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07



 結局、シュシュ伯爵はすべての料理を食べ終えたのち、舌打ちして部屋を出て行った。シエラのテーブルマナーに突っ込むところがなかったのが、悔しかったらしい。

「伯爵の我儘に付き合わせて申し訳ない。悪気はないのですよ」

 残された食器を片付けていた侍従らしき老人が、駆け寄ったシエラを苦笑交じりに押しとどめて言う。私も手伝います、と首を振って、シエラは扉からそっと顔をのぞかせたエクたちを呼び、食器を運んだ。
 確かに、シュシュ伯爵の振る舞いは横暴で子どもじみていたが、使用人は皆謙虚で、シエラたちにも丁寧な言葉遣いで話してくれる。そして彼らはあの年若い伯爵を心底敬っているように見えるのが不思議だった。

「あの方は、幼くして多くの裏切りにあってしまった。伯爵位につく頃にはもうすっかり笑うことを忘れておられました。父君がご健在の頃は、よく悪戯をして回る快活な坊ちゃんだったのですが」
「父上様は若くして亡くなられたようですね」
「ええ。寵愛した家臣に毒を盛られたのです」

 目を瞠ったシエラに、侍従の老人は少しだけ悲しそうな顔をする。食後の紅茶を注ぐと、「ありがとう」と柔和に微笑んでカップを傾けた。

「伯爵は家臣を突き止めると、一派を自らの手で処断し、屋敷から追い出しました。その中には慕っていた乳母や家庭教師なども。爵位を継ぐ前夜、こんなものは欲しくなかったと泣いた伯爵をお諫めしたのはわたくしです」
「何故?」
「はい?」
「何故、お諫めしたのですか?」

 険しい道のりの選択だ。裏切り者を追い出し、忠臣に囲まれても、周辺領地の領主は、この小さく力のない伯爵を取り込もうと時に脅し、時に誑かすだろう。そのすべてに齢十歳の子どもがひとりで対峙していかなくてはならない。途方もない道のりだった。思わず尋ねたシエラに、侍従は苦笑気味に首をすくめる。ややもして、「誇り」と彼は言った。

「誇りを捨てて生きることは、死ぬことと同じです。たとえ血に塗れようとも、襲い掛かる苦悩が心の在り方そのものを歪めようとも。誇りを捨てた人間に訪れるのは、精神の緩慢な死です。それに伯爵は、命を賭して私がお守りいたしますゆえ」

 凪いだ老人の双眸につかの間、戦場を生き抜く武人のごとき鋼の色がよぎった。表情を固くしたシエラをよそに、「老人の戯言を失礼しました」ともとの柔和な笑顔に戻って呟くと、侍従はカップに口を付けた。


***



 夜の王都は、早咲きの花の甘い香りに満ちていた。
 聖音鳥を伴い、イジュは眼鏡橋のたもとへ舞い降りた。人気のない橋に、長い翼を伸ばした影が落ちる。かつては思う場所にうまく飛ぶことができず苦心したが、今では目を瞑って場所を思い浮かべるだけで移動することができた。
 
「このあたりは私もよく歩いた場所なんですよ」

 とことことついてくる聖音鳥に説明をしながら、昔王女とこの橋を歩いたときのようにイジュは橋の立ち上がりを軽やかな足取りで歩く。橋の下では黒々した水流が激しい音を立てて渦巻いていた。昨夜は大雨が降った。増量した水は、普段は道になっている人工水路のほうへ流れ出している。笠の増した水から逃れるように、橋のたもとでブランケットにくるまり眠っていた男を見つけ、イジュは微笑んだ。

「こんばんは」

 橋の立ち上がりにしゃがんで、男をのぞきこむ。眠たげな目を瞬かせた男は、こちらを認めるなり、「ひっ……!?」と懐に隠し持っていたナイフを向けてきた。

「おや、ずいぶんな挨拶ですね」
「来やがったな、悪魔! おまえだろう! 近頃、俺の仲間たちを次々殺して回ってんのは! 命からがら生き延びた奴に訊いた。そいつは、聖女のごとき面をした悪魔のような男で、必ず少女の天使を連れているって」
「なんだかずいぶん、詩的な表現をされる方ですね……」

 若干呆れて肩をすくめ、「ご存じならば、結構」とイジュは鼻梁に突き付けられたナイフにも物怖じせず、たもとへ飛び降りた。聖音鳥が得意とするのはおもに空間の移動で、身を守る術はなかったが、この程度のナイフなら、長くルノの護衛を務めたイジュには脅しにもならない。だからイジュは自分に向けてなおもナイフをかざす男へ一瞥を送っただけで、構わず話を続けた。

「私の目的はひとつ。ヘルヴィンナの森の惨事についてお聞きしたい。私がそれを知ったときには、あなたがたの頭領、その他首謀者と目される者たちは処刑されたあとでした。なので、こうして地道に残った方々へおうかがいして回っているのですよ」
「し、知るか! 俺は何も知らねえ! 頭領がヘルヴィンナの森で一発仕掛けるって聞いて、仲間たちを輸送しただけだ」
「その頭領について、あなたのお仲間が妙なことを呟いていたんですが。ヘルヴィンナの森を張ると決める前に、頭領のもとに来客があったと。長く頭領の小姓をつとめていたあなたなら、ご存じじゃあないですか?」
「来客だと……?」

 聞き返す男の目は暗く落ち窪んでいる。垢に塗れ、衣服もぼろぼろであったが、よく見ればイジュよりもずっと年下の少年に近い年頃だとうかがえた。それなりに見目も麗しかったに違いない。少年の無精ひげの生えた顎のあたりを眺めていると、不意に落ち窪んだ眸がぎょろりと動いた。

「この、化け物どもがっ!! おまえらに話す話はねえよ!」

 イジュの上着裾を握っていた聖音鳥に向かって、ナイフが閃く。イジュは手にしていた剣鞘でそれを払った。手首の皮膚を薄くナイフが裂いたが、構わない。跳ねたナイフが増量した水路へ吸い込まれる。あっ、という顔をしてそちらに気を取られた少年の腹へ鞘ごと剣を押し込んだ。げぇっ、と呻いて、少年が石畳に転がる。
 聖音鳥と契約を結んで起きた変化はいくつかある。
 ひとつは先の空間移動。イジュは今、かなり細かな目的地までイメージひとつで移動することができる。また全体的に神経が鋭敏になり、夜目が利くようになった。小さな音、微かなにおい、わずかな気配、そういったものを今のイジュはつぶさに感じ取ることができる。反対に、一日の半分ほどは強烈な睡魔に襲われて、寝台に突っ伏す時間が多くなった。そのせいなのか、食欲は無いに等しい。ろくに物を食べずとも、活動できるのが不思議だった。
 イジュは背を折って咳き込む少年の眸へ剣の切っ先を突き付けた。

「その年で盲になるのは嫌でしょう」
「やめ……、やめろ! やめろ!!!」
「なら、思い出してください?」
「だけど、だけど……っ」

 少年の目から涙が溢れる。顔を涙と鼻水とで汚し、頭をかきむしる少年を見つめ、イジュは叢雲のかかる月を仰いだ。それから、息を整えて、剣を薙ごうとする。

「……かげ、とかげ、蜥蜴! 蜥蜴、だった!!!」
「――はい?」

 気でもふれたのか、唾を飛ばして叫ぶ少年へイジュは聞き返す。ぎりぎりのところで止まった切っ先に蒼褪め、「い、いつだかわかんねぇけど、とか、蜥蜴の刺青をした餓鬼が訪ねてきたことが、あったんだよ」とどもりながら少年が吐き出した。

「聞きましょう。続けて?」
「栗を焼いていたから、秋……確か秋だ。頭領んところに、餓鬼が訪ねてきた。浅黒い肌で、ちょっと異国人風の顔立ちだったから、覚えてる。何を話していたかは、わからねえ。ただヘルヴィンナの話が出たのはあのあとだったような……。その餓鬼の、ちょうど腕のあたりに蜥蜴の刺青があったんだよ。黒くて、気持ち悪かったから覚えている。ああ、そうだよ。蜥蜴の刺青だった」

 浅黒い肌をした少年。蜥蜴の刺青を持った。
 ああ、とイジュは笑う。
 もちろん心当たりならあった。

「ありがとうございます」
「じゃあ、たすけ……」
「ええ。無事樹天へゆけるよう祈っておきますね。どうやら私は聖なる乙女らしいので」
 
 少年の顔が歪む。直後、違わず心臓を貫いた。四肢が一瞬びくっと跳ねたが、すぐに少年は口をぽっかり開けたまま、物言わぬ骸になった。イジュは赤くぬめった剣を拭くと鞘におさめ、少年の身体を増量した水路に落とす。濁流は見る間に骸をさらい、時折硬い物がぶつかる音を立てながら流れていった。

「黒い蜥蜴ですか。そう」

 イジュはいざり出た満月を仰いだ。こみ上げてきた嗚咽なのか笑いなのか知れないものをおさえるのに苦心する。黒い蜥蜴の刺青を持った少年が誰の随身であったかを、イジュは覚えている。二ヴァナ。二ヴァナ=リシュテン。忘れるはずがない。

「たどりつきますから。もうすぐ。あなたをあんな目に遭わせた男に。……ルノ様」

 呟いてから、ふと上着の裾を未だ握り締める聖音鳥に気付いて、目を落とした。聖音鳥の折れそうな手首には、薄い血の筋が走っている。イジュがさっき少年に切られたのとまったく同じ位置、同じ傷痕だ。むずがって眉根を寄せる聖音鳥の頭を撫でて、おそろいですね、と囁く。聖音鳥はそれですぐにうれしそうな顔になったが――。
 それにしても、神獣である彼女がいったいどこで怪我をしたのだろうか、と少しだけイジュは不思議に思った。

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