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07




 石畳を走っていると、頬を撫ぜる風が冷たくなってきたのがわかった。
 西の空は薔薇色に染まりつつある。
 その空へ王立教会の二本の尖塔がそびえているのが見えた。収穫祭が近いので旗やとりどりの布で飾り付けられ始めた家々を抜けると、壮麗なクレンツェ様式の石造りの大聖堂が立ち現れる。ルノも幾度かミサへ足を運んだことがある教会である。といっても普段は城の中にある礼拝堂に通っているので、ここには指で数えられるほどしか来たことがないのだけれども。

「大きいわね……」

 教会を仰ぎ、ルノはほうと息をつく。
 ユグド王国のような小国のどこからこのような壮麗な教会を建てるお金が出てくるのだろう。少し不思議に思ってしまった。
 だが今日は教会見学に来たわけでも夕べの祈りに来たわけではない。礼拝堂は素通りし、隣接した付属大学のほうへ向かう。

「シャルロ=カラマイという神学生はいるかしら」

 大きな黒金の門の前につくと、ルノは門衛らしき男に尋ねた。

「シャルロ?」
「ええ。珍しい金髪頭の」
「知りませんな」

 ユグド王国の紋章をつけた男はそっけなく答え、じろりとルノへ冷たい一瞥を送った。

「それにここは外の方の出入りは禁止です」
「あら」

 大学といっても存外開かれた場所ではないらしい。
 ――修道院のようなものなのかしら?
 ルノは口に手をあて、ううんと考え込む。

「困ったわね……。じゃあシャルロ=カラマイという神学生にこれを届けておいてくれないかしら」

 外套の内ポケットに手を突っ込んで目当てのものを引っ張り出すと、ルノはそれを門衛に差し出そうとする。だが門衛のほうはすばやく手を突き出して、首を振った。

「事前に許可のないものは受け取らないことになっております。教会法五十四条です」
「でもね、ちょっと渡してくれるだけでいいのよ」
「五十四条」
「彼が困ってしまうわ」
「五十四条。破れば罰則として禁固刑及び五万リラの罰金さらに王立教会への出入り禁止が課されます」

 黙々と書物を読み上げるように返され、さすがのルノもたじろぐ。しばし睨みあってから、この男はだめだと諦めた。

「……最後に一言よろしいかしら?」
「何か?」
「あなたのようなひとをねぇ――い、し、あ、た、ま、というのよっ! 帰りに馬車馬に蹴られて踏まれてトイレの用済み用の紙のようにぺたんぺたんになって飛んでいってしまえばいいわ!」

 男の鼻先に指をつきつけ、一息に言い切ると、ルノはとたたたっとあとは脱兎の如くきびすを返す。門衛はしばらく唖然としてから、こんこんと頭を叩き、首を傾げた。



「まったく規則規則と、何かおかしいんじゃないかしら」

 ルノは腕を組んでとことこと大学にめぐらされた高い塀の下を歩く。
 
「もしも私が王になったら五十四条は即効廃止にしてみせる……」
「――同感だね。五十四条、あれはよくない。あれさえ廃止されればワタシも葉巻とワインを外套に隠してこっそり持ち込む必要がなくなる」

 緩やかに続けられた応酬にルノはぱちぱちと目を瞬かせた。
 あたりを見回す。
 
「シャルロ=カラマイ?」
「はいな」
「どこ?」
「ここ」
「どこよ?」
「あなたのすぐ上」

 確かに声は頭上からしている。ぐるりともう一度視線を彷徨わせてから、ルノは塀から外に枝を張り出している林檎の樹に目を留めた。案の定、その幹に近い太い枝に黒い影が寝そべっているのが見える。
 影がもぞりと動いた。

「ぜひとも王になって五十四条を変えてくださいな。できればワタシが大学にいる間に。――しかし“薔薇の姫”。こんなところでどうしたの?」
「天文学の授業は?」
「無論終わりましてございます」

 青年は顔に乗せていた聖書を閉じながら言う。
 絶対嘘だ。また遊んでいたのだ。

「これ! あなたのでしょう」

 しかしそこを突っ込んでも仕方がないので、ルノはポケットから取り出した懐中時計を青年へと掲げて見せた。青年の金色の眸がおや、とでもいうように細められる。
 
「届けに来てくれたの?」
「そうよ」

 だって忘れ物はちゃんと届けてあげなさいって教わっているもの。えっへんとルノが胸を張れば、彼はにっこり笑い、おいで、とでもいうように樹上から手招きした。

「は?」

 ルノは目を瞬かせ、青年と塀とを見比べた。
 まさかこの塀をよじ登れとでもいうのだろうか。石造りのそれはところどころがでこぼこと突き出ており、足をかけられなくはなさそうだけども……。
 ルノはしばしためらう。もしも先ほどの門衛に見つかれば大変なことになるし、それに道理から言えば、あちらが降りてくるところである。
 うかがうように樹を仰げば、青年が頬杖をついて樹上から面白そうにこちらを観察しているのが見えた。その態度が気に食わない。怖気づいている、と思われるのが勝気なルノにはたまらなかった。

「わかったわよ……」

 呟き、覚悟を決めるとルノは石に手をかけた。




 ころころと楽しそうに彼は笑った。

「すごいね。驚いた。意外と根性あるねぇ、お嬢さん」
「……あな、…と言っ…、…よ!?」
 
 塀を登りきると、ルノは息を乱しながらひといきにまくしたてる。無理な体勢で足を広げたり、引っ掛けたりしたせいで絹のスカートはあちらこちらが破れかけていた。イジュに怒られる。とても怒られてしまうわ!
 スカートに視線を落とし、うぅ、と眉根を寄せていると、かたわらの枝から青年がひょいとこちらに顔を出し、小首を傾げた。

「あなといよ? あなといよってなぁーに?」
「……いい、もう」

 ルノは顔をそむけ、ごそごそと外套のポケットを探る。すぐに目当てのものを見つけ出し、「はい」と神学生の鼻先にそれを突き出した。きょとんと金色の、光の差し加減によっては猫目石のようにも見えるそれを瞬かせ、やがて青年は微苦笑混じりに首をすくめた。

「俺ね。俺ねぇ、わざわざ懐中時計ごときを届けてくださる方がいるとは思わなかったよ」
「あらそう。なら、うんと感謝なさい」

 ルノは腕を組んだ。

「そうだね、うんと感謝する」

 何よ、おうむ返しだわ。
 あほの子のようだわ。

「――だって大事なものなのでしょう」

 ルノは少し苛立ちながら言った。

「だから持ってきたの。悪い?」
「とぉんでもない。――ふふ、助かりましたよ? ありがとうね」

 文句あるかとばかりに横目で睨めば、シャルロ=カラマイはやさしく目を細めて時計を受け取った。地平線へ沈んで行く夕日を眺めながら、ぱちんと開いた懐中時計をまたぱちんと閉じる。ぱちん。ぱちん。ぱちん。ごそっ。

 ――ごそっ? 
 耳慣れぬ音を聞きつけ、ルノが思わずそちらに目をやると、大きな丸いビスケットを差し出された。そのままぱくっと口にくわえさせられてしまう。

「……む」
「ご褒美」

 にこりと笑うと、青年は黒いローブのポケットからもう一枚ビスケットを取り出し、それは自分の口に入れた。

「ねぇねぇ、ルノさん」
「さん付けはいらないわ」
「そう? じゃあルノちゃんがいい?」

 確実にレベルが下がった感じがするのは気のせいだろうか。
 ルノがむぅと口をつぐんでしまったが、当の本人は相変わらず飼いならされていない猫のような気ままさでビスケットの粉のついた指を舐めていたりした。

「あのあと、パーティはどうでした?」
「パーティ? ……そうね」

 悲しそうに伏せられた淡いブルーの眸を思い出すと、未だに胸がきゅうと締め付けられる。ルノは知らず左胸を抑えた。

「おじいさんが歌を歌わなかったわ」
「ほう?」
「おじいさん、何かあったのかしら……」
「何か、ねぇ……」

 ぱちんと隣でまた懐中時計の蓋を閉じる音がした。

「ルノちゃん。ノースランドの惨劇の話はご存知ですか?」
「ノースランド? 何の話?」

 ノースランドといえば、ユグド王国の北の農村地帯のことだったと思う。領主はディスラ伯……だったか。数年前に何度か足繁く王宮に訪れていたことがあったので、ルノもなんとなく覚えている。そのあと、教会のちょび髭の司教が司教杖バルクスを鳴らして何やら難しい顔をしてやって来ていたことも。

「ノースランドがどうかしたの?」
「さぁて……」

 青年は猫目石色の眸を細めて薄く笑んだ。
 その背後で市の閉門を告げる鐘の音が鳴り始める。
 石壁を重く残響が響き渡った。

「――風向きが変わった」

 金の眸がらんと煌く。

「まもなく嵐が来るよ。早くおかえり」

 そう告げると、ルノの返答を待たず、シャルロ=カラマイはローブのフードを頭にかけてするりと林檎の樹を下りていった。


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