが拒んだ。 「肩? ひどい怪我よね。痛い?」 ルノの手から逃れようとオテルが胸をそらせたはずみに、じゃらりと手枷が金属音を立てる。どうやら石壁に繋がれているようだ。まるで罪人のような仕打ちである。ひどい、と呟き、シエラはオテルの腕にもう一度触れた。放っておいても構わないと判断されたのか、シエラを戒める縄はなかった。オテルの身体は熱病に侵されているひとみたいに熱い。 「いけない。お医者様を呼ばなきゃ」 「そんなものはいない。おい、よく聞け」 オテルは見張りへすばやく視線を走らせ、シエラの耳元へ唇を寄せた。 「黒騎士が、ソラミラ村へ放たれた」 「くろきし……?」 「教会直属の始末屋だ。残忍な手段も厭わない。あいつは……『カラス』は遅かれ早かれ黒騎士に捕まるだろう。いいか。黒騎士はあいつを捕まえれば、この村を発つ。うまく逃げられるように私がどうにかしてやるから、おまえはソラミラに残れ。『シエラ』として暮らすんだ」 「それで、あなたはどうするの」 「あいつと共にいく。それが私であるからな」 「オテル」 触れる腕の熱さに泣きそうになる。こんなに傷ついてぼろぼろなのに、何を言っているのだろうこのひとは。しんじゃいやよ、とシエラは呟いた。血にまみれた女の腕や肩をワンピースの袖で拭く。溢れ出すそれらが女の命のように思えて、何度も何度もそうやってしまう。 「どうしておまえが泣くんだ」 「だって、怖いわ」 「……何が?」 「あなたを喪ってしまうことが」 素直にシエラが漏らすと、オテルは咽喉を鳴らして少しだけわらった。石壁に気だるげに頭を預ける。 「なあシエラ。死より恐ろしいことがこの世にはあると思わないか」 「意味が、わからないわ」 「私もよくわからなかった。あいつの手を取ったときはよくわからなかった。だが、今はなんとなしにわかる」 「オテル」 外の一点を見つめ、オテルは息を吐いた。 「私が私でなくなること。そっちのほうが私は怖いよ」 ――そうね。 そうね、とシエラもまた思う。 私も、いつだって怖かったわ。 深く息を吐く。シエラはワンピースの裾を勢いよく引き裂いた。 「手当をするわ」 「だから、それは」 「うるさい怪我人。私の言うことを聞きなさい」 ぴしゃりと言って、シエラは裂いたワンピースを使って女の右肩を止血する。手当の仕方など、シエラは知らなかった。それでも、せめてこの女の右肩が動くようにしなければならなかった。離れた場所であくびをする見張りを盗み見ながら、シエラは口早に言った。 「以前、壁に穴をあけるのには、瞑想に三十分かかるってシャルロ=カラマイは言ったわ」 「……シエラ?」 「おまえなら、何分でできる? 師を超えることができるかしら」 女の肩からは未だ血が流れ続けている。裂き布を握る指先が震えた。それでも薄くわらって挑発してみせると、オテルはしばらく呆けた顔つきでこちらを見つめたあと、「ちがう」と不意に口端を上げた。 「包帯を巻くときは、こちらを軸にしろ。解ける。あと先ほどの問いだが、愚問だ。あの頭でっかちが得意としない術をこそが、私の『得意分野』だからな」 かっ、かっ。 問題は手枷をどうするかということだった。 オテルを捕えているのは金属製の手枷だったが、当人のオテルはおろか、シエラの細腕でも、とても外すことができそうにない。そういった類の魔術はないの、と尋ねると、粉砕はできるが対象物を絞り切れないので使うと手首が吹っ飛ぶ、とのことだった。 「あなたたちって……」 「なんだ」 「どうしてそう使い勝手が悪いの。仮にも魔術師のくせに」 かっ、かっ。 ごちたシエラに、「うるさいな」とオテルは唇を曲げた。 「そもそも、魔術というのは世界の理を読み解き、再構築する学問なんだ。手錠抜けなんて馬鹿な術式、歴代の星詠み師が編み出すわけがないだろう」 「ああ、そんなこと前にもシャルロ=カラマイが言っていたわ。あのときは扉にノブをつけてひとりで逃げたんだったわね」 かっ、かっ、かっ。 「あいつはそういう、ちんまい術が趣味なんだよ。あとはコインを消したり、髪の色を変えたり、くだらない術式ばかり作って遊んでいる。反対に、何かを破壊するとか攻撃するとかいう大仰な術は不得意なんだ」 「だから、あなたが請け負ったのね」 「そういうわけだ」 かっ! 地面を爪先で掻いていたオテルがひときわ強い音を鳴らす。瞬間、女の身体は急速に縮み、一羽の鴉が躍り出た。ひゅるりと手枷から抜け出した鴉をシエラは受け止める。翼を怪我している鴉は無論、飛ぶことなどできない。そして、『背後の扉を開けることも』。 「おい! 何か、音がしたぞ!」 異変に気付いたらしい見張りが声を上げる。その頃にはシエラは鴉を抱えて、石壁に生まれた扉を開けていた。師シャルロ=カラマイと同じ術でオテルが作り出した扉だ。確かに不得手というだけあって、若干立てつけが悪かったが、なんとか開く。シエラはそのまま外へ飛び出しかけ、 「きゃっ!?」 足が空を掻いたことに気付いた。 すぐ下に、地面がない。てっきり一階だと思い込んでいた牢は、二階だったのだ。集まった見張りの兵たちが外から閂を外す。腕の中の鴉が激しく騒ぎ立てた。――だいじょうぶ。ここから、落ちたって死なないはずだわ。し、死なないはずだわ。自分に言い聞かせるが、下から巻き上げる風に二の足を踏んでしまう。 閂が落ちる。 「つかまえろ!!」 シエラは目を瞑って、床を蹴った。背後では、扉が開くと同時にオテルが仕掛けた魔術が発動し、爆風が吹き抜けた。 |