暖炉の燃えさしが崩れて落ちる。 いったいどれくらいこうしていただろうか。 ルノは突っ伏していた揺り椅子からのろのろと身じろぎし、時計の針を見た。 長針と短針がぴたりと天辺で重なろうとしている。もう深夜の零時に近い。 夜更けになっても帰らない王女を城のイジュたちは心配しているだろうか。 考えると、またちくりと胸が痛んだ。床にぺたんと座り込み、ルノは揺り椅子にもたれかかる。たくさん泣いたせいで鼻の奥にまだつんとした感覚が残っていた。濡れた頬をぬぐおうともせず、しばらく茫洋と時計の音を聞いていると、そのうち腕に微かな痛みを感じてルノはそちらへ目を落とした。先ほどもみあいをしたからか、手首のあたりが薄赤く腫れ上がっている。 とりあえずこれを冷やすべきだわ、と現実的な思考をして、ルノは立ち上がり、水差しと布を取った。ブリキの水差しの隣に立てかけてあった曇り硝子を磨いただけの鏡にちらと自分の姿が映る。何気なく目をやれば、そこに映った自分は一瞬息を呑むほど、――目は腫れぼったく、髪はぐしゃぐしゃでそれはひどいありさまだった。 「――一嫌だわ、私。とてもみすぼらしい」 鏡に映った自分を見つめてルノはぽつりと呟く。 「それに、なんてみじめなの」 なんだか腕を冷やす気も萎えてしまった。 水差しを置き、ルノはそっと鏡の表面をなぞる。きゅっと音を立てて透明な線が引かれ、触れた硝子の冷たさに指先は震えた。かじかんだ指を握りこむように拳を作ってルノは固く目を閉じる。 「……くやしい。悔しいわ……」 目頭が熱くなり、自然喉が震える。 だって、言い返せなかった、何ひとつ。 あのひとたちに何ひとつ、言い返せなかった。 城に帰れば、あのような騎士の首ひとつ刎ねるくらいたやすい。けれどそれはあくまで城の中での話であって、ひとたび外に出ればルノはただの無力な世間知らずの娘でしかなかった。いくら声を張り上げて王兵たちをなじってみても、いくら身体を張って男たちにつかみかかってみても、まるで役立たずだった。 悔しい。そんな気持ちがじわじわお腹の底からせり上がってくる。 自分が、情けない。 おそらく無意識のうちにルノは己をおごっていたのだ。城の中で何百もの召使にかしずかれ、周りの者に当たり前のように守られ愛されているうちに自分はたいそうなものであると錯覚を起こしてしまっていたのだ。 ――違うのに。本当のルノは、一人では何もできない娘でしかないのに。 そんなことも知らずにいた己の浅はかさを、ルノは恥ずかしく思う。すごく、すごく、恥ずかしく思う。――本当に、ユグドラシルの樹のうろにモモンガとふたりでこもってしまいたいくらいだわ。 投げやりに考えると、また止まりかけた涙が溢れてきそうになったので、ルノは目元をごしごしと手の甲で無理やりぬぐった。一度深く息を吸って吐く。 それからぱんと手で両頬を叩いた。 「ええい泣かないの!」 鏡に映る自分が気弱な顔をしたので、ルノはさらに両手で頬を叩く。 「泣かないの! うじうじするんじゃないのルノ=コークラン! 泣いても始まらないの! 立つの! 立って自分で次に何をするべきか考えるのよ! それもできないなら私は本当に私を嫌いになってやるんだから!」 言い切る頃にはぜいぜいと息が乱れていた。 立つの、と鏡の自分へもう一度言い聞かせるように唱えると、自然背筋が張り、いつもの鋭い眼差しが戻ってくる。試しに薄く口元に笑みを浮かべてみた。鏡の少女が不敵に笑う。 ――大丈夫、いつもの自分の顔だ。 ルノはほっとして少し肩の力を抜いた。それでいい。ルノ=コークランはそれがいい。 自分に向けてうなずいてみせ、ルノは気分を一新するべくもう一度頬を手で打った。そして、まずはこの散らかった部屋を片付けてしまおうと腕まくりをする。 鏡とブリキの水差しを棚に戻し、床に散らばったポプリを箒で掃いて集める。それらを箱に入れて、落ちていた歌集を机に持っていった。そのとき、歌集の中から不意に一通の手紙がひらりと滑り落ちた。 「何かしら」 呟き、ルノは手紙を拾い上げる。 見るからに上質そうな滑らかな封筒。王立教会の蝋でなされた封はすでに切られている。少しためらってから中をのぞくと、端に渡り鴉の刻印が押されているのが見えた。渡り鴉は死を伝える鳥。そのとおり、中にはディスラ伯爵とその后、それから娘カロリナの訃報が入っていた。 ――この日を私は待っていたのだから。 老人の言葉を思い出し、ルノはああと呟く。 おじいさんはもうすべて知っていたんだわ。 複雑な想いを噛み締め、ルノは手紙を折りたたむ。 「……あら?」 封筒に入れる際になって、手紙の端に押された渡り鴉の嘴が何かをくわえているのに気付いた。細い枝――、いや、小さな鈴を三連つけた造形のそれは鈴蘭のようにも見える。まるで誰かが羽根ペンで書き足しでもしたみたい。不思議に思って手紙を隈なく眺め回してみるが、その他には何かが描かれている形跡はなかった。 ルノは首をひねる。はかりかねて封筒のほうへ手をかけてみたりしていると、それまできっちり閉められていた家の扉が微かに軋む気配を感じた。そっと押し開けられた扉から誰がしかが顔をのぞかせる。 「……ルノさま、ですか?」 「イジュ?」 暗がりからあらわになった青年の顔を認め、ルノは手紙を持ったまま面食らった風に立ち尽くす。 どうして。何故ここがわかったのだ。 信じられないといった様子でルノは部屋に入ってきた青年を仰ぎ、「どうしてここがわかったのよ?」と今しがた脳裏に浮かんだのと同じことを問うた。 外套に降りかかった粉雪を払いながら、イジュは呆れた風に肩をすくめる。 「ルノさま。よもや私が本当にあなたを野放しにするとでも? あのね、私はよそでは忠実な、用心深い従者で通っているんです。我が君には市民の身なりをさせた城の者をいつも二三つけております」 「う、嘘! 嘘よ!」 気付かなかったわ! 目を見開くルノに、イジュはしたり顔でうなずいてみせた。 「それはそうでしょうとも。ルノさまときたらいつも前しか見ておりませんからね」 「失礼なこと言わないで。私は左も右も、う、後ろだって見えているわ」 「ほう、我が君はひとの目だけでなく馬の目までお持ちでしたか」 さりげなくささやかな皮肉を言ってイジュは小さく息をつく。たしと足音を鳴らしてこちらの前にかがみこんだ。 「――さっき報告を受けて慌てて駆けつけたのです。王兵に、」 何かひどいことでもされましたか、と静かな声が囁き、いたわるように頬に手を差し伸べられた。自分を見つめる翠の眸に乗った切なそうな色を見取って、ルノはさっき自分がみすぼらしいと思った顔を今この青年が見ているのだと気付いた。優しい手のひらにすべて預けてしまいたい衝動に駆られながら、けれどばつの悪さのほうが先立ってルノは顔を俯かせる。 それから、勢いよく青年の額を指で弾いた。 「っい、」 一瞬何が起こったかわからなかった様子でイジュはぱちぱちと目を瞬かせ、みるみる眉根を寄せた。 「何をなさいます」 「うるさいわ。この私がひどいことなどされるわけがないでしょう、馬鹿はお前ねイジュ。さぁその外套を私に差し出しなさい。寒かったのよ。馬車の手配はしてあるわね? ――そう、よかった。じゃあさっさと帰るわよ」 一息に言い切ると、ルノは差し出されるよりも前に青年の外套を奪って肩にかけ、すたすたと扉のほうに向かう。だが、戸口まで来てもイジュが追ってこなかったので、しかめっ面を作って足を止めた。 「……何よ」 「いえ。そんな早口でまくし立てますと舌を噛みますよ」 何がおかしかったのかイジュはくすくすと品よく微笑って歩き出し、ルノの背を軽く押す。いつの間にか積もり始めていた雪を踏みしだき、ルノは暗い夜空を仰いだ。空には月と、幾つもの星が灯っている。白い呼気が天に立ち昇った。 「そういえば、イジュ」 「なんでしょう?」 「鈴蘭、って普通どんな意味を持っているのかしら?」 少し裾の長い青年の外套を地面につかないようたくしあげつつ、ルノは扉を閉める青年を振り返って問うた。 「国教的に、ですか?」 「そうね。かもしれない」 「えぇと……少し待ってくださいね。鈴蘭、鈴蘭……」 イジュは通りの前に止まっていた馬車のほうへとルノをいざない、自分は記憶を辿るようにこめかみへと手をやる。まもなく、ああと何か思い出した様子でイジュは手を離した。 「――二章三節、“神の使者は天より来る”。悲嘆に暮れたひとの子に天使が差し出した花です」 「神の使者?」 「よく地にうずくまる男と左からやってくる天使との対比で教会の壁画にも描かれていますよ」 それなら覚えがある。 ルノは王立教会の壁画に描かれた白い衣をまとった天使と、うなだれるひとの子に差し出される鈴蘭の花を思い出した。苦悶を宿したひとの子と、柔和な天使の顔の対比が面白いと思ったものだ。 「それで、その意味するところは?」 尋ねると、イジュは優しい色をした翠の眸をふっと細めた。 そしてとっておきのお伽話を始めるように、唇に長い指を当てる。 「――『希望』、です。ルノさま」 |