←BackTop | Next→


08




 暗い影が街を覆い始めていた。
 得体の知れない不安に突き動かされるようにしてルノは石畳の道を走る。市が閉門されると、通りの人気は目に見えて減った。コショウやサフランなどの香料売りは路上の敷物を畳み、店を構える者は皆夜に備えて鎧戸を締める。煙突からは夕餉の準備のためであろう煙が薄れ始めた朽ち薔薇色の空にたなびいていた。
 水路の上の橋を越えると、花篭とバケットのおなじみのパン屋の看板を見えてきた。そこに周りの家々と変わらぬ橙色の明かりが灯っていることに気づいてルノはほっと胸を撫で下ろす。

「おじいさん。いる?」

 ゴンドラーナたちはすでに帰ったあとらしい。今は片付けられ、ところどころに飾った花のリースだけが残るテラスを見回し、ルノは扉を軽く叩く。中で誰がしかが立ち上がるような気配があり、まもなく錠が落とされ扉が内側から開けられた。

「……ああお嬢さん。すまないね、寒かったろう」

 最初注意深く細く扉を開けた老人はルノの姿を認めると、驚いたような顔をしてすぐに家の中へと招いた。

「もう今日は戻ってこないのかと思っていたよ」
「うん、私もそのつもりだったのだけども……」
「だけども?」

 ――何か嫌な予感がしたの。
 喉から出かかった言葉を小さく首を振ってのみこみ、別にいいの、とルノは言った。

「おじいさんが元気だったなら別にいいの」

 それは心からの言葉だった。昼に見た、老人の悲しそうなブルーの眸は未だルノの脳裏にはっきりと焼きついている。あのときとっさに何もしてあげられなかったことがルノには口惜しく、また心残りだった。
 老人は少し驚いた風にブルーの眸を瞬かせ、やがてそれを優しく細める。

「……寒かったろう」
 
 冷え切ってしまったルノの手を取って大切そうに両手に包み込むと、中へお入りと老人はもう一度言って、背中に手を回した。導かれるがまま家に入る。とたん暖炉の炎の暖かい空気がルノを包んだ。強張っていた身体の節々が和らいでいく感覚を覚えながらほうと息をつき、ルノは外套を脱ぐ。暖炉近くの揺り椅子にはやりかけの刺繍が置いてあった。

「おじいさん、刺繍――……」

 そこに縫われた薄桃の薔薇の可愛らしさに笑みを綻ばせ、ルノはくるりと背後を振り返る。だが老人は未だ扉のノブを握ったまま石像のように立ちすくんでいる。

「――おじいさん?」

 いぶかしげに目を凝らせば、小柄な老人の前に大きな黒い影が射した。

「ノースランド地方ディスラ伯の楽師だな?」
 
 低い声とともに掲げられたカンテラの明かりが老人の顔を照らし出す。眩しそうに老人が顔をそらすと、扉が強引に開けられ、幾人かの男が中に押し入ってきた。皆、左肩に一様に世界樹を模した紋章がある。王兵だ。

「我々は王立教会より命を受け、ディスラ伯爵の私産を受け取りに参った。――心当たりは?」

 教会の許可印の押された羊皮紙を掲げ見せ、王兵は丁寧とは程遠い、詰問としか言いようのない口調で尋ねた。王兵が次々なだれこんできた床は彼らの靴底についた泥ですでに汚れてしまっている。それを見てさすがに気分を害したらしい、老人はわざとらしく肩をすくめ、さてなんのことですかな、と嘯いた。男がちっと舌打ちする。

「探せ!」

 周りとは異なる色のマントを羽織った男が命じると、王兵たちは訓練された兵隊らしい機敏さですぐさま動いた。ひとりが老人の肩を押さえ、残りは部屋へと散っていく。無言で棚や机の下などをあさり始めた王兵たちを混乱気味に見つめて、「ちょっと!」とルノは目の前でポプリの詰まった箱をひっくり返している兵の腕にすがりついた。

「何をするの! ここはおじいさんの家なのよ!?」

 声を張り上げ、箱から男の腕を引き剥がそうと試みる。なんだよと王兵は顔をしかめて蝿を追い払いでもするように手を振った。たたらを踏み、だがルノはなおも怯むことなく男に食い下がる。

「いい加減に……!」

 王兵の手が老人の大事にしている歌集に触れるに至ってルノは耐え切れなくなった。男の手を払い、歌集を奪い取る。ぱしんと威勢のいい音が鳴った。

「無礼者! これ以上狼藉を働くようならこの私が許さないんだから!」

 春空にも似た蒼い眸に怒りの色をたぎらせ、ルノは今しがた頬を叩いてやった男をきつく睨み据える。頬に手をあてがい、男は若干呆けた様子でルノを見つめた。あたりがしんと静まり返る。ぱちぱちと眸を瞬かせ、男がおもむろに身じろぎをしたので――、ルノは彼が己の非礼を詫びて叩頭をするのだろうと思った。だがしかし。

「――……っく、」

 男の喉が小さく震える。ルノがいぶかしげに眉をひそめると次の瞬間あははははははははとあたりは一転笑いの渦に包まれた。頬を叩かれた男だけではなく、周りにいたほかの王兵たちまで腹を抱えて笑っている。
 
「な、なに……、何がおかしいのよ……?」

 ぶしつけな笑い声にさらされ、ルノは眸を瞬かせることしかできない。ひぃひぃと喉を鳴らして笑っていた男は眦に滲んだ涙を指ですくいとりながら、異国からやってきた珍獣でも見るみたいにルノを頭から爪先まで眺め回した。

「“無礼者!”たぁ威勢のいいお嬢さんだ。――なぁ?」
「挙句の果てが“この私が許さない”ときたか。おお怖や怖や」
「だっ、だから何!? 何が言いたいのよ!?」
 
 幼子の無知を笑うような、安っぽい憐れみを帯びた視線を方々から向けられ、ルノは無我夢中で噛み付いた。ひとの目を怖い、と思ったのはこのときが初めてであったかもしれない。

「だからさ、お嬢さん」

 王兵のひとりがすとんとルノと目線を合わせるように床に跪く。王宮にいる武官とは違う、野山にいる熊を連れてきて王兵の隊服だけを着せたみたいなそのひとは、間近で向かい合うと思わず気が引けてしまうくらいの迫力があった。

「王兵に楯突くなんざ世間知らずもいいところなんだよ。なんなら牢にぶっこんでもいいのよ俺ら」
「……そ、そんなの……」

 持ち前の気の強さで言い返そうとするが、どうしてか舌がうまく回らない。心臓が早鐘を打ち、知らず胸の前で組み合わせた両手はかたかたと小刻みに震えた。それでようやくルノは目の前の男に自分が怯えているのだということを理解する。ほらな、とルノの胸中を見透かしたように男が笑った。

「王兵は偉いんだ。んなことも知らねぇようなお嬢さまは早く家にお帰り。それで使用人の差し出すミルクでも飲んでおやすみよ」

 一見優しさでくるまれているかのような言葉の奥にあるのはしかしこちらへ対するあけすけなまでの蔑みだった。見下されているのだと気付いたとたん、悔しさがふつふつと胸にこみ上げてくる。ちがう、とルノは奥歯を噛んで顔を振り上げた。

「違うわ! 馬鹿にしないで! あんたたちなんて怖くないもの! 私は……っ」
「おうおう“私は”? 今度は何を言い出すんだろうねこのお嬢さんは」
「わ、わたしは……」

 王女よ。この国の王女よ!
 思わず叫びかけた言葉をルノはすんでで飲み込む。
 ……確かに今ここで自分がコークランの名を明かせば、王兵たちは己の主君に当たる国王の娘に対してこんなぞんざいな扱いはしないだろうし、あるいは老人を救うことだってできるかもしれない。けれど王女が城を抜け出していたという事実はのちのち問題になってしまうだろう。ルノはいい。自分で望んで抜け出したのだから、いかなる処罰だって甘んじて受ける。でも、自分を信じて外へ送り出してくれたイジュたちはどうなるのだ。
 
「――……、」

 思いあぐね、ルノは苦悶の表情を宿して口を引き結んだ。じりじりと燃え行く暖炉の薪の音がルノの心に焦燥を呼ぶ。どうしたらいいのだろう。私は何をしたらいいのだろう。焦るほどに迷いは膨らみ、ルノはついにこうべを垂れた。音もなく透明な雫が床上に落ちる。
 そのとき視界端で何かが動くような気配がした。

「――まったく。三人がかりでいたいけな私の姫を苛めるとは腹立たしいことこの上ないな」
 
 それまで頑なに口を閉ざしていた老人はふぅと嘆息をこぼして顔を上げる。

「仕方がない、話を聞こう。あなた方はディスラ伯の姫、カロリナさまが私に託した『宝』のことを知りたいのだろう?」

 王兵の囲いから抜け出た老人はルノともうひとりの王兵との間に壁のように分け入ってくる。慌ててその肩をつかもうとした兵を腕で制し、兵の中では上位らしい若者が老人の前へ進み出た。

「そうなれば話が早い。<ノースランドの惨劇>の生き残りよ」
「……ノースランドの惨劇?」

 そういえば先ほど金色の眸をした神学生からも似たような言葉を聞いた気がして、ルノは口を挟む。若い王兵は顎を引き、口を開いた。

「ふた月前、ノースランドの農奴が領主のディスラ伯爵と結託して、教会の寄進税引き下げの反乱を起こし、これを北方管轄の教会兵が鎮圧した。首謀者の伯爵一家はことごとく処刑。処刑場近くは後追いの農奴たちの血で真っ赤に染まったという。これが俗に言う<ノースランドの惨劇>だ。しかしながら、後日明け渡された城はすでに空っぽになっており、捕えた農奴の話によれば、反乱の直前にディスラ伯爵は親しい楽師に“宝”を持って逃げさせたと――。相違ないか」

 王兵が振り返って尋ねると、老人は恭しくこうべを垂れた。

「ええ、お話の通りにございます」

 ひとつうなずいてみせたあと、――しかしながら、と老人は淡いブルーの眸に静かな炎にも似た色を湛えて続けた。

「ディスラ伯のご寵愛を受けた者としてただひとつ付け加えるならば、ノースランドは不毛の土地ゆえ寄進税を払いきれない農奴が多く、領主であるディスラ伯爵はたいそう心を痛めていらした。何年も前からたびたび王都へ赴き、税の引き下げを王に打診しておりましたが、その話をことごとく潰してらしたのがあなたがた国側の人間と教会さまでいらっしゃる」

 普段の穏やかな語り口は変わらないものの、そこには何か底冷えするような厳しさがある。ルノはディスラ伯爵が何度も足繁く王宮に通い、そのあとにちょび髭の司教が難しい顔をしてやってきていたことを思い出した。幼かったルノにはわからなかったが、あれはこのことだったのだ。
 老人は話を終えると、痛切さや苦悩、それからほんの少しの懐かしさの入り混じった複雑な微笑を浮かべ、王兵のほうへ揃えた手首を差し出した。

「あなた方に“宝”は渡せません。代わりにといってはなんだが、私の身はあなたがたの信じる神の御名において裁かれるがよい」
「――おじいさん!」

 驚き、ルノが視線を跳ね上げると、老人は眉根を下げて少し困った風に首を傾ける。かがみこみ、老人は楽を奏でることを生業としてきたものらしい白く細い指でルノの眦にたまった涙を拭い去った。

「そんな顔をしないでおくれ、薔薇の姫。私はね、あるいはずっとこの日を待っていたのだから」
「おじいさん……」
「けれど、その前に君が現れてくれた。老い先短い老いぼれの歌をたくさん聞いてくれたね。毎日毎日足に靴擦れを作りながら聞きに来てくれた。ふふ、私はとても果報者だ。そう思う。ね? だから姫――」

 ルノの手を大切そうに持ち上げ、手の甲に口付けを落とすと、老人はにっこり微笑む。それから居心地の悪そうな表情をする王兵たちに悪戯めいた視線を向け、「北方式愛情表現はひよっこたちには刺激が強すぎたかな?」とくすくす笑いながらきびすを返した。歩き出してしまった老人にあたふたと王兵が縄を巻きつけ、「連れて行くぞ!」と別の王兵が呼び声をかける。

「嫌! 嫌よ、おじいさん……っ!」

 ただひとり残されたルノの悲壮な叫びを残して、ぱたんと扉が閉められた。


←BackTop | Next→