ぴちょん、と額に差した雫に、シエラは睫毛を震わせた。 吐く息が白い。ソラミラ村は未だ一面雪に覆われていたが、日が高く上ると屋根に積もった雪が少しずつ解けて、軒下に伝い落ちてくる。きらきらと降る雫は、黄金の雨だ。 「シエラ! まだぁ?」 「今行くわ!」 裏手にある薪小屋のほうから呼声がかかったため、シエラは集めていた枝を抱え直す。シエラを呼びつけた少年――ラットは、大ぶりの斧を担いで、薪割りに精を出しているようだった。勢いよく振り下ろされた斧が丸太にぶつかり、かん、かん、と小気味よい音をさせて、みるみる薪の山を積み上げていく。少し離れた場所にかがんで、しばらくラットの手つきを眺めていたシエラは、おもむろに「ラット」と一息ついた少年の裾をつかんだ。 「私もやってみたいわ!」 「あのさあ……シエラ」 シエラの『おねだり』は、青の家ではすっかり有名になってしまっている。いわく、度が過ぎているらしい。 「いいか、おまえのもやしみたいな腕で斧を持ってみろ。じぶんの足を間違えて割るぞ」 ラットはわざとおどろおどろしい声音を作って、シエラを脅かした。むぅ、と毛織のマフラーに顎をうずめて、シエラは唇をひん曲げる。春は近いものの、ソラミラの三月はまだ寒い。シエラはリシューからもらったお下がりの外套に毛織のマフラー、揃いの帽子をかぶっていた。耳まで覆う帽子からこぼれた栗毛は、ラットよりも艶やかな光沢を放っている。黙っていると、深窓のお嬢様のようなのに、くるくると動き回るせいで、どこか小動物めいて見えるのがシエラだった。 「間違えないもの! ラット、あなたちょっとそこで見てなさい」 「いやだってば。リシューに怒られるんだよ、俺が」 ラットがひときわ強く薪を割る。いつもより高く飛んだ木片が額にあたり、いた、とシエラは呻いた。 「あっ、悪い……」 「痛い!!!」 という声はしかし、シエラとは違う場所で上がった。きょとりと目を見合わせたふたりの前に、このあたりではまず見かけることのない輿を担いだ大柄な武人が現れる。輿にはたくさんの釦、林檎や松ぼっくりなどが飾られ、ちょっと見るとクリスマスツリーのオーナメントみたいだ。むやみに輝いている輿を仰ぎ、シエラは眉をひそめた。 「この趣味の悪い輿は、なに?」 「シエラ!」 慌てた様子でラットがシエラの口を手で覆う。すぐさま斧を放り出し、「申し訳ございませんでした、シュシュ様」と雪上に額づいた。 「ほら、おまえも!」 首を傾げるシエラの手を引いて、額づかせる。つめたいわ、と口を尖らせたシエラに、静かにしろ、とぴしゃりと言って、シュシュ様だよ、このあたり一帯を治めている伯爵だ、とラットは耳打ちした。 「伯爵……?」 シエラは、輿から顔を出した小柄な影を見つめる。伯爵という言葉から想像する年齢に反し、輿の中にいたのはまだ十歳を少し超えたくらいに見える少年だ。栗色の柔らかそうな巻き毛に、同じ色をした眸、ふっくらした頬は薔薇色をしている。天使のよう、という表現がふさわしい少年だった。 「余を木片で攻撃したのはそなたらか!」 シュシュ伯爵はその愛らしい天使のような顔を思い切りしかめて、怒鳴った。ひぃ、とラットが首をすくめたが、「ちがうわ」とこたえるシエラは平然としている。 「よく見てください。私たちは薪を割っていたの。それがたまたま、あなたにあたってしまったのよ。ごめんなさい」 「し、シエラ!」 「ほう、余に口答えをする気かそなた」 「理由を説明したまでよ。それに謝罪ならきちんとしたじゃない」 こめかみを引き攣らせたシュシュ伯爵に、シエラは薄い胸を張った。武人たちが輿を下ろす。吊り下がった林檎のオーナメントをかきわけて降り立ったのは、大きくかぼちゃの形に膨らませたキュロットに、白タイツを履いた少年だった。正直、時代錯誤に過ぎる服の趣味だ。シエラは思わず吹き出した。 「なんだ?」 不思議そうにシュシュ伯爵が眉根を寄せたので、さすがに失礼だったかと思い、いえ、と首を振る。 「まったくリシューの家は変人だらけだな! 見ない顔だが、そなたは誰だ」 「シエラよ。カラスとオテルに連れられてここにやってきたの」 「鴉……?」 なんだそれは、と今ひとつ理解しなかった様子で眉根を寄せたが、伯爵はすぐに気を取り直すと、武人たちを動かした。あっという間にラットとシエラは羽交い絞めにされ、雪上に突っ伏す。 「リシュー! いるんだろう、おまえの拾い物を捕えたぞ」 「ちょっと! 何をするの! 離しなさいよ!」 シエラは身じろぎをしたが、腕を捻り上げられてしまっては動けない。ラットも同様だ。悔しさから唇を噛むと、ほどなく青の家を揺るがす勢いで、リシューが飛び出してきた。 「伯爵、あなたさまはまた!」 一瞥するや、状況を理解したらしい。リシューはシエラとラットを庇うように立ち、シュシュ伯爵をきつく睨みつけた。 「この子たちに何をなさっているんです」 「されたのは余ぞ。木片をあてられた。罰としてそなた、余の嫁になれ」 「謹んでお断りします、と先だっても申し上げたはずですが」 「こっ、小癪な女だ。では、こやつらは余の奴隷とする!」 「伯爵!」 リシューの顔が苦悶に歪む。対するシュシュ伯爵はむきになった子どもみたいに、ふんと鼻を鳴らしてそっぽを向いた。何て奴なのかしら、とシエラは憤った。こうなってしまうと、お転婆が止まらなくなるのがシエラである。武人がリシューのほうへ気を取られた隙に拘束から抜け出すと、手近な雪をかき集めて雪玉を作る。 「いてっ!?」 シエラの雪玉は見事シュシュ伯爵の脳天に命中した。 ふふん、とシエラは腕を組む。 「こういうのを、あてた、というのよ。わかったかしら伯爵?」 「おま……おまえ……!」 怒りのあまり顔を真っ赤にして、シュシュ伯爵が口をぱくぱくとする。しかし、飛んでくると思った罵声は途中で消えた。木片と雪玉の度重なる『攻撃』をおつむに受けたシュシュ伯爵がその場に倒れてしまったからだ。 「まったくとんでもないことをしてくれたものだわ……」 リシューは苦笑交じりに、寝台で眠るシュシュ伯爵を見つめた。倒れたシュシュ伯爵はひとまず、青の家の中へと運び込まれた。オテルがみたところ、軽い脳震盪だという。伯爵の城館へ遣いが出されたが、雪がまだ深いため、すぐには医者も駆けつけることができない。仕方なく、オテルが擦った薬草などで作った湿布を処方した。 オテルはソラミラ村とは縁もゆかりのないよそ者だ。最初武人たちはしぶるような顔つきをしたが、リシューが「このひとはあたしの古い知己で、こういったことにいっとう詳しいのよ」と丁寧に説明すると、思案したのち、うなずいた。武人たちとリシューの間にはどうやら確固とした信頼が築かれているらしい。シエラには少し意外だった。 「シュシュ伯爵ってどんな方なの?」 「まあ、見たとおりよ。このソラミラ村を含めたいくつかの村を治める領主で、ちょっと時代遅れで傲慢なお子様ってところかしら」 シュシュ伯爵が眠っているせいか、リシューの口ぶりにも容赦がない。暖炉のそばで、熱冷ましの薬草を擦っていたシエラは「確かに見たとおりね」と、うんうんとうなずいた。 「だいたいあのひとは何よ。乱暴にもほどがあるわ。私とラットは突然雪上に組み伏せられたのよ」 「――おまえこそ、その振る舞いはいい加減にしろ」 それまで黙って湿布を作っていたオテルが不機嫌そうに言ったので、シエラは口をつぐんだ。目を伏せて、ごにょごにょと呟く。 「……雪玉をぶつけたのはよくなかったって反省しているわ……」 「そういう意味じゃない」 オテルの返事はにべがない。そういう意味ってどういう意味よ。シエラは眉根を寄せたが、オテルの無言の苛立ちはますます深まるばかりのようで、しまいにはリシューから受け取った擦り皿を持って部屋を出て行ってしまった。扉を閉めたはずみに鳴った大きな音に、シエラは首をすくめる。 「リシュー」 「なあに?」 「オテルは私のこと、きらいなのかしら」 「どうしてそう思うの?」 「わからない。でも、オテルはいつも怒っている気がする。たぶん、私に対して」 シエラの一挙一動に、オテルが歯がゆそうな顔をするのには気付いていた。いったい自分の何がそうさせるのか、シエラにはわからない。わからないが、理由があるとすればたぶん、シエラがいろんなことを忘れてしまったせいだろう。オテルの目はどこか、シエラを責めているように見える。どうして、忘れてしまえるのかと。何故、思い出さないのかと。 ――ねえオテル。でも、思い出そうとすると胸が痛くって、潰れそうで、泣きたくてたまらなくなるの。そんな苦しい思いをしなくてはだめなの。そんな思いをしてまで、抱えていなくちゃいけないものがこの世界にはあるの。それってそんなに大事なもの? 「なんて顔をしているのよ、シエラ」 リシューは苦笑して、シエラの鼻を摘まんだ。薬草のにおいが鼻腔をくすぐり、思わずくしゃみをしてしまう。あらあら、とリシューが声を上げて笑い出すので、もう、とシエラは頬を染めた。ふと別のことを思い出して、擦り皿を片付けているリシューを見上げる。 「さっき、伯爵はリシューに求婚していたわ。いつもそうなの?」 「この一年ずっとね。あたしと伯爵じゃ、歳も違うし、身分だって違うからお断りしますって何度も申し上げているのに、月に一度は訪ねてくるのよ」 「ふうん……。でも、リシューを好きになるのは私もわかる気がする」 「違うわよ。伯爵があたしに執心なのは、『リシュテンの聖女』だったから」 「りしゅてんの?」 尋ね返したシエラに、「ああ、あんたは知らなかったんだっけ」とリシューは苦笑した。 「カラスとオテルに詳しく聞けばいいわ。あたしは今代の聖女の異母姉。十年以上前の聖女よ。リシュテンの家が大嫌いでねえ、聖女をやめると同時に出奔して、表向きには死んだことになってる」 「リシュー」 「気にしないで。このあたりでは皆、結構知っていることよ。伯爵もどこかで聞きつけたんでしょうね。物珍しさからたぶんあんなことを仰ってるんでしょうけど、すぐに飽きるわ」 リシューの話によると、シュシュ伯爵は二年ほど前、唯一の肉親であった父親を喪い、十の若さで伯爵位を継いだらしい。周囲の者たちは当初、シュシュ伯爵の年齢を理由に、別の者を立てようとしたらしいが、齢十の少年はそれをきっぱり跳ね除けた。そのせいで「疑り深く」「人間不信で」「傲慢になった」、「ついでにいうと田舎暮らしをずっと続けていたせいで時代遅れの錯誤趣味」とは、伯爵に対するリシューの言である。 「いつものことだから、しばらくこのあたりにお泊りになるんでしょうけど。なんだかんだ根は悪い方でもないのよ。だから、あなたも普通にしていればいいわ、『シエラ』」 棚から取り出した軟膏をすくい、ラットの木片が当たったシエラの額にそっと塗り付けてくれる。ありがとう、と微笑むと、どういたしまして、とリシューはシエラの頭を撫で、そろそろおやつの時間だと他の子どもたちにも知らせるように囁いた。 |