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06




 スケッチブックに、木炭が滑る。
 ざ、ざ、と小気味よい音を立てながら描かれるスケッチ。

 テラスの椅子にはひとりの婦人が座り、ゴンドラーナの青年とともに笑い声まじりの会話に花を咲かせている。睦みあうふたりの姿へとついと金色の眸をやったかと思えば、骨ばった手に握られた木炭が紙にたちまちその輪郭を描き出していく。
 テーブルには葡萄酒と銀の灰皿、それから年代ものの懐中時計が並べてあった。盤面に並んでいる幾何学的な文字はルノには読み取れない。一度、なんと読むの、と訊いたことがあったが、彼は今はどこにも存在しない文字だからね、と謎めいた微笑を浮かべたきり、教えてはくれなかった。
 外でルノが出会った中でも、この神学生の青年は飛び切りの変わり者のように思えた。

 名は確か、シャルロ=カラマイといったか。
 どこかで聞いたことがある。おそらくは地方の貴族の子息か何かが都へ出てきたのであろう。
 ユグド王国では貴族の子息は十五、六になると一度王都へ出て、それから数年間、教会付属の大学で勉学を修めるのがならいであり、この青年も年つきから考えればそんな風にして都へ出てきた大学生のひとりと考えるのが妥当だろう。
 だが、どうやら青年が間違っても勤勉な学生でないことは幾度かこのパン屋で顔を合わせるにつれ、ルノにもわかってきた。何故なら、シャルロ=カラマイがテラスで書物を開いていることは一度としてなく、たいていは葉巻をくゆらせながらぼんやり河を眺めているか、時折絵を描いているかのどちらかなのだ。根っからの怠け者なのか、都市の生活に嫌気でも差しているのか。
 それはそれとして、青年はしばしば絵を描く。
 何枚も、何枚も、街の風景を、そこに生きる人々を、飽きることなく描き出している。
 もしや画家でも目指しているのだろうか。
 本当のところは知れない。
 
「綺麗ね?」

 テーブルに斜めに載せられたスケッチブックをのぞきこみ、ルノは素直にこの画家の卵へ賞賛を送る。
 そーお?、とシャルロ=カラマイは口の端にひっかけた葉巻を右手に持ち替えながら間延びした返事を返した。薔薇姫のお眼鏡に叶って光栄です、ととってつけたような謝辞をつけることも忘れない。

「ええ、たいしたものだと思う」

 若干その言い回しは気に食わないものの、ルノはもう一度深くうなずいた。
 川と橋を背景に、秋の木漏れ日の中、睦みあう恋人たちの姿がある。木炭による筆致は荒っぽくそこかしこが乱雑であったが、どうしてか人を惹き付ける独特の情感があった。宮廷お抱えの画家が描いた肖像などよりずっといい。
 素朴ながら美しい絵を描くひとだ。

「絵が好きなの?」
「いえいえ。暇つぶし以外にこんな酔狂はしない」
「……ふぅん、そういうもの? おじいさんも暇つぶしでパンを焼いているのかしら?」
「さぁて、どうだろうね」

 奥でケーキを焼いている老人の背へちらりと視線をよこし、青年は口元に薄笑を浮かべた。金色の眸はこんなとき、ゆらゆらと不思議な煌めきを帯びる。空に浮かぶ太陽のようであり、その実、闇にひそむ月のごとき不思議な色をもった眸だ。
 青年は何かを思いついた様子で、つ、とスケッチブックから木炭を離すと、ルノにこちらに近寄れというように手招きをしてみせた。
 ルノがいぶかしみながら、青年のほうへ身を寄せれば、彼はスケッチブックを衝立代わりにしながらルノの耳元へと口を寄せる。

「あのね、きみは知らないんだろうけど実はあのひと――、」
「おい、シャルロ=カラマイ。私の淑女に何をやっているんだね?」

 そこへ噂の渦中の老人が大きなケーキを手に持って、テラスへ出てくる。ちぇ、とシャルロ=カラマイは舌打ちして、重々しい切り出し方のわりに存外あっさりルノから離れると、慣れた動作で十字を切った。

「何もやっておりませんとも。我が神に誓って」

 神の名もこの青年からすれば、免罪符でしかないらしい。
 老人は微苦笑まじりに肩をすくめ、

「ゴンドラーナ。それから、彼の花の君」

 睦みあう恋人たちを呼んでケーキをテーブルに置いた。
 クリームの塗られたケーキには、どっさりとベリーの実が乗せられている。庶民にとっては非常に高価であろうチョコレートがひとかけ真ん中に添えられ、祈りの文句が書かれていた。

 “今宵結ばれし神の子供たちに祝福を”

 婚約を祝う聖句だ。

 咲き初めのふたりを祝うため、テラスにはたくさんの白い花や木で編んだリースが飾られている。ルノと老人が、昨日から準備した飾り付けだ。
 まもなく契りを交わす男女が立ち上がり、初々しくこうべを垂れる。薔薇色のスカートを翻し、婦人は可愛らしく礼をした。
 ルノと老人が拍手を送るかたわら、葉巻を灰皿に押し付けていた神学生は木炭を置いてスケッチブックを閉じる。
 あら、とルノは眸を瞬かせる。てっきりふたりへの贈り物にするのかと思っていたのに。

「あげないの?」
「ええ、ワタシの絵は高いからね」
「そう。シャルロ=カラマイはそうやっていっつも絵をくれないんだ」
「いっつもとは心外だね」

 ルノに乗じてぼそりと悪態をついたゴンドラーナへ一瞥を送り、シャルロ=カラマイは肩をすくめる。

「欲しいならいつでもお売りしますとも。ただし一枚につきユグド金貨十枚で」
「金貨って……、あなたはどこの宮廷画家ですか!」

 抜け抜けと差し出された青年の手のひらをゴンドラーナが不満げにばんと手の甲を叩く。
 そのやり取りがおかしくて、ルノと婦人はくすくすと笑みを漏らした。

「ゴンドラーナと神学生のお馴染みのやり取りはさておき」

 老人は仕切りなおしとばかりに葡萄酒のなみなみと注がれた杯を取った。
 
「祝おうではないか。この橋で結ばれた、ひとひらの恋を」

 それぞれがおのおのの杯を持つ。

「――乾杯!」

 かちん、とゴブレットのふちをぶつけあい、一同は栄えある恋人たちの未来を祝った。



 宴もたけなわ、皆がほろ酔い気分になってきたころ、シャルロ=カラマイは天文学の講義の時間だといそいそと宴を抜け出してしまった。あとには若い恋人たちとルノ、それから老人が残される。
 ルノは葡萄酒の代わりにジャムを入れた紅茶を飲みながら、老人と談笑する恋人たちの声に耳を傾けた。と、ティーカップを皿に戻す際にテーブルの端に煌くものを見つけ、ルノは眉をひそめる。

 青年の懐中時計だ。
 いつも肌身はなさず持っているものを忘れていくとはあのひとも存外抜けているらしい。
 好奇心から手にとってみれば、鎖の先に吊り下げられた時計がきらりと銀色の軌跡を描いた。
 時計を手に落として、つ、と蓋の表面を指で撫ぜる。
 無地かと思いきや、そこにはひとつ茨の細工が彫られていた。
 羽を広げた蝶ならば、紺海の国クレンツェ。
 世界樹と聖音鳥ならば、ユグドラシル。
 ひとつ茨はさて、どこの国のものであったろうか。
 ルノは首をかしげ、蓋はあけずに懐中時計をポケットに突っ込んだ。

「ね、ね。おじいさん」

 ゴンドラーナは葡萄酒のせいか若干頬を赤らめながら、揺れ椅子でのんびりパイプを吹かせていた老人に声をかけた。

「おじいさんは今日は歌を歌ってくれないんですか?」
「あ、私も!」

 その提案に、ルノはぴょんと立ち上がる。

「聞きたいわ。ねぇねぇ、聞かせて? おじいさんの歌」

 吟遊詩人の袖を引き、ルノは懐こい子猫さながら屈託なく微笑む。けれどどうしてか望んだ反応が返らず、不安になってその表情を伺えば、老人はぞっとするほど顔を蒼白にさせていた。眉をひそめたルノに気づき、老人が弱々しそうな笑みを浮かべて口を開く。
 だがいつもの美しい声が紡ぎ出されることはなく、ただ潰れた声だけが吐き出された。

 ゴンドラーナと貴婦人がきょとんとして顔を見合わせた。
 ルノはそろそろと老人の袖から指を解く。すぐには言葉を発さず、不思議がるようにゆっくりと首をかしげる。

「悪いね」

 老人は苦笑じみた笑みを口元へ浮かべ、目を伏せた。

「今日は気分が乗らない」
「おじいさん?」
「歌う気分には、なれないのだよ」

 答えを拒むように繰り返される。
 惑うた一同を置き去りに、やがて老人は眠るように眸を閉じた。


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