“ちょこっと”と従者からお許しをいただいてしまえば、百万力だ。 以来、ルノは勉強の合間、作法・食事のマナー練習の合間と、隙をつき、教育係の目を盗んでは、城を抜け出した。 王族とは到底思えぬ簡素なドレス一枚に薄い外套を着込んだだけの姿で城門を出て行き、白い石畳の坂を軽い足取りで駆け下り、市場を抜け、橋を渡って、川のほとりのバケットと花籠の看板の店を目指す。そして丸い看板の下、テラスの揺れ椅子でうたた寝している老人を見つけてはふんわり笑みを綻ばせるのだった。 その日もルノがパン屋に足を運ぶと、老人はもはやお決まりの場所ともいえる木漏れ日のテラスでうとうとと居眠りをしていた。そっと近づけば、足音に気付いたのかゆるやかに目を開き、こちらの姿を認めてにっこりと笑う。 「おやおや。私の小さな淑女のお出ましだ」 「おはよう、おじいさん。起こしてごめんね」 「いや、我が姫の声に呼ばれれば私は千年の眠りからだって目を覚ますとも」 老人はおどけて返し、椅子から立ち上がる。 老人のあとに続いて店の中に入ると、ルノは棚から茶器を出してお茶の用意を手伝う。長いこと通いつめるうちにいつの間にかごく自然に身についてしまった習慣だ。それにこの老人ときたら美しい気品のある所作をするわりにどこか危なっかしいところがあって、よく皿を落として割ってしまったりするのだ。お皿を持っていくのは私の役目、とだからルノは勝手に決めてしまった。 「――おじいさん、私、歌が聞きたい。ね、歌、うたって?」 老人が紅茶を持って揺れ椅子に戻ると、その肘掛に身をもたせかけるようにしてルノはせっつく。 「もちろんだとも。さて、私の姫君はどんな歌をご所望かな?」 「どれでも。おじいさんが好きなものを」 「それでは、仰せのままに」 豊かな口髭に微笑みを載せ、老人は恭しく頭を下げる。 陽光の作る柔らかな木漏れ日の中、きぃきぃと揺れ椅子に軋ませながら、彼はのんびりと口ずさみ始めた。熱情的な愛の歌から、古い叙事、子守唄、友愛と親愛、そして哀悼、織り成す歌は彼自身の人生を物語っているかのよう。かすれがちの声は優しく、紡がれる詩は素朴であるのに、温かい。 ルノはミルクティーと、バスケットに山と積まれた白パンを味わいながら、彼の歌のひとつひとつへ真摯に耳を傾けた。 「本当にたくさんの歌があるのね」 「ああこの六十年、歌ばかりを作って生きてきたからね」 「一番お気に入りの歌はどれ?」 一節が終わったときに、ふと思いついて、そう尋ねてみた。老人はふっさりとした眉を寄せ、ほんの少し考え込んでみてから、「そうだね」とうなずく。 「どれも愛おしい歌ではあるけれど、あえていうならば祝福の詩かな」 「祝福の?」 「そう。昔々のことだ、わたしの姫君のお使いで、ひとりの淑女の誕生を祝って歌を贈ったことがあるのだよ。いとけなく、可愛らしい淑女だ。わたしは根無し草、生涯家族というものを持たなかった。人の誕生を歌ったのは人生で唯一、これきり」 「どんな歌なの? 聞かせてほしいわ」 好奇心をそそられた。祝福の詩とはいったいどんなに美しい旋律なのか。この素適な詩人はいったいどんな歌を歌ったのか。けれど老人は優しい顔をして首を振る。 「あの歌は彼女に贈ったものだから。もう、歌わないのだよ」 だからすまないね、とルノの頭を撫ぜながら、老人は代わりとばかりに、子守唄を歌った。彼のあるじである姫君を寝付かせるために作った歌だと笑って添えた。 そうして時はめぐる。 不変(かわらず)の楽園と呼ばれし“ユグドラシル”、水と翠と歌の国の、空の下。いつのまにか、ルノは誰よりも城下の小道に精通し、か弱かった足は靴擦れなど起こさぬくらいに強くなっていた。 老人のもとへ例の神学生がしばらくぶりに姿をみせたのは、そんなある日の夕暮れのことだった。 街の家々の煙突からは夕餉の煙が上がり始め、ひとびとはみな家族の待つ家への帰路につく。酒場ならばともかくも、普通の店々が並ぶこのあたりの通りはこの時間になると人気がほとんどなくなってしまう。無論店を閉めるのもこの時間だ。 老人はかまどなどの後片付けを終えると、私室のほうへ足を運ぶ。椅子にかけられたガウンを羽織りながら、暖炉に火をくべようと薪を持ってきた。 そのときである。 青年が現れた。暖炉の中から。 「こんばんはー」 絶句した老人にのんびり会釈し、青年は暖炉からよいしょ、と顔を出す。まさか本当に煙突から降りてきたのだろうか、黒のローブについた煤をぱふぱふと手で落とすと、シャルロ=カラマイは唖然とする老人の前を横切り、我が物顔で彼の椅子に腰掛けた。 「……何をしてるんだ?」 「おや。ご存知でない? 神の使者はいつだって煙突から降りてくるもの」 青年はくすくすと長い指を突き立てて謎かけのような答えを返し、懐から聖書――の代わりに一通の封筒を取り出した。説明は添えずにそれを老人へと差し出す。いぶかしげな顔をして封筒を受け取った老人はそれを裏返し、差出人をひと目見たとたんに表情を驚きへと変えた。 王立教会の蝋で封をされた文書。 すでに破られている封を開き、中に入っていた手紙に書かれた文面に目を走らせ、老人は瞠目する。温和な彼にしては珍しい表情だ。 「カロリナさまが……?」 呟いたきり、声が途切れる。 力を失った手から落ちた封筒が地に着く前にひょいとつかみとると、シャルロ=カラマイは蜜色の眸を細め、若干持て余し気味に手の中で封筒を回した。 それからおもむろに腕にこさえていた傷口に指先をつけ、ぬぐいとった微量の血で不可思議な図式のようなものを封筒に描く。刹那、封筒が燃え上がり、シャルロ=カラマイは炎が己の手をのみ込む前にそれを暖炉へくべた。 「――けれど、その知らせが神の福音であるとは限らない。神は時に試練と称してどうにもならない不幸を我々にお与えになる。……まぁ道を選ぶのはあなた次第でございますがね」 お決まりのように十字を切り、神学生は黒のローブを翻す。しゃらんと打ち合うロザリオの数珠、たし、たし、と遠ざかる靴音、それに混じって口ずさまれる甘い旋律の鎮魂歌を聞きながら、老人はその場に座り込んだ。 喉を押さえれば、呻き声のようなものがこぼれる。 ……ああだめだ、歌い手である自分がこんな醜い声を出しては。泣き虫のあるじが怖がってしまう。老人は首を振ると、微笑って口を開く。ひとひら、歌が紡ぎだされかけ、やがて嗚咽とともに潰れ消えた。 |