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09



『詐欺師だな』

 かつてそう揶揄したオテルに、君のほうがよっぽどだとシャルロ=カラマイは苦笑した。性別を偽り、オテルがユゥリートと名乗っていた頃。大学での日々のことである。

 鴉の姿に変じたオテルはソラミラの空を翔けていた。
 術師は性質に応じて術の向き不向きがあり、師匠であるシャルロ=カラマイのような一部の例外をのぞけば、使用可能な術式には限りがある。オテルが得意とするのは、魔力を叩きつければ済む破壊系統の術式と、変化術。ただし、形が大きくなるにつれ集中が要るため、オテルには鴉程度の大きさがちょうどよかった。ちなみに王立大学にユゥリートとして通っていた頃に使っていたのは暗示のたぐいで、これは女性であるオテルを男と思い込ませる術であり、身体そのものを変えていたわけではない。
 
 ――あの姫君に初めて会ったのも大学だったか。

 脳裏に唇を噛み締める少女の横顔が蘇ってきて、オテルの胸中はざわめいた。あれは、オテルのただの八つ当たりだ。いわれのない叱責を受けていちばん傷ついているのは、ルノだろう。シャルロ=カラマイやオテルの事情はルノには関係のないことであるし、そもそもルノを助けたのはオテルだ。助けてくれと彼女に乞われたわけじゃない。すべて、わたしが肝心なときに師を選べなかったせい。未熟だったせいだ。
 
 ――ああ、苛々する。

 頭を振ると、オテルは木立の間をちろちろと動く炎を見つけて翼を返した。炎の正体は、連なる松明だった。甲冑をつけた男たちが掲げたそれは、赤々と無数に燃えている。今日は祭りの晩でもなんでもなく、寝静まった寒村を照らし出す松明は奇妙だった。

「……を! …るしを!」

 風音にまぎれて微かに聞こえてきた声に、オテルは眸を眇めた。高度をさらに下げる。枝のひとつに留まると、村外れの家に集まる松明が見えた。扉の前で子どもを抱えた女性が髪を振り乱して叫んでいる。

「おゆるしを! どうかおゆるしを……!」

 女の周りには、鋼の甲冑をつけた騎士の姿が見える。松明の炎を反射して黒光りする甲冑へ目をやったオテルは、騎士のちょうど手甲のあたりについた血に気付いて息をのんだ。子どもを抱えた女性の頬が腫れている。殴られたのか。

「ここに、女はいません! 金眸の男なども!」

 『金眸』という言葉で、彼らが王都から放たれた追手らしいと瞬時に悟る。直前までよその兵が近付いているという情報はなかった。気を配していたはずなのに、何故ソラミラだと知れたのか。しかし、考えている暇はなかった。すぐさま翼を広げる。

「だが、おまえは中を隠し立てしようとした」
「それは……っ娘が熱を……!」

 叫ぶ女へ、黒騎士が腰から提げた剣を引き抜く。舌打ちし、オテルは枝を蹴って林間から飛び出した。黒騎士の銀兜目がけて急降下し、その勢いのまま松明を持つ兵の腕に体当たりする。燃木が落ちて、黒騎士が動きを止めた。草むらに火が燃え広がる。熱せられた木片を咥え、別の男の横面にあてた。悲鳴が上がり、明かりが落とされる。兵の間を縫って瞬く間にあたりを混乱に陥れると、オテルは女のほうへ目配せを送った。鴉の目配せに気付いたかはしれないが、女が子どもを抱えてきびすを返す。見届けたオテルも翼を返した。だがそれを。ずん、と背後から貫いた衝撃が阻んだ。

「どこの鴉だ? うん? ずいぶん豪気じゃあないか」

 片翼を剣で貫かれ、地に縫い止められる。叫び声を上げると、ぐっと抉るように剣を押し付け、「こやつ、術師だ」と黒騎士が嗤った。くぐもったその声はしかし、男のものよりずっと細く、甘やかだ。

「ふん。苦しくてかなわんなあこれは」

 剣を突き立てたまま手を離し、黒騎士はおもむろにかぶった銀兜を取り去った。柔らかなヘイズルの髪がなだれを打って背に落ちる。白皙の横顔は美しく、頬は熱を帯びて、薔薇色に上気している。女。兜の下から現れたのは、女だった。

「そういえば、クロエは化けるのが上手な娘を連れていたな。懐かしい。なあ、オテルよ。わたしが誰だかわかるか?」

 それは幼い頃、シャルロ=カラマイに連れられて滞在したリシュテン家で一度だけ見たことのある少女だった。聡明で気位が高く、それから残忍な娘。エヴァ=リシュテン。今代聖女の異母姉は鎧の金具を鳴らしてかがむと、力なく項垂れた鴉を摘まんで薄く嗤った。


***


 
 蒼い草むらを一面の炎が包んでいる。
 息を吸うと、肺腑が焼かれる心地がして、少女はけほ、と乾いた咳をした。くるしい。息ができない。傷ついた足を引きずって、少女はあてどなく炎の中をさまよい歩く。身に纏っていたものは焦げて、いつの間にかぼろぼろになってしまっていた。祖母が裾に刺繍をしてくれたワンピース。いちばんのお気に入りだったのに、もう破れてしまって刺繍がどこにあったかもわからない。

 ――のどがかわいた。

 いったいどれほどさまよい歩いたろう。ついに力尽きて、少女は草むらに倒れ込む。少女の左足には重い火傷があった。他の部分が焼けずに済んだのは、燃え盛る梁が落ちてきたとき、祖母が少女を抱きしめ守ってくれたからだ。
 少女には父も母もいなかった。生まれたときから少女はひとには見えないものが見えてしまう目を持っていて、気味悪がった両親は少女を祖母のもとへと預けていなくなったのだ。世界にはたくさん、金色の粒が舞っている。金色の粒は膨らんだり、萎んだり、繋がったり、どこかへいってしまったりする。不思議なものばかりを見て、周囲からは遠巻きにされている少女に、けれど祖母は優しかった。その目は神様が与えてくれたものだから大事になさい、と言っておやすみの前には皺の刻まれた手で瞼を覆ってくれた。祖母に抱きしめられて眠るのが少女はとても好きだった。そのときだけは、少女には苦しいだけのこの世界に、生きていることを許されるような、そんな気がしたから。
 けれど、その祖母ももう生きてはいないだろう。
 少女が生まれたのは、クレンツェの端に位置する小さな農村で、古い迷信がまだ本当のことのように信じられている場所だった。どこの誰による密告だったのか、『呪い子』がいると知った領主が、城の兵たちを遣わし、呪い子狩りをしたのだった。
 村は燃えた。
 いつも柔らかな水音を紡ぎ出していた水車も、春の陽にきらめく小川も、少女だけの秘密の野苺畑ももうない。どこにもない。わたしのせいだ、と少女は思った。わたしが隠れていたせいで、みんな、なくなってしまった。それなら、わたしは罰を受けて死んだほうがよいのだろうか。両親が気味悪がって捨てたときに、いっそ殺されていたほうがよかったんじゃないか。だけどもう考えることすらつらく、少女は倒れた草の上で、重くなった瞼をゆるゆると下ろす。早く楽になりたかった。

「なんだ、まだ生きている子がいる」

 その声は突如天から閃いた。
 肩を揺らして、少女は身じろぎをする。顔を上げるだけの気力はすでになかった。苦心して仰向けになった少女は、さくりと焼けた草を踏みしだくブーツと、愉快そうに眸を細めてじぶんを見下ろしている男を順々に目に入れた。細く息をのむ。男は見たことのない不思議な眸の色をしていた。ちょうど世界に舞う黄金の粒を集めて宝石にしたような。黄金。

「だあれ……」
「俺はクロエ。前の名前は……もう忘れちゃったな。今日からクロエと、名乗ることにしたんだ」

 火の粉交じりの風が吹きすさぶ草むらで、黒ローブのポケットに手を突っ込み、平然と話す男は、少女の目にも化け物じみて見えた。大地の炎が届いたかのように、天もまた赤い。炎の輝きを映す男の眸は、てらてらと光り、妖しい美しさを湛えていた。

「呪い子がいると聞いてやってきたんだけれど、これはあまりにひどいね。あいつは天罰があたるよ」
「おまえは、てんしさま?」
「天使?」

 天を仰いでいた男はそれで不意に少女のほうへ目を戻した。面食らったような顔つきが思ったよりも人間くさくて、「ちがうの?」と少女は首を傾げる。樹天から下りた御遣いが自分を迎えにきてくれたのかと思ったのに。

「天使……天使ねえ、そうか。ふふ、俺がねえ。そう見える?」

 くすくすとひとしきり笑った男は、気を取り直した様子で少女の前にかがんだ。虚ろに見上げるばかりの少女へ、手のひらが差し出される。

「天使か悪魔か。この手を取るか否か。君が判じて、決めるといい。俺はひとを救わない」
「わたしが?」
「そう、君が。『俺』を選ぶんだ」

 それは生まれながらに半ばすべてを諦めていた少女には天啓に近い言葉だった。
 選ぶ。わたしが、選ぶ。

「わたしは、生きたい……!!!」

 たとえ、おまえのその手が悪魔でも。


***



 肩から剣を引き抜かれる激痛に、オテルは吼えた。
 薄靄のかかっていた視界が一気に鮮明さを取り戻す。変化の術は解け、オテルはひとの姿に戻っていた。吼えたはずみにじゃらりと金属のこすれ合う重い音が鳴る。背に回された手に拘束具が嵌められているらしい。

「お目覚めかな、オテル術師」

 急に向けられたカンテラの眩しさに思わず目を細めると、鉄格子越しに甘い笑い声が立った。左手にカンテラ、右手に引き抜いた剣を握っているのは黒騎士エヴァ=リシュテンだ。今は甲冑の代わりに、貴族の娘らしい裾にレースをあしらった喪服じみた色のドレスを着ている。

「まさかこのような寒村でおまえと再会するとは思わなかったさ」
「エヴァ、貴様……」
「エヴァ様だ。口を慎め」

 尖ったヒールの先で未だ血を流し続ける肩を踏みつけ、エヴァはオテルの頬へ剣の刃をあてた。

「おまえの柔肌を切り刻むのはさぞ楽しかろう。クロエはおまえを可愛がっていたからな。おまえを切り刻んで箱に詰めて贈ったら、さしもの時渡る魔術師だって取り乱すんじゃないか」
「さあ。あいつにはもうしばらく会ってないからわからないな」
「嘘をつけ」

 ぐっとヒールをめりこませられると、抑えきれない悲鳴が喉をついて出た。噴き出した汗で張り付いた黒髪を引き上げ、「おまえは嘘を吐いている」とエヴァは口端を歪めた。

「クロエはおまえとともにあるはずだ。何せ、今あの男はおまえが守ってやらねば、たやすく我が手に落ちる憐れで無力な罪人よ。クロエはどこだ」
「あれを無力と思っているなら、貴様の頭も腐ったな」
「うん? ソラミラか。だろう?」
「知らないと言っている」
「忌々しい態度は師匠譲りだな」

 みどりの眸が淡く透ける。
 エヴァという女は昔からそうだ。青に近いみどりの眸を持ち、正気と狂気の境が危うくなってくると眸の色が透ける。おもむろにヒールを離すと、エヴァはカンテラの灯心を抜き出し、それでオテルの傷口を焼いた。獣じみた悲鳴が上がり、手首を戒める拘束具が激しく打ち鳴る。自分で自分のものなのかわからなくなるくらい、ひゅうひゅうと咽喉が鳴っている。ひとしきり悶えたオテルの痴態に満足したのか、エヴァは灯心を離して腰を上げた。

「――ソラミラ村だ。この近くに時渡る魔術師がいる。探すぞ」
「エヴァぁああああ!!」
「止めたかったらまた鴉にでもなるんだな。安心しろ。夜明けまでには、お前の師を連れて帰ってくるさ。ああ、それと」

 何かを思い出した様子で、エヴァは武人のひとりが抱えていたものを中へ放り投げた。どさ、と重い音が鳴る。湿った床に転がされた少女はそれでも反応する気配もなく、固く眸を閉ざしている。ルノだった。

「知り合いか? おまえを追って森に迷い込んできたのを私の手の者が捕えたのだが」
「……村の子どもだ」

 どうやらエヴァは、彼女がルノ=コークランであることには気付いてないらしい。遠目か、肖像画程度では目にしたことがあるはずだが、よもやソラミラ村の薄汚れた子どもと王女が同一人物だとすぐに見分けられる者は少ないだろう。それに、オテルはルノに軽微な暗示をかけていた。「見た者の注意を引かない」暗示である。足元の少女を一瞥したきり無関心にこたえると、「ほう?」とエヴァはうなずき、緩く波打つヘイズルの髪に指を絡めて微笑んだ。

「おまえが子どもねえ。なら、仲良くお手付き遊びでもしていろ。私がクロエを連れて帰ってくるまで」

 咽喉を鳴らして嘲笑い、エヴァは牢の錠を落とした。


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