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04



 聖女シュロ=リシュテンの一日は、一杯の薬湯から始まる。
 シュロ=リシュテンの一日はするべきことが細かく決められており、まず日が昇る前に起こされた聖女は、教会の菜園で夜のうちに摘まれたハーブを煮出した薬湯を差し出される。ちなみに薬湯は、舌が痺れるほど苦い。中身をこっそり鉢植えにやって、世話係に足を清めさせていたイジュは膝に頬杖をつき、磨き抜かれた窓に映る世界樹を見つめた。夜明けを少し過ぎた時刻、東から射し込んだ茜光が白い木肌を赤く染める。気だるいあくびをして、イジュは目をこすった。

「おい、聖女様」

 肩で舟を漕いでいると、背後から頭を小突かれる。世話係の少女が驚いて諌めるが、相手は何とも思っていない様子で今度は平手ではたいた。いたっ、とさすがに呻いて、イジュは来訪者を仰ぐ。

「なんだ、ツァリじゃないですか。早いですね」
「おまえは眠そうだな」
「ええ、ねむーいですよ……」
「まさか、また何か妙な真似しているんじゃねえだろうな?」
「失礼ですね。ツァリたちがやれって言うから、真面目にお仕事しているんじゃないですか。毎日疲れてへとへとですよ」
 
 探るような目つきをする北騎士ツァリ=ヨーシュへ、イジュはわざとらしく肩をすくめる。またあくびをしつつも、ツァリの察しのよさに内心舌を巻いた。やっぱりこの男が一番、煩わしい。ここ最近の異常ともいえる眠気は、確かに前の晩の抜け出しが原因のようだった。
 ユグド歴千年、三月。季節は春に近い。この数か月のうちに、ヘルヴィンナの森関連でイジュが当たった人間は十数名に及ぶ。だが、首謀者とされる一団は頭領もろとも早々に捕まり処刑されていたため、詳しく知る者はほとんどおらず、状況は芳しくない。

「まあ、いい」

 ツァリは珍しく追及はせずに、言葉を切った。

「伝言だ。今日の午後南棟に来るようにだとよ」
「南棟ですか?」
「リンゼイ老さ。この数日容態も落ち着かれているから、今ならとおまえを呼ばれたのさ。お会いするのは、十年ぶりだろう」
「え、ああ、そうですね。十年ですっけ」

 父リンゼイ=リシュテンは多忙のために体調を崩し、先年から病床にあると聞く。そういえば、記憶にある父はどこか果敢なげな横顔をした、身体の弱いひとだった。父が時折背を折って咳をするのを、幼いイジュは小さな手のひらを伸ばして必死にさすったものだった。

「わかりました。父にも遣いを寄越しておいてください」
「御意に」
 
 形式的な受け答えを済ませると、ツァリはきびすを返す。用件以外の無駄話がないのが彼らしい。イジュは一度口を開きかけ、足元のたゆとう水面へ目を落とした。

「……ツァリ」
「なんだよ、聖女様」
「父上はほんとうに、私に、あいたがってました……?」

 ツァリが肩越しにいぶかしげな視線を寄越す。探るようなその眼差しがとたん居心地悪くなり、イジュは首を振った。

「いいです。何でもありません」
「リンゼイ老はおまえのことを祈っていたぞ。この十年、毎日だ」
「……毎日? 嘘でしょう」
「嘘じゃない」
 
 イジュは顔を上げたが、そのときにはツァリは扉を閉めていた。本当に用件だけを伝えて消える幼馴染だ。唇を尖らせ、うそですよ、とイジュはもう一度呟く。

「聖女様?」

 足を清めていた少女が不思議そうに聞き返す。答えず目をやると、少女はみるみる頬を薔薇色に染めて俯いた。イジュは少しわらい、少女の頬にかかった髪房を摘まむ。

「耳までまっかっかですね。名前は?」
「シャーノ……」
「シャーノ。朝のミサまであとどれくらい?」
「四十五分です」
「ならちょうどいい」

 自分の容姿が目を惹くことは、子どもの頃から知っていた。別段頓着したこともなかったが、ものは使いようだ。

「でも、何故北騎士様に嘘をつかれるのですか。あなた様は夜は、」
「夜はずっといないのに? ――だけど、それは秘密です、あなたと私の。内緒ですよ。これからすることも皆」

 期待と不安で震える唇に指をあて、イジュは盥を蹴った。溢れた水が白い床を濡らして広がる。


***



「久方ぶりです、シュロ様。ご立派になられて」

 昼食のあと、ツァリとともに向かった南棟で待っていたのは、ツァリの父イアン=ヨーシュだった。ツァリの家は代々聖女の護衛役である北騎士を世襲しており、イアン=ヨーシュもまた例外ではなかった。五十に差し掛かりツァリに役目を譲ったあとは、リンゼイの護衛をしている。一見すると優男風のツァリとは異なり、イアンはいかにも武人らしい鋼の体躯を持つ男だ。上着から突き出た腕は筋肉が隆々とみなぎり、侵入者があればすかさず大剣を抜かんばかりの闘気に満ちている。イジュは苦笑した。

「あなたは変わらないですね、イアン」
「そうでしょうか。近頃は不肖の息子にも、十戦すれば一敗しちまうくらいで参ってますよ」

 イアンは鷹を思わせる鋭い双眸を細めて、闊達に笑った。実際は百戦でやっと一勝だ、というのはツァリの言である。

「……父は?」
「起きておられます。シュロ様のことを知らせると喜んでいらっしゃいましたよ」
「そうですか……」

 イジュは紺青のベルベットで飾られた扉を見上げた。心臓が早鐘を打っているのがわかる。イジュにとっては、顔も知らない異母兄弟たちを除くと、この世でたったひとりの肉親だ。この十年、もちろん忘れていたわけじゃない。会いたいと、乞う日がなかったわけでも。だけども、役目を捨てて逃げ出した自分に、父はたぶん落胆しているだろう。そう思うと、教会に戻ってからも足を運ぶ気が失せていた。

「シュロ。いるのか?」

 イアンが扉を開ける。たたずんだままのイジュをせかす、微かな呼び声がして、イジュはおそるおそる顔を上げた。窓際にある寝台の上で、記憶よりずっと小さくなった父が半身を起こしていた。ちちうえ、と呟く。レースのカーテンからは午後の柔らかな陽光が射して、父の背に木漏れ日を作っている。おいで、と呼ばれ、イジュはまるで操られるようにためらっていた足を踏み出した。そうするともう、止まらなかった。挨拶をするのも忘れて駆け、父の痩せた身体を抱きしめる。

「ちちうえ、ちちうえ」

 子どもの頃も、訪ねてきた父によくこんな風に飛びついた。父の首筋からは礼拝のときに焚き染める乳香がくゆって、幼いイジュにはそれが父のにおいそのもののように思えた。首筋に鼻梁を擦ると、乾いた膚からはやはり淡く乳香のかおりがした。

「ごめんなさい、父上。やくそくをまもらなくて、ごめんなさい……!」

 ――シュロ。
 決して、この北棟から外に出てはいけないよ。約束だ。決して外に出てはいけない。
 幼いイジュが、長椅子に膝をついて外を羨望交じりに見つめるたび、父リンゼイはそう諭したものだった。窓硝子越しにはたくさんのものが見えた。王都ユグドラシルの美しい街並。張り巡らされた水路とその上に架かる橋、白い石畳の道、狭い路地を駆ける同い年くらいの子どもたち、汗を流して働くたくさんのひとびと。どれも珍しくて、心惹かれた。手を伸ばせば、自分もあそこへ加われるような気がするのに、硝子一枚で隔たれてしまっているのがとても残念だった。
 幼い頃に戻ってしまったかのように舌足らずな口調で繰り返すと、「いいんだ」とリンゼイはイジュの背に細腕を回した。

「いいんだ、シュロ。時渡る魔術師にそれを願ったのは、私でもあるのだから。……済まなかった。私の力が足りず、おまえをこのような目に遭わせて。聖女制度を廃すつもりが、時間ばかりが過ぎた挙句、このざまさ」

 苦笑気味に呟く父の喉元がひどく痩せていることに気付く。リンゼイはまだ六十の手前であるが、髪には白いものが混じり、膚は乾いて、十年のうちに一気に老け込んだように思えた。

「具合はよくないんですか」

 イアンが用意してくれた椅子に腰かけつつ尋ねると、「持病がな」とリンゼイは胃のあたりを手でさすった。

「長く付き合ってきた病気さ。歳のせいで、うまく付き合えなくなってきただけで。心配することはない」
「……手をあてていいですか」
「ああ」

 リンゼイのかさついた手に手のひらを重ね、それからリンゼイの手だけを外して、シャツ越しに薄い腹に触れる。人肌の温かさがじんわりと伝わるのに混じって、鋭いかたちの氷に触れた気がした。一瞬走った痛みに指をのきかけ、再び手を置いてイジュは目を閉じる。意識のうちで目の前に広がる暗闇を探り、見つけた氷を手で包む。普通の氷のように、それは容易には溶けない。けれどずっと手で握ってやれば、端のほうから崩れ、徐々に小さく、薄くなっていく。イジュは手に力を込めた。

「……さま。おい聖女! 『イジュ』!!!」

 ぐっと肩をつかんで離され、イジュは目を瞬かせた。ほとんど溶けかけたと思っていた氷の感触は消え、イジュの手のひらは最初と同じようにただリンゼイの腹に置かれている。

「なんですかツァリ。うるさくて集中できないじゃあないで、す……?」
「文句は自分の顔を見て言え」

 身じろぎしたとたん強烈な眩暈が襲い、イジュはこめかみを押さえた。身体が熱く、ひどい熱病にかかったみたいに身体中から汗が噴き出している。リンゼイとイアンが不思議そうな顔をしてイジュを見つめた。ツァリが舌打ちをする。

「何をしていたんだよ聖女様」
「……何も。少し、お祈りをしていただけですよ」

 肩をすくめ、イジュは空のこぶしを握りしめた。


 リンゼイの体調を慮り、面会は半刻も経たずに終えた。イジュはツァリを伴い、南棟から北棟へ向かう長い渡り廊下を歩く。礼拝堂や教会付属大学のある区画と異なり、七大老の執務室などの占める北棟は限られた人間しか立ち入らないため、イジュも顔をさらして歩くことができた。対面から洗濯籠を抱えて歩いてくるのは、世話係の少女シャーノだ。目が合うと、シャーノが頬を染めて俯いたので、イジュはわらってしまった。よろめいたシャーノが洗濯籠ごと壁にぶつかりかけ、すんでのところで「何やってんだ」とツァリに腕を引き上げられる。

「申し訳ございません!」

 小鹿のように首を振り、シャーノは足早に去って行った。

「なんだあ? あいつ」
「さぁ? ……ツァリってなんだか鈍感そうですよね」
「意味がわからん。何の話だ」
「別にいいですよ」

 洗濯籠がぶつかったはずみだろう、窓辺に生けられたヒヤシンスの花茎が折れているのを見つけ、イジュはそれに指を這わせた。切り口はまだみずみずしい。ゆっくりと、指の腹で撫ぜた。

「おい聖女様」
「はい?」
「おまえ、さっき本当に何をやっていたんだよ」
「だから、祈っていたって言ったじゃあないですか。どうしてわからないんだろう」

 苦笑し、ヒヤシンスから手を離す。再び歩き出したイジュの背で、折れていたはずの花茎はしゃんと伸び、窓から射し込む光に細い葉をそよがせた。


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