Episode-1,「吟遊詩人と薔薇の姫」 01 足音がする。 はらはらと舞い降る雪の中、自分に向かって走ってくる小さな足音がする。 うれしいのだろうか。それとも、恐ろしいのだろうか。胸がひどく高鳴っているのがわかる。白い雪に覆われた道に影が射し、ブーツを履いた小さな足が二本現れた。煉瓦の壁に背を預け、しゃがみこんでいた少年はぶるっと身を震わせ、恐る恐るといった風に顔を上げる。 「見つけた」 声がする。 「見つけた、私の鞘」 運命という名の扉を叩く澄んだ声がする。 ――退屈とは何にも勝る浪費である。 そう言ったのは誰だったろうか。世界樹に登ろうとして途中で力尽き、あわれ墜落死した古代の哲学家か何かだったろうか。考えて、手元に目を落とし、そこに書かれる内容がやはり実にくだらないように思えたので、ぱたんとこれみよがしに音を立てて本を閉じてやった。 「イジュ」 肌触りはいいけども、レースがふんだんに使われたサテンのドレスは重いし、動きにくい。十二歳になるこの国の王女、ルノ=コークランは重い息をついて、せめてもの抵抗とばかりに足を組み直すと、「イジュ」と今一度青年の名を呼んだ。 「イジュ。暇だわ」 呼ばれた青年は腕に数冊ほど本を抱えて、先ほどからルノの部屋の備え付けの本棚を整理している。主人の声が聞こえていないわけがなかろうに、その手が止まることはない。ルノははぁともう一度物憂げなため息をつき、膝の上に置いていた詩集を開いて掲げた。 「“退屈。退屈。嗚呼、退屈。この世はなんともつまらない。ああ今すぐ隣国が砲台を構えてどでかい砲弾をぶっぱなさぬものか!”」 「――ルノさま」 柔らかな苦笑がそれに応じる。 振り返った二十代前半ほどの青年は、一見女性と見まごうくらいに甘く整った顔を少ししかめてみせた。 「そのような不穏当な発言は慎まれたほうがよいかと」 「あら、ここにはお前と私しかいないというのに?」 「私の耳に痛いんです」 かがみこむと、イジュはルノの持つ詩集をひょいと取り上げ、腕に抱えた本の中から薔薇の装丁がなされた一冊を代わりに渡した。『男の退屈学』が『乙女の愛の詩集』という題名に取って代わる。ルノは呆れて、肩をすくめた。 「嫌ね。イジュったら何よこの少女趣味」 「我が君にしとやかな淑女になってほしいゆえでございます」 「失敬な。このしとやかな淑女を前にして」 「しとやかな淑女はどでかい砲弾をぶっぱなぬものか、などと戯れでも口にしないと思いますけど」 「あら遅れてるわよ、イジュ。知ってる? 社交界では近頃、政治にも深い教養を持つ女性がもてはやされるんだってこと」 ルノは椅子から降り立つと、サイドテーブルに置かれた地球儀をくるりと回す。 「科学、歴史、文学、天文学に医学。性別を問わず、幅広い教養が必要よ」 「ご高説すばらしい。しかしながらお言葉ですが、ルノさま。それはお手元の作法本を読破なさってからにしてくださいませ」 イジュはにっこり微笑み、腕に抱えた書物を備え付けの本棚に戻す。痛いところをつかれて、ルノはとたんに機嫌を悪くした。 「イジュ、嫌い」 「我が君のためならばいくらでも嫌われましょう」 「……暇。暇と言っているの」 「ええ、ご心配なく。存じております」 こうも訴えているのに、従者の青年はルノの訴えを軽く流すだけで本棚の整理にいそしんでいる。それが気にいらなくて、ルノはさらに表情を険しくした。手元の本に視線を落とし、 「“スープはスプーンの七分目くらいの量をすくいましょう”」 一節を読んでみてから、ルノは本を閉じた。 「つまらないわ」 「つまらなくとも、身となるものはありましょう」 「そんなつまらないもの、身にしたくないわ」 「おや、それでは、ルノさまはゆくゆく空っぽの姫君になってしまいますね」 イジュはくすくすと笑って、本を棚に入れた。 「私は別にいいですけども。ううむ、馬鹿な子ほど可愛いという言葉もありますしね。――あぁこれはルノさまにはまだ難しいかな」 整理の片手間といった風に返された言葉が気に入らない。 ふんと悪態をついて、ルノは本を投げ出し、立ち上がった。この鬱々した気持ちを吐き出してやろうと閉められていた窓を開け放つ。 とたん、それまで硝子越しに微かに聞こえていた教会の鐘の音が大きくなる。ちょうど二度鳴らされ、王国中に今の時刻を告げた。 金の十字架をかかげる王立教会に寄り添うようにそびえているのは、この国の象徴とも言える、白い世界樹だ。蒼空より射し込む陽光に照り映え、幹は仄白く光っているようですらある。ルノは窓枠に腕を乗せ、いつも“景色”としてそこに存在するだけの外の世界を見つめる。空は蒼く、風は花の匂いを運び、大地を吹き抜ける。ひらり、舞う紺碧色の蝶に手を伸ばしながらルノは目を伏せた。――外はこんなに美しいのに、わたしはそこに行けないの。 だから少女趣味の詩集は嫌いなのだ。お姫さまはみんな外に出て行って王子さまと幸せになってしまうから。そのうち、手の中から逃げていった蝶々を呼び誘うようにルノは戯れに歌を口ずさんだ。 「よくうたわれていますね、その歌」 ちょうど歌が途切れたところでイジュが呟いた。 「お好きな歌なんですか?」 「そうね。というより、不思議な歌なのよ」 ルノは顎に人差し指をあてがい、ちょこんと首を傾げる。 「気付くと、つい口ずさんでいるの。でも、何故かね、覚えがない。題名も知らないし、どこで聞いたのか、誰が歌っていたのかもわからないの」 「……ルノさまがですか」 イジュは少しばかり意外そうに聞き返す。 「珍しいですね。本当に何も覚えが?」 「うん。どうしてかしらね」 ルノは首を傾げた。 それから不意に思いつくことがあって、ほとりと手を打つ。 「イジュ。ねぇ、私紅茶が飲みたいわ!」 「……はい?」 ルノはイジュのヘイズルの髪をくいっと引っ張り、「喉が渇いたの」と満面の笑みで続ける。だが、イジュは律儀に懐中時計を取り出すと、そこに刻まれた時間を読み取って緩やかに首を振った。 「今は読書の時間でしょう? もうあと五十七分お待ちくださいませ」 「嫌よ。私の喉は五十七分も待てないわ。お前は大事な王女の喉を干上がらせるつもり?」 「……あのねぇルノさま」 「なぁに?」 じっと蒼い眸で見つめられているうちに、イジュは根負けしたらしい。 肩をすくめ、息を吐き出す。 「……わかりました、五十七分早めにお菓子と紅茶を淹れてきましょう。そのあとできっちり五十七分、読書に励んでもらいますからね?」 「うん。ふふーイジュ、大好きよ」 にっこり笑い、ルノは品のいい家猫のような顔つきで椅子に座る。 だが、このときすでに王女の頭の中では子供らしい策略がめぐらされていたのだった。 |