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03




 薔薇や、可愛い薔薇、私の薔薇姫、
 どうかこちらへ寄ってきておくれ
 きみのうるわしき声は、恋を囀るナイチンゲール、
 その声に囚われ、僕はすでに動くことすらできないのだから

 どうかこちらへ 薔薇の姫
 たとえその百合のごときうてなに毒を含んだ棘が生えていたとしても、
 薔薇や、可愛い薔薇の姫、僕は構わず抱きしめてみせるのだから


 ルノは目を瞬かせ、思わず苦笑をこぼした。古語まじりのその歌はじっくりと咀嚼すれば赤面せざるを得ないような気障な内容、まぎれもなく恋人に贈るものであったからだ。
 さてこの歌い手はいかほどの者であろうと、好奇心まじりに振り返ってみれば、川べりにある店のテラスで同じく水路を眺めながら揺れ椅子をこいでいた初老の男がにっこりと微笑み、目配せする。

「ねぇ、薔薇姫や?」

 歌と同様の気障な仕草には、しかしつい笑みをこぼしてしまうような愛嬌がある。ルノは脱いだブーツをぶら下げながら細い高欄の上を軽いステップで歩いていき、隅でぴたりと足を止めた。腕を後ろ手に組み、微笑を滲ませる。

「これはもしかして、お誘いなのかしら?」
「失敬。淑女<レディ>にはいささか熱情が足りなかったかな?」

 老人は慣れた様子でさらりと答え、きぃと揺れ椅子を軋ませる。

「ヤだなぁ、このひとは。いい年にもなって」

 彼のそばで葡萄酒と白パンをいただいていた青年がにやにやと笑って冷やかしをかけた。

「いい年とはなんだい、シャルロ=カラマイ」
「ああこれは現役詩人さんに失礼を。――ごちそうさま」

 胸に手を持っていき、わざとらしく十字を切ると、青年はテーブルに銅貨を数枚置いて身を翻す。木椅子から腰を上げたはずみに、漆黒の長ローブがひらりとはためいた。胸元には数珠とロザリオ。身なりと歳つきからすれば、神学生だろうか。黒ローブに映える蜜色の髪をルノがまばゆげに眺めていると、

「おや、銀ですか。珍しい」

 青年はすれ違いざまにルノのふんわりした髪をひと房つかんで引いた。

「暇なら寄っておいきよ、“薔薇姫”。今なら紅茶一杯がもれなくいただける。しがない元・吟遊詩人の恋歌もわずらわしいことこの上ないが、いただけるかもしれない」

 シャルロ=カラマイと呼ばれた青年は愛想よくにっこり笑うと、髪に絡めた指を解いてローブのポケットから懐中時計を取り出した。

「五時ですか。まずいな、写本の時間に間に合わない」

 盤面を読み取って言葉のわりにはのんびりと呟く。ぱちんと懐中時計を閉めると、小脇にスケッチブックを抱え、橋の欄干に飛び乗った。

「あ。そこの漕ぎ手さん、乗―せてっ」

 青年はかがみこみ、橋の下をちょうど通過していたゴンドラーナに声をかける。はい?、とゴンドラーナが口ずさんでいた歌をとめるも、しかし彼が状況を理解する前に、青年は橋の欄干を蹴って階下に飛び降りている。

「ひゃあああああああっ」

 絹を裂くような悲鳴が石橋に反響した。
 激しい水音に驚いて、ルノがおそるおそる橋から身を乗り出せば、青年はゴンドラ中央に見事着地しており、代わりにゴンドラーナが驚きのあまりに両手を振り上げた姿になっていた。今の水音は櫓を取り落としたときのものであったらしい。
 くすりと笑うルノに気づいてしまったのか、決まりが悪そうにゴンドラーナは手を下ろす。

「い、いい加減にしてくださいよ、シャルロ=カラマイ。僕の心臓はあなたと違って毛が生えてないんです。無垢なんです、うぶなんですっ」
「イエイエ、案ずるべからず、我が友人。何なら知り合いの錬金術師に頼んで、魔性の育毛剤をお代の代わりにプレゼントしよう。心臓に塗るといい」
「いりません」
「じゃあ早く運んだ運んだ。場所は世界中の根元、ユグド王立協会」

 神学生がしっしとするように手を振れば、櫓を水面から引き上げつつゴンドラーナはしぶるような顔をする。だが、青年が何がしかを耳打ちしてやると、にやりと嬉しそうに笑ったのでどうやら商談は成立したらしい。
 夕暮れの赤い光に染まる川の上、神学生を乗せて進むゴンドラをルノはくすくす笑いながら見送った。

「面白いひとたちね」
「面白い、と言えるお嬢さんはなかなかに寛容だと思うけれどね」
「――詩人さん?」

 ルノは橋から降りて改めて老人へ向き直る。

「今はパン屋ですよ、お嬢さん」

 彼はゆったりとした口調で訂正し、看板をさした。軒先にはバケットと鳥の入った花かごを描いた丸い看板が吊るされており、『吟遊詩人のパン屋』とユグド文字で書かれている。

「ともあれ、ようこそ我が城へ。どうぞお入り、秋薔薇の姫」

 老人は揺れ椅子から立ち上がると、優しい表情でルノを招いた。
 



 茶葉が熱い湯の注がれたポットの中で琥珀色にゆるりと溶け出す。異国から取り寄せられたのだという摘み葉に、矢車草、蜜柑・檸檬のピールをブレンドしたこの店オリジナルの紅茶は独特の爽やかな芳香を匂い立たせる。あらかじめ湯で温めておいたティーカップに紅茶を淹れ、白パンをひとつ添えると、
 
「どうぞ、お嬢さん」

 老人は椅子にちょこんと腰掛けたルノの前に、カップと皿を置いた。わぁ、と声を上げ、ルノは目を輝かせる。実は昼から何も食べずに歩き続けていたので腹ぺこだったのだ。

「食べていいの?」
「もちろんだとも」
「でも私、お金、」
「こんな可愛らしいお嬢さんに私がお金を払わせるとでも?」

 お食べ、と老人に促され、ルノは白パンを手に取る。焼きたての生地はほこほこ柔らかく、ちぎって口に入れれば、ほんのりと砂糖の甘い味がした。
 あっというまにひとつを平らげてしまう。淹れ立ての紅茶に口をつけて、一息をついていると、老人は新しいパンを持ってきてくれる。

「――“吟遊詩人”?」
 
 ルノは軒先にかかった看板を肩越しに振り返りながら問うた。老人は豊かな髭をたたえた口元に穏やかな笑みを乗せ、「昔々のことだけどもね?」と、とっておきの秘密を明かしでもするように口に人差し指をあてがった。

「でもすごいのっ。お伽話の住人みたい」
「ふふ、それは光栄」

 勢い込んで告げれば、老人はきらきらしたブルーの眸を細め、ふんわり微笑んだ。気障じみた所作と口調のわりには、こちらの心を和らげるような気さくな笑みを浮かべる不思議な老人だった。若い時分は、さぞ魅力的な青年だったろう。

「ねぇ、いろんな場所を旅して歩いた?」
「そうだね。いろんな国の王に会った」
「どこの宮廷を回ったの?」
「――このユグド王国、クレンツェ、エン、乗り継ぎの船を間違えて、東の果ての島国に流れ着いてしまったこともある。けれど最後にはノースランドへ」
「定住したの?」
「そこの姫君に恋をしてしまってね。それからはずっと彼女のために歌を作り続けている。ふふ、彼女は我侭だから。今、通算三十二回目の追い出しをくらっているのだよ」

 老人は口をつけていたティーカップを品のある所作で皿の上に戻すと、くすりと笑った。淡い青の眸は子供のようにきらきらしている。

「でも彼女は寂しがり屋の姫だからね。近いうち、憤慨しながら早く戻って来いというに違いない」
「そう……」
 
 その姫君のもとへ戻るということは、老人はこの店を畳んでしまうということだ。パンも紅茶もこんなにおいしいのに。ひそかにこの店の常連さんになろう計画を立てていたルノは出鼻をくじかれて、若干しょんぼりした。
 けれど、うかがい見た老人の横顔には本当に幸せそうな笑みが浮かんでいるものだから。

「早く寂しがり屋のお姫さまから報せが来るといいね」

 ルノは微笑み、紅茶に口をつけた。

「ああ。姫が私を必要としてくださるのなら」
「大丈夫よ。おじいさんは、すてきで一途な詩人さんだもの」
「然り。吟遊詩人は熱愛家なのだよ。たったひとりの貴婦人のために愛を唄う」
「すてき。お伽話の王子さまみたい」
「おっと。わたしが王子じゃ不足かね? 小さな淑女」

 老人は尋ね、すっとルノの手をとると、騎士さながらの様子でその手の甲に口付けを落とす。それがくすぐったくてころころとルノは屈託なく笑った。
 
「浮気はよくない。一途な騎士ナイトさま?」

 ルノは彼の恋した、我侭で寂しがりやの姫君へ思いをめぐらせながら、冗談めかして返す。
 ――この日からふたりは友人になった。


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