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02




 従者を見送って、しばらく椅子の上で本を読んでいた王女は、不意に花色の唇に小さな笑みをのせると本を閉じる。ぴょん、と絨毯のしかれた床に飛び降り、サテンのドレスの裾をしぼって膝丈にしてしまうと、ベッドの下からブーツを取り出す。紐を丁寧に編み上げてゆき、きゅっと蝶々結びをすれば、準備完了。
 少女は軽やかな動作で窓枠に足をかけた。慣れたもの、とするすると柱伝いに地面に降りてゆく。野生の猫のようなしなやかさで王宮の庭園に降り立つと、ルノは陽光を身体に浴びて大きく伸びをした。
 さて、本日はどうしよう。庭に咲いた秋薔薇を始めとした花々を見回し、ルノはふぅむと唸る。驚いて探しにやってきた従者殿とかくれんぼでもするか、それとも素直に花冠を作って帰ってやるか。
 どの花がいいかしら、と庭の花を物色していると、ひらりと紺碧の蝶が蜜を吸いに花に止まった。指を立てると、蝶は一時ルノの指で翅を休める。ルノは微笑をこぼしたが、しかしそれもつかの間のこと。蝶はまたひらひらと遠くへ飛んでいってしまう。

「ま、待って」

 ルノは蝶を追って駆け出す。蝶は遊ぶように惑うように秋薔薇の咲き乱れる庭園を飛び回り、緑陰の影に消えた。
 
「もう……」

 いじわる、と消えた蝶に悪態をつき、ルノはあたりを見回す。すでに景色は見知った庭園とは異なるものになっていた。十二年、この中で生きてきたものの、何せ大きな城だ。足を踏み入れたことのない場所なら数多ある。迷子になってしまったかしら、と顎に手を当てて考え、ルノはちょこちょこと白い大理石で作られた彫像の周りを歩いた。

「“貴人の薔薇”百株。遅くなってすいません」

 可愛らしい声にひかれ、彫像の影から顔を出してみる。城の者らしき男と、相対して小さなルノと歳も変わらないような少女と、四十がらみの男がいた。城の大きな門が開けられ、花の植えられた鉢が男たちの手によって中に運ばれていっている。どうやらここは物資の搬入口か何かのようだ。

 ふぅん、と物珍しげに運ばれていく瓶を眺め、ルノは視線を近くに移す。大きな茶色い牛と目が合った。首にベルがぶらさげられ、背には荷車がある。荷車の近くに誰もいないのを見て取り、ルノはおそるおそる牛に近づいてみる。
 牛はちらりとルノを見たが、細い尻尾を揺らしただけで反応はしなかった。よくしつけられているのだろう。車輪のついた大きな荷車が珍しく、ルノはこっそりと側板に手をかけ、車によじのぼってみる。

「きゃ」

 はずみ体勢を崩し、反動で荷車に頭からつっこんでしまった。藁が敷いてあったため、衝撃はなかったが、身を起こすのを手間取っているうちに、がたんと荷車が動いた。

「それではまた明日」

 男の声がして、荷車がからからと動き出す。

「待っ、」

 慌てて身を起こそうとするが、また車の中で転んでしまう。薔薇を中へ運び入れることで忙しい城の者たちはこちらには目もくれないし、牛を操る男もこちらに気付いてくれない。もがきながら何とか車の側壁をつかんで身体を起こし、ルノは牛に乗る男にこの車を止めてくれるよう頼もうと考える。
 けれど言葉にする段になって思いなおし、ルノは口を閉じた。だって、よくよく考えてみなさいルノ? このまま黙っていれば、私はこの城の外に出れてしまうのよ? 
 幼い王女にとってそれはあまりにも魅力的な思い付きだった。

「怒らないでね? 大好きなイジュ」

 ルノはふふふーとほくそ笑み、藁の中に身を隠した。




 あれよあれよという間に王宮を抜け、門を抜け、荷車は外へ。
 ルノは藁から顔を出し、遠ざかっていく城門を見つめる。
 さて、城を出てみたからには外の世界を存分に満喫しなければならない。楽天家我侭姫はよしっとこぶしを握り、荷車の牛を操る男に声をかけてみることにする。何をするにしてもコミュニケーションというものは大切だ。

「こんにちは、おじさん。“ハジメマシテ”?」
「ぎゃっ」

 だが、男にとってルノの登場は思いがけないものだったらしい。
 ううむ、当然といえば当然か。からだと思っていた荷台からひょいっと小さな女の子が顔を出したのだから、驚きもする。

「っと、わ、わ、」

 男は牛を操る手元を危うく狂わせそうになってから、なんとか荷車を止める。膝に抱えられた少女がきょとんと目を瞬かせてルノを見つめた。

「わ、お姉ちゃんだ。はじめましてー」
「はじめましてっ」
「はじめましてってね。どこから乗ってきたんだい、きみは」

 えへへーと笑いあうふたりの少女をよそに、男は皺の深く刻まれた顔に穏便とは到底いえない表情を宿してルノに詰問した。

「城からよ」

 ルノは胸を張る。

「城。城の前からか……」

 前ではなく、正しく言えば中からなのだが、まぁどちらでもよい。ルノは藁山をよじのぼり、男にぱっと微笑んだ。

「あのね。私、城下の町を見て回りたいのだけど、できればその近くまで連れて行ってくれないかしら。本当は自分の足で行けたら一番いいのだけど、道がわからないの」
「広場への道がわからない? お嬢ちゃん、よそ者かい?」
「よそ者では、ないと思うんだけどね」
「観光客?」
「それに近いかもしれないわ」
「ほう……」

 男はいぶかしげな顔をして腕を組み、ルノを眺め回した。にっこり微笑み返すと、面食らった様子で目をそらす。んん?どうして笑い返してくれないのかしら、とルノは小首を傾げる。

「ねぇお父さん。連れてってあげようよー」

 見かねたらしい女の子が男の袖を引く。
 お嬢さんよい子ね! ルノは心の中で賞賛を送った。

「ったく。仕方ねぇなぁ。お嬢ちゃん、名前は?」
「ルノ=コークラン」
「おい。王女の名を騙るんじゃない」

 かたるってなぁに? ルノは外ではルノと名乗ってはいけないのかしら。不思議そうに目を瞬かせていると、「……あーもうわかったよ、王女サマ」と皮肉げに言われる。

「王女さまじゃないわ。ちゃんとルノって呼んで」
「――……」
「るーのー!」
「わかったわかった。ルノな」

 頬を膨らませてぺしぺしと牛の尻を叩くと、男は慌てた様子でうなずいた。

「おじさんはなんという名前なの?」
「ゼダだ」
「ぜだ。覚えた」
「覚えたって言ってもなぁ……」
 
 男はぽりぽりと頬をかき、「――ほら、もうついたぞ」と街路樹にぶらさげられた看板を指差す。

「広場だ」

 


 男と女の子にはお礼の代わりにキスを頬にして別れた。いったいどこの貴婦人だ、と男は顔を真っ赤にしてそっぽを向く。ルノはころころと笑って、この親切な親子に手を振った。男と少女は餞別だよ、とひと株の秋薔薇をくれた。
 ルノは鉢植えを持って足取り軽く、石畳の道を歩き出す。

 ユグド王国は水と翠に恵まれた、平和な王国だ。小さな国ではあるけれど、もうかれこれ千年以上隣国と戦をしたこともない。のびのびとした陽気なひとびとの暮らす国。それゆえ王国はひとびとに神のおわす土地、また楽園とも称される。
 王国は三方を豊かな森に囲まれており、街々には河を水源とした水路が縦横無尽に走る。特に大きな水路にはゴンドラが通り、その漕ぎ手が朗々たる舟歌を白き石壁へ響かせた。――歌の国とも呼ばれる所以である。

 広場ではその日ちょうど、ワインの定期市が開かれているらしかった。広場に集められたワイン樽を興味津々といった様子で眺めつつ、ルノはワインを売る男の声を聞く。
 しかしながら、ここで予想外のことが起こった。深窓の姫君の細足は少しも歩かないうちに、根を上げ始めたのだ。道に迷ったらどうしようとか、ちゃんとお城に戻れるかしら、とは思っていたものの、己の足のことはまったく考えなかったのでルノはおおいに狼狽した。王宮の中にいるときは、これほどまでに長く歩くことなどなかったから、自分の体力というものをルノは知らなかったのだ。

 仕方なく街の探索を中断し、ひと休みーとルノは白い石造りの橋に腰かける。ブーツを脱いで足を見やれば、早くも靴擦れができていた。

「やー。赤くなってる……」

 すり切れた足をさすってやりつつ、ルノは自分のやわさ加減が情けなくなって、ほぅと大きく嘆息する。うう、早くも気がくじけてきてしまった。せっかく外に出れたと思ったら、自分の身体のほうがついていかないなんて。
 橋の上でルノが肩を落としていると、足の下をすっと船が通る。きゃっと悲鳴を上げて、ルノは水路を進むゴンドラの白い船体へと視線を向けた。こちらに気づいたのか、漕ぎ手のゴンドラーナがにっこり会釈する。挨拶代わりにかかげられた帆の先が陽光に反射し、きらきら光った。
 仄蒼く揺らめく水面に一筋の白き航路を引き、ゴンドラは進んでいった。

 ゴンドラが過ぎ去った川の両岸には数多の店が並び、シフトドレスを着込んだ給仕の女がぱたぱたと盆をもって走り回っているのが見える。道を急ぐ神父、どうやらさっきの市場で手に入れたらしいワイン樽を転がして歩く男、――こうして橋の欄干で街を俯瞰していると、この王国には本当にたくさんの人間がいることがわかる。
 すごいわ、とルノは素直に感嘆の気持ちを息にして吐き出す。城の窓から眺めていたときとは違い、そこに生きる人々の顔、その息づかいを肌で感じると胸がどきどきと高揚してきた。胸を叩かれる、とはこのようなことを言うのだろう。


 ――薔薇や、可愛い薔薇、私の薔薇姫……


 ふわり、水の匂いまじりの風に乗って、柔らかな歌声がルノの耳を掠めたのはそのときだった。


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