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04




 日が落ちた頃、ようやく城へと戻れば、門番がひどく驚いた様子で王女を迎え入れた。
 父王の代理である青年からこってりお叱りを受け、さらにそのぼろぼろの格好はなんですかとそばに控える侍女長はふらりを眩暈を起こしかけた。首根っこをつかまれ、湯殿に連れて行かれ、熱い湯の中に投げ込まれる。侍女にわしゃわしゃと髪を洗われ、肌をこすられ、ルノは「やー!」とはじめてお風呂に入れられた猫みたいに騒ぎ回った。擦り傷に湯がとってもしみるのだ。

「自業自得です、我が姫」

 冷たい声で返され、ルノはむぅっとなり、べしべしと侍女の腕を叩いた。その挙措がおかしかったのか、侍女たちの間に苦笑が広がる。さらに気分を害し、ルノは彼女たちをひとりひとりべしべし叩いて歩いた。

 湯上りのほてった身体を柔らかなタオルでふかれ、髪を梳かされ、最後に薔薇水をかけられる。念入りな手入れをされている間も、ルノはどうして怒られるのかしら、とばかりに不機嫌そうな顔をしていた。
 そりゃあ確かに勝手に出て行ったのはルノが悪いのだけども。でも外はたくさん素適なものがあったのだ。どうして誰もその話を聞いてくれないの。
 説教を連ねる侍女からぷいっとそっぽを向き、ルノは王の肖像画を眺める。おとうさまなんか、絵の中でだけかっこよさそうにしていればいいんだわ。そのうち、魔法使いがおとうさまを絵に閉じ込めて、出てこれなくなってしまうんだから。

 ゆったりとしたシルクの夜着に身を包むと、ルノは侍女と護衛の青年に連れられて部屋に戻る。そのときになってルノはようやっと部屋に置いてきた従者のことを思い出した。紅茶を頼んで、それきり置いてきてしまったイジュ。きっと怒っているに違いない。

「ルノさま?」
「う、ううん……」

 つい足を止めてしまうと、侍女が不思議そうな顔をして振り返る。ルノは処刑場へ連行される囚人がごとき心持ちになって、びくびくしながら寝室のノブを回した。この王女に限って言えば、夜の仕度をするのは侍女ではなく、従者である青年の役割。いつもならば、扉を開ければ笑顔でイジュが迎えてくれる。
 今日は……、怒った顔かもしれないけれど。

「ルノさまっ」

 扉を開けた瞬間、イジュの声が飛んできたのでルノは思わず身をすくめた。ほぼ同時に目の前が青年が身を包んだ群青色で覆われる。ぎゅううっと抱きしめられ、ルノははたはたと目を瞬かせた。かなり身の丈が違う青年に抱きすくめられてしまえば身動きができない。

「イジュ?」
「心配、しました。すごく……」

 はー、と不安ぜんぶを吐き出すようにゆっくりと青年は吐息を漏らす。背中に回された腕の力が強くなった。
 ううんとルノは困ったように眉を寄せ、背後へ助けを求めるように視線をめぐらせる。しかし、いつものことだと侍女らが苦笑し、ひらひらと一様に手を振って扉を閉めた。裏切り者、とルノは内心毒づく。

「あのね、イジュ……」

 ルノは惑うてから、青年の背中に腕を回してぎゅっと抱きついてみる。懐かしいイジュの匂い、温かな体温。心がふんわり溶かされ、もう考えていた言い訳ぜんぶ、どうでもよくなってきた。
 ごめんね、とルノは青年の腕の中で囁くように言った。




 しかしながら誰しも安堵のあとにやってくるのは怒りなのである。それはこの優しき青年とて例外ではなく。

「あなたが何をなさろうと、構いませんよ。構いませんが、」

 イジュはそう前置きしてから、びしりとルノに指を突きつけた。

「どうか御身だけは大事にしてください。具体的に言うと、変なひとについていかない。拾い食いはしない。断りも入れずに外に出るのも禁止!」
「い、犬猫みたいなこと言わないで」
「犬猫みたいにふらふら出て行ったのはどちらですか」

 それを言われてしまっては返しようがない。
 しぶしぶ口をつぐんだルノをベッドの上に座らせ、イジュは足を出すように言った。自分はベッドの近くに置かれた椅子に座って、先ほど侍女が置いていった布を丁寧に折る。おそらく医師が調合した薬湯がしみこませてあるのだろう。

「いいですか。あなたは少々思慮が足りません。それに自分の身に無頓着です。大事にしてない」
「し、してるわ……」
「いーえっ、してません」
「してるわ」
「してません」
「してる」
「してない!」

 ルノの腰掛けるベッドにたん、と手を付け、従者は断じる。
 しばしにらみ合い。
 十二歳の王女とほぼ互角の言い合いを繰り広げるこの大人げない青年は、普段は柔和な眼差しをむぅとひそめ、王女から目をそむけた。

「……もういいです。疲れました。おしまいです」

 何だか曖昧な形で白旗を揚げるので、ルノはとたん眉根を寄せる。

「ずるい。言い逃げだわ」
「ええ、言い逃げだ。言い逃げですとも。これが大人のエゴとゆーやつなのです。ひとつ賢くなられましたね。――ルノさま」

 促され、ルノは胸のうちにふつふつとしたものを残しながら足を差し出す。イジュはルノの足を軽く持ち上げ、薬湯に浸した布をあてがった。ひりひりと傷口にしみる。痛い、と青年の袖を引けば、自業自得です、とさっきの侍女と同じようなことをイジュは言った。少しばかり自覚しているだけに耳に痛く、ルノは頬を膨らませる。そうよ、自業自得。わかってるもの、わかってるもの。
 最初は不機嫌そうに、やがて退屈そうに、肩からこぼれ落ちる銀髪をくるくると指に絡ませ、ルノは黙々と手当てにいそしむ青年を見下ろす。

「……イジュ。まだ、怒ってる?」
「怒ってませんよ。何か?」
「怒ってるじゃない……」

 ぽそりと呟いてから、ルノはまぁよい、と首を振って気を取り直す。

「あのね、聞いて。私ね、私ね、友達が出来たのっ」
「――おともだち、ですか?」

 今にも抱きつかんばかりの王女を慣れたものとやんわり自分から引き離しつつ、イジュは少し意外そうに首を傾げる。はずみにさらりと、柔らかそうなヘイズルの髪が青年の肩から滑り落ちた。青年の首もとあたりでくくられたそれはモザイクランプの光を映して優しい夕日の色に染まる。

「そうよ」

 美しいその色に惹かれて、おもむろに手でいじってみたりしながら、ルノは嬉しそうにうなずく。眸を伏せて瞼裏に今日出会った“お友達”の姿を描いた。

「あのね、彼は歌をうたうの。あとね、詩も作ってしまう。きれいな声で、きれいな言葉なの。私、彼が大好き」
「へぇ。そうですか」

 と返すイジュの声がやけに平坦なので、ルノは小首を傾げる。

「それは素適ですね、私も嬉しいです。へぇえええ『大好き』、大好きね。それはめでたい。……終わりですよ」

 到底感情のこもっているとはいえない声で返してから、イジュはルノの足を離す。ルノはますますいぶかしんで、従者を眺めやった。それからその眸を探りでもかけるように細め、指でいじっていたヘイズルの髪を引く。ぐい、と飼い犬の手綱でも扱うかのように引き寄せ、眸の中をのぞきこむ。

「嬉しい? 嘘つかないで」
「は」
「お前の顔はちっとも嬉しそうじゃないわ」

 ルノは言い切ると、偉そうに腕を組む。

「あのね、お前が他の者にどんな嘘ついたって構わない。でも私の前ではだめ。決してだめ。お前は私のもの、お前のあるじは私なのよ」

 それがあまりにも高慢な言い分だとは――ルノは思わなかった。ただいつも言っているような言葉をいつも言っているように口にしただけだった。イジュは目を瞬かせる。それからやがてなんだかばつが悪そうに目をそらした。悪事がばれてしまった子供のような横顔。

「――どうして、外なんかに行くんですか」

 ぽそりと呟く。

「もしも帰らなかったらって不安になるじゃないですか……」

 青年が年甲斐もなくひどく頼りない声を出すので、ルノは少し慌てた。

「イジュ。もうそんな顔、しないで」
「どんな顔もしてませんよ」
「……ごめんね」
「さっき聞きました」
「もうしない。次はちゃんとイジュに聞くから」
「聞かれたら、全部却下します」

 二十二歳になる青年はしかし気を抜くと、急に子供みたいな駄々のこね方をする。イジュ、とルノはたしなめるように青年の頬をつねった。むっとした風に顔を上げた青年の頬に軽やかなキスをする。

「ごめんなさい、イジュ」

 再度、まっすぐ目を見つめて言った。
 イジュの翠の眸はしばらく探るようにルノを見つめていたが、そのうちそれまでの剣呑な空気を少し緩めて、「お疲れですか?」とルノの額に手を当てる。確かに言われてみれば、身体の節々がだるい。そうかもしれない、と呟くと、イジュはベッドの脇に浅く腰かけ、ルノの身体を横にしてくれた。もぞもぞと寝返りを打つルノの上に洗いたてのシーツがかかる。

「イジュ。許してくれた?」
「許すも許さぬも。私はルノさまに仕える従者の身分ですから」

 そう返すイジュからはしかし声の硬さがなくなっていた。
 満足して目を閉じる。

「そう。じゃあゆるしてね。私が言うのだから、お前は私を許さなくてはだめよ」
「ええ」

 暗闇に柔らかな苦笑がさざめく。

「……イジュ」
「なんでしょう?」
「私が眠るまでそこにいるのよ」

 まどろみながらもしっかりと我侭を言って、ルノはイジュの袖をつかむ。
 ベッドにかけられた金細工の吊り香炉、花文様の合間から匂いもれた、異国の薫衣香が、王女をまもなく夢の水際へといざなった。眸を閉じた王女の前髪をさらりとかきやり、イジュは大きく大きく息を吐き出す。

「おやすみなさい、ルノさま。よい夢を」

 かがみこんで王女の耳元に囁きを落とすと、その額へおやすみのキスをひとつ。そしていつものようにカーテンをしめ、ランプを消し、イジュはあるじを起こさないようにひっそり部屋を退出した。


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