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06



 ぱたぱたと軽やかな音を立てて少女の足音が遠ざかっていく。その音が完全に聞こえなくなったのを見取ったリシューは嘆息し、背後を振り返った。

「あなたほどの方が盗み聞きですか。クロエ」
「俺が眠っていたら、君らがやってきたんだよ」

 窓辺に置かれた長椅子からぬっと青年が身を起こす。身体にかけていたブランケットを取り去ると、それまで希薄だった青年の気配が一瞬にして現実味を取り戻した。魔術にすら満たない、軽微な暗示のひとつだろう。そうでなくとも、クロエという男はいつだって神出鬼没で、気配を絶つなど朝飯前だ。やはりまだ痛むのか、こめかみのあたりを揉んでいるクロエの隣を示して、「座っても?」とリシューは尋ねた。

「頭はまだ痛みますか」
「まあまあね。それで、何?」
「ええ……」
「姫のこと?」
「そうです」

 すぐに言い当ててしまうあたりがクロエという男らしい。おそらくリシューがこれから話すことにもおおかた想像はついているのだろう。それでもあえて、リシューは自分から口を開くことにした。

「ねえクロエ。あの子を『シエラ』のままでいさせてやることはできませんか」
「それは、俺が決めることじゃないよ。リシュー」

 案の定、クロエは肩をすくめた。

「嘘。あなたのような方が、彼女を常に目に届く場所に置いていらっしゃる。目的もなしに? あなたらしくないですよ」
「俺だって時には親切心を出したりもする。第一、ルノ=コークランを助けたのはオテル術師だよ。俺じゃない。彼女は真面目だから、そのことでずいぶん悩んでいるみたいだけれど」

 先ほどのルノに対するオテルの物言いを思い出したのか、クロエは苦笑した。

「ただね。魔術師としての俺そのものを代償に、命を救ったんだ。ルノ=コークランにはそのぶんの『支払い』に応じる義務がある。ギブ・アンド・テイク。これは彼女と俺との間のルールなんだよ、リシュー。たとえ、今の彼女が覚えていなくたってね。君が横から口出す話じゃない」
「ルノ=コークランに戻れば、あの子は再び命を狙われます」

 顎をしゃくって先を促した男に、「あなたならば、とっくにおわかりでしょう」とリシューは顔をしかめた。握り締め過ぎたスカートの裾にくしゃりと皺が寄る。

「スゥラ王のハザ公国での失踪。ルノ姫は二ヴァナ=リシュテンに襲撃され、危うく命を落としかけた。あの女ですよ、エヴァ=リシュテン。あたしの忌まわしい妹が一枚噛んでいるに決まってます」
「エヴァか。懐かしいねえ、あの子は子どもの頃から、絶対俺に懐かなかった」
「襲撃が明るみに出れば、彼らは破滅です。ルノ姫が生きていることを知れば、どんな手を使っても亡き者にしようと躍起になるでしょう。たとえ、追跡の手を免れたとしても。スゥラ王不在のこの国で、何十何百といった人間があの小さな娘を利用しようとするに決まっている。そのような道を選ぶ必要がどこに? ルノ=コークランは死んだ。それで、よいではないですか」
「――君と同じようにか」

 クロエは冷ややかに金の眸を眇めた。
 
「ええ、そうです」

 リシューはこたえる。

「あたしは名前を捨ててしあわせになった。あたしの『弟』もまたそうだったはずです。シュロ=リシュテン。あなたに連れ出され、ルノ=コークランに巡り合ったあたしの『弟』であり、今代の聖女」
「どうかな。君はともかく、俺には、彼が本当の意味で幸福なようには思えなかったよ」
「シュロを連れ出したのはあなたではないですか」
「昔からあの子に泣かれると弱いんだ。確かにあの子は『イジュ』になって笑うようになったけど、俺が中途半端に救い出したせいで、ひどくいびつに育ってしまった気がする」

 クロエは長い時を渡った魔術師にしては気弱なことを呟いた。伏せられた睫毛のつくった淡い翳り。気付いたリシューが口を開く前に、はずみをつけてクロエは長椅子から立ち上がった。

「俺とオテル術師は、次にやってくる商隊に合わせてここを発つ」
「どこへ向かうおつもりで?」
「イルテミーシアの港へ。俺はこの身体だからさ。エヴァも二ヴァナも当然死んだなんて思っちゃいないし、遅かれ早かれ追手はかかる。ハザに行くよ。スゥラ王の失踪も気になるし、ハザには古い知り合いがいる。――ルノ=コークランは。彼女が望むのなら、ここに置いていこう」
「本当に?」
「俺が嘘ついたことがあった?」

 尋ね、クロエは足元に落ちていたブランケットを拾い上げた。暗示がまだ残っていたのか、ふっと気配が希薄になった男をあえて追おうとはせず、リシューは凍った窓に手を当てた。外で薪割りをしているラットとシエラを見つめ、嘆息交じりに目を伏せた。


***



「おい、シエラとか言ったな? 余の足を清めろ」

 悪い人間ではない、とのリシューの言であったが、シュシュ伯爵の横柄ぶりは青の家でも有名らしい。側付の使用人や護衛の武人らを引き連れてこの家にやってきては何をするわけでもなく居座り、その間リシューや子どもたちは召使同然に扱われる。ただし、最年少のエクにも、伯爵はさみしがりだからぼくらに構ってほしいんだよ、と邪気のない笑顔で言われる始末ではあったが。

「水が、ぬるい!」
「ですけど、お湯を足したら火傷なさいますよ」
「構わん、足せ!」
「そうですか……」
「あああああ熱い! 熱い! 余を殺す気か、馬鹿め!!!」

 シエラにしてみればそう叫ぶほどの熱さでもないと思うのだが、とたんにシュシュ伯爵は飛び上がって、桶から足を引き抜いた。はずみに桶が倒され、絨毯の敷かれた床にみるみるぬるま湯が広がる。ああ、と嘆息したシエラに、「お、おまえがそのように熱い湯を持ってくるから悪いのだ……」とシュシュ伯爵はばつが悪そうに呟いた。

「それなら、ご自分の侍女さん方にお願いすればよいではないですか」
「い、や、だ。おまえがやれシエラ。余が名指しで命じたのだぞ? 光栄だと思え」

 鼻のあたりに差し出される足に、持ってきた熱湯をかけてやりたい気持ちに駆られたが、シエラはなんとかそれをこらえてタオルで伯爵の足を拭いた。

「不機嫌面をするでない」
「残念ながら、生まれつきこういう顔ですので」
「不細工め」

 鼻を鳴らして、シュシュ伯爵はようやくシエラから視線を解いた。子どもたちが食卓に夕食を並べ始めたためだ。最初の雪玉がよほど腹に据えかねたのか、もとより執念深いたちなのか、シュシュ伯爵はあれから何かとシエラを呼びつけては無理難題を吹っかけてくる。曰く、今すぐ七面鳥の丸焼きが食べたいだの、南の香辛料をふんだんに使ったミルクが飲みたいだの。この貧しい家に、七面鳥が飼われているはずがないし、南の香辛料にいたっては言うまでもない。途中からは難題を言って困らせているだけだと気付いたので、シエラもまともに取り合ってはいなかった。

「……リシューは?」
「子どものひとりが熱を出したようで、じゃがいもを買いに……」
「ふん。余には施しを受けぬ気か」
 
 侍女の説明に、シュシュ伯爵はますます不機嫌そうに頬を歪めた。

「なら、よい。シエラ。おまえが余の相手をせい」
「お相手ですか?」
「対面に座って余と食事をとれ。まあおまえのような者に、テーブルマナーがなっているようには思えんがな」

 なるほど、リシューが構ってくれないものだから、シエラをいじる遊びに切り替えたらしい。長卓にはテーブルクロスがかけられ、木の食器がきれいに並べられている。普段、子どもたちがぎゅうぎゅうになって座る長卓はふたつの椅子を残して他の椅子が取り払われていたため、見た目だけは貴族風の晩餐に見えなくも――、いや、やはり見えはしないか。シエラは苦笑し、「では仰せのとおりに」と生成りのワンピースの裾を摘まんで椅子を引いた。

「ひとつでも間違ってみろ。リシューは余がもらうぞ」
「お言葉ですが、伯爵。あなたこそ、付け焼刃のマナーは直されたほうがいいんじゃないかしら」
「付け焼刃だと……!?」
「乾杯はいたします?」

 温めた葡萄酒が注がれたゴブレットを取り、シエラはそれを掲げた。

『――乾杯』

 目を瞑ると、まばゆいシャンデリアの明かりが鮮やかに蘇るようだった。少しのくるいもなく並べられた銀食器。黄金の気泡が弾けるシャンパン。ハーブや野菜を詰めて焼いた七面鳥に、南瓜のスープ。ルバーヴジャムとイチジクで焼き上げたパイ。贅を凝らした料理はけれど飾り物にしか過ぎなくて、大事なのは腹の探り合い。数多の人間たちが長卓越しに『わたし』を見る。評する。品定めする。『わたし』は肉を切り分けるナイフの端にまで気を配しながら、いつだってゆったりとわらってみせた。
 そんな『わたし』を咲き初めの薔薇のようだと皆が讃える。
 そうだろう。『わたし』は『わたし』を演じるために、いつだって必死だった。けれど、『わたし』が『わたし』をうまく演じられるようになるたびに、シーツをかぶって嗚咽していた『わたし』はどんどんと小さくなって消えてゆく。おまえなんかいらない。おまえなんか、いなくなってしまえばよいのよ。殺意めいた言葉を投げつけると、小さな、みすぼらしい姿の『わたし』は悲鳴すら上げられずに押し潰されていく。

『いない』
『そんなものはどこにもいない!!!』

 突如として脳裏に閃いた男の声に、シエラは危うくナイフを落としかけた。

「どうした」
「……いいえ。伯爵。使っているナイフが違いますよ」
「なっ!?」
 
 驚いたシュシュ伯爵がナイフを取り落とす。それに淡泊な一瞥を送り、シエラは裂いたパンを口に運んだ。

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