「伯爵」 あてがわれた部屋でシーツをかぶって寝ていたシュシュ伯爵に声がかかったのは、夜も遅い時間だった。答えないでいると、「伯爵。起きていらっしゃるんでしょう」と駄々っ子をあやすような老爺の穏やかな声がまたした。乳飲み子の頃からこの老爺に抱かれて育ったシュシュ伯爵は、外ではどのような振る舞いをしていても、彼にだけは敵わない。 「……シューラか。なんだ」 「入っても?」 「ああ」 むっつりと身を起こすと、扉を閉めたシューラが「ホットミルクです」と言った。 「あまり夕食が進んでいなかったようなので。おなかがすかれたでしょう」 すべてお見通しといった目をしているのが少し煩わしい。ふん、とそっぽを向いてカップを受け取る。夕食はシエラの目を気にするあまり、ろくに食べた気がしなかった。シューラに気付かれていたのはよい気がしないが、先ほどからおなかの音が鳴り続けていたので、温められたミルクは僥倖だった。 「シエラをどう思う。おまえ」 「愛らしいお嬢さんですね」 「テーブルマナーだよ。このソラミラであんな物の喰い方をする女がいるのか」 「確か、シエラがやってきたのは数か月前だと聞きましたが」 「記憶を失っている」 「ええ」 うなずき、「お代わりもありますよ」とシューラはすぐに空になってしまったカップに目を留めて、ポットを掲げた。顔をしかめて、シュシュ伯爵はカップだけをシューラのほうへ差し出す。ポットを傾けると、ミルクの甘いにおいが広がった。 「先ほどこちらへ遣いが。屋敷に来客があった模様です」 「来客? そんな報せはなかったが。誰だ?」 「王立教会の黒騎士を名乗ったそうです」 シュシュ伯爵は眉をひそめる。 黒騎士。この国でその名を知らぬ者はいないが、表に出ることはほぼなく、出自や年齢なども一切謎に包まれている。騎士は通常、王が叙任を行うが、北騎士、黒騎士といった四騎士は教会の直属となるため、内情は秘されていた。それが余計に想像を掻き立てるのか、黒騎士については、常に陰惨な噂がまとわりついている。曰く、暗殺、陰謀、闇取引といった王国の影の部分をすべて請け負っているという――。 「何故、黒騎士などが余のもとへ来る」 「罪人を探しているとのことでした。ひとりは黒髪黒眸の女。もうひとりは黒髪金眸の男。何でも魔の形跡を追って、このソラミラまでたどりついたとか」 「金色……? そんな目立つ容姿の男は見たことがないが」 シュシュ伯爵は顎に手をあてた。 「黒騎士は領内に触れを出すとともに、捜索の許可を得たいと申し出たそうです」 「ふん、忌々しい。ここは余の領地ぞ」 「屋敷内では、テトが腕を斬られたとの由」 「なっ!? テトがか!」 テトは伯爵の抱える武人の中でも屈指の男として信頼を置いていた。思わず立ち上がりかけたシュシュ伯爵を「落ち着かれませ」とシューラが諌める。 「黒騎士は非常に残忍な騎士です。聞けば、周辺の村でも同様の措置があったとのこと。ここは真っ向から対立せず、立ち去るのを待つほうが良策であるかと……」 「その前に死人が出たらどうする!」 舌打ちをし、シュシュ伯爵は勢いよくカップを置いた。 忌々しい、とこぼれた声は苦かった。 「シュシュ伯爵はなんと?」 「まだ返事はありません」 「ほーう? 武人をひとり斬ったというのに、なかなか図太い子どもじゃないか」 口元に微笑を浮かべ、黒騎士は銀兜の下から夜の静謐に沈むソラミラを見渡した。 兵を率いた黒騎士がソラミラ村にたどりついたのは、一時間ほど前である。 シャルロ=カラマイらしき男の姿と若い女の姿は、巡礼街道で一度目撃されていた。そこで、連れてきたリシュテンの老占い師に尋ねると、銀の懐中時計を手の上で転がしながら、何かを感じた様子で、北の方角を指した。占い師曰く、シャルロ=カラマイは一所から動いてはいないらしい。また、北方と王都のちょうど間にあるいくつかの村のうちのどれかだと見立てた。 黒騎士は一隊を率い、巡礼街道を北に駆けた。時計と持ち主のシャルロ=カラマイには互いに引き合う性質があり、近づくほどにその引力は強まるらしい。三つの村を渡り歩いた末、最後に占い師が指したのが、ソラミラ村だった。占い師の手の中で今や、懐中時計は生き物のように小刻みに震えている。ここだ、と黒騎士も確信した。 「ならば、先にあらためさせてもらうしかないな?」 「ですが」 「罪状はあとから作れ。行くぞ」 青毛の馬の腹を蹴る。闇夜に放たれた騎士たちはさながら亡霊のように不気味な静けさを纏ってソラミラ村内部へと侵入した。 「リシューから聞いた。晩餐のとき、伯爵に呼び出されたらしいな」 その日、ちょうど日付が変わる直前に戻ってきたオテルは、肩に担いだずた袋を寝台に放り投げるなり、そう言った。青の家で、オテルとシエラは同室を使用している。しかしオテルはたいてい留守がちで、夕食はおろか、夜明け方――シエラが眠ったあとに戻ることがほとんどだった。月明かりを頼りに繕い物をしていたシエラは思わず、「今日は早かったのね」と呟いてしまった。 「いつもどこへ行っているの?」 「おまえには関係ない」 答えるオテルは相変わらずにべがない。分厚い外套を脱ぐと、寝台に座ってきつく締めたブーツの紐を解いていく。シエラを助けてくれたこの命の恩人は、けれど一向にシエラに対する態度を軟化させようとはしなかった。そう、と唇を引き結んで、シエラは足元のあたりに目を落とす。 「でも、あれは仕方なかったのよ。伯爵がリシューをもらうというから」 「へえ。それで、王宮仕込みのテーブルマナーを披露したと。ふざけるな」 目を瞬かせたシエラの頤を、オテルがつかんだ。容赦ない力に思わず呻くと、激しい怒りを宿した双眸がシエラを睨んだ。 「軽はずみな行動で周囲の注意を引くのはよせ。あいつは今死なないだけの常人なんだ。見つかれば、たやすく捕まる」 「い、言っている意味がわからないわ……」 「おまえはすべて忘れた気でいるだろうが」 ぴしゃりとオテルが言った。 「おまえの名はまだ忘れられちゃいない。見つかれば、おまえだって命を狙われる身だ。わかったか。私は、二度はおまえなど、助けんぞ」 「オテル」 「まちがえたんだ」 食いしばった歯の合間から漏れた呟きに、シエラは眉をひそめた。 「……何を間違えたというのよ」 「ほんの少し関わっただけのおまえなんかにほだされて。あいつの言うとおりだよ、私は甘い。私の甘さが、あいつの千年を無駄にしたんだ」 俯いたオテルの眉根は苦悶に寄せられている。 「オテル。でも、」 「うるさい。おまえの声なんか聞きたくない」 頑なな拒絶に、シエラは口をつぐむ。仕方なく、寝台に放り出されていたオテルの外套を拾って、ハンガーにかけ直した。そうしながら、一度二度、次の言葉を考えて口を開きかけたが、やっぱりうまい言葉が浮かばず、俯いてしまう。 「何だ……?」 ふと何かに気付いた様子で、オテルが窓の外に目を向けた。月明かりに照らされた横顔には、微かな驚愕と警戒が浮かんでいる。 「何かあったの?」 シエラも隣に立ったが、そこには深夜の黒々とした闇が広がるばかりで、普段と何ら変わりはない。けれど、オテルの目は確かに別の何かを捉えているらしい。遠方に視線を固定したまま、思案げに顎をさする。やがてぽつりとオテルは言った。 「火が燃えているな」 「どこ? 私には見えないわ」 「見てくる。おまえはあいつとここを動くな」 オテルが一息に窓を開け放つ。とたん、冷たいつむじ風が中へ吹き込んだ。シミューズの裾を巻き上げる風にシエラが腕を掲げると、オテルは一羽の鴉に身を変え、外へ飛び出した。 「ちょっと! 待ちなさい! どこへ行くのよ!」 窓に取りすがって叫ぶが、鴉の姿は見る間に夜闇にまぎれて見えなくなってしまった。あとには倒れたブーツとハンガーに架かった外套だけが残される。 「なんなのよ……」 言いたいことだけを言って飛び去ってしまったオテルが恨めしく、シエラは唇を尖らせた。つかまれた頤がまだじんじんと熱っぽく疼いている。 「間違えたって何よ」 オテルの言うとおり、シエラを救ったのと引き換えに、オテルたちは何か大事なものを失ってしまったのかもしれない。謝っても謝りきれない。何も知らないでおめおめと生きるシエラをオテルがうとましく思うのもうなずける。けれど。 シエラは憤っていた。 猛烈に憤っていた。激怒といってよい。 「ふざけるなはこっちの台詞よ!」 おめおめと生きて何が悪い。 誰だって死にたくない。そんなこと、当たり前だ! だって、空に放り出されたその瞬間、『わたし』はまだ死にたくないと、まだやるべきことをひとつもしていないと、泣きたくなりながら天穹へ指先を伸ばしたはずだから。それをつかんでくれたのはオテル。あなただったんでしょう。 窓を閉じると、シエラは自分の外套をハンガーから下ろした。マフラーを巻き、頭には毛織の帽子をかぶる。――そうしてランタンに火を入れ、外へ出ていく少女を、別室で窓に寄りかかりながら金眸の男は見送る。まったく君は変わんないと呟きながら。 |