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10




『ハリネズミというのは、こわいこわい魔法使いの化身でした。ハリネズミは夜な夜な白壁の穴から忍び込んでは、とがった針でぶすりと子どもたちの足を刺し、その魂を抜き取ってしまうのでした』

 子供の頃、ルノはそんな絵本を読んだ。絵本の中のハリネズミは狡猾そうな、それはそれは醜悪な顔をしていた。物語はこう続く。――神さまは悪戯ばかりするハリネズミを見かねて、ユグドラシルの樹の上から手を伸ばし、彼のとがった鼻面をつまみあげました。どうして悪戯ばかりするんだいハリネズミ、神さまが言います。ハリネズミはとてもとてもどうしようもない心の持ち主だったので、うるさいやいと神さまの手を針で突き刺しました。するとどうしたことでしょう。神さまの手からはまばゆい星が三つ生まれ、目が眩んだハリネズミは動けなくなってしまいました。そして次の瞬間には、ハリネズミはとげとげした針をいっぱい持つ植物に変わっていました。
 神さまは罰として、ハリネズミをユグド王国から追い出し、砂ばっかりの枯れ果てた場所でしか生きられないようにしました。『サボテン』はだから、今もずぅっと砂漠でひとりっきり神さまの手から生まれた三つの星――イル、トルタ、サイを見つめているのです。

 一年の終わりに催される終末祭の前夜祭はかくして、ハリネズミ祭というへんてこりんな名前で呼ばれることとなる。城の住み込みの使用人が子どもに『ハリネズミのように悪いことばかりしていたら、サボテンに変えられてしまうよ!』と言って脅すのを見かけ、ルノは今年もこの季節がやってきたのだ、と思った。

 ハリネズミ祭では、恒例の行事がひとつある。
 今年一年の間に捕まった罪人の刑の執行だった。
 彼らの中で特に罪の重い者は王都の西にある監獄から市中の広場まで引き立てられ、ギロチンでじゃっきんと首を斬られることに決まっている。

 ――ギロチンを見たことがありますかマダム。
 ――ええ、もちろん、もちろん。のこぎりみたいな刃でひとの首を斬るのでしょう? ターニア子爵のときはそれはよく首が飛んだと聞きますわ。
 ――その首が空を飛ぶ際、自分を貶めた貴族を見てにやりと笑ったという話は? 
 ――まぁ、それは初耳ですわ。なんと恐ろしい……
 ――まったくでございます。ですが、マダム。この話には続きがあるのですよ。ここだけの話、その貴族は……

 そう囁きあいながら貴婦人たちはこぞって広場の見物席を従者に手配させる。
 ルノもまた同様にイジュに見物席を取ってこさせていた。王族のためにしつらえられた特等席。今年は、市中の娘の耳を斬って回った男と、先日捕まったノースランドの楽師が処刑されることになっていた。ルノの席からはそれがよく見えよう。

「紅茶を淹れましたよ、ルノさま」
「ふぅん。何?」
「カモミールです」
「“興奮している子どもを寝つかせる草”?」
「鎮静作用といってください。ルノさま、他にもカモミールには消化促進、発汗、保湿作用があり、さらには下痢止めや利尿などの効果も……」
「――うん、わかった。もういいわ。ありがとう」
 
 このまま薬草の講釈にでも入ったらたまらないと思って、ルノはカップを取る。陶器の持ち手は温かく、口に含むと優しい香りがした。

「もう秋も終わりね……」

 冬枯れていく庭を窓から眺めながら、ルノは時が来るのを待つ。




 明後日に迫ったハリネズミ祭に向け、街の活気はいよいよ勢いを増していた。
 街路樹はリボンやハリネズミのオブジェで飾られ、白亜の石造りの建物からは青と白の布がひらひらとたなびいている。
 世界樹は陽光を浴びてますますその滑らかな木肌を煌かせ、空へと枝を伸ばした。祭りを見物に隣国クレンツェなどからも多くの旅人が訪れており、市中の狭い道は早くもひとで埋め尽くされている。

 その喧騒から離れた、小さな古びたカフェのテラスにはっと目を引く派手な金色の頭があった。
 テーブルには冷めた紅茶と檸檬の切れ端、それから聖書と、懐中時計が置かれている。物が雑多に置かれたテーブルのわずかなスペースを使って、青年はどうやらお得意のスケッチをしているらしかった。
 握られた木炭が軽やかに紙の上を滑り、街の風景を描き出していく。瞬く間に前景を描き出した青年はそこでふうと息をつき、ティーカップへと手を伸ばした。

「シャルロ=カラマイ」

 しかし指先が持ち手に触れる前に、店の娘がやってきてティーカップを取り上げる。ふいっと手を空ぶりさせた神学生に「お客さまよ」と娘は後ろを顎でしゃくってみせた。意外そうに瞬いた金色の眸が背丈の小さな少女を捉え、猫のような気ままな人懐っこさを滲ませ細められる。おやまぁ、と彼は呟き、ルノを迎えた。

「我らが“薔薇の姫”じゃあないですか。どうしたの? よくここがわかったもんだね」

 店の娘が置いていったカップを取って優雅に口をつけながら、シャルロ=カラマイはどうぞお座りなさいとでもいうようにルノに目配せをする。けれどルノは動かない。何かを警戒するように突っ立ったまま、じっと青年の顔を見据えている。

「……探し当てられたのは、私の優秀な僕(しもべ)の地道な捜索のおかげよ」

 ややあってルノはそれだけを口にした。

「『優秀な僕』ねぇ。つまり勝手にひとのあとつけてたんだ。……ふぅん。感心しないね。まぁいいけど」

 シャルロ=カラマイはカップを置き、隣に添えられていたヘーゼルナッツのチョコレートを口にくわえた。

「それで? そうまでして探されたなら、何か素適な理由があるのでしょう?」
「まもなくハリネズミ祭があるのは知ってるわよね?」
「勿論。昨日の終業ミサではハリネズミがいかに醜悪な動物であったのか、司教御自ら三時間に渡ってお話してくださったからね。今なら姫にもタダで聞かせて差し上げられるよ」

 本気とも冗談ともつかない口調で言って、シャルロ=カラマイは肩をすくめる。菓子を食べ終え、紅茶でそれを流し込む。さらにためらくことなく二個目へ。こちらにお構いなしにお菓子と紅茶を楽しむ青年をしばらく深刻そうな顔で見つめていたルノだったが、そのうち吹っ切れたのだろう。軽く息を吐いて、対面の椅子に座った。

「今日はあなたに知恵を貸してもらいたくて来たのよ、シャルロ=カラマイ」
「へぇ? いちおうきいてもいいけど。お代は?」

 ぬけぬけと手のひらを差し出され、さすがのルノも面食らった。頼みの内容よりも前に報酬を聞くとは。これが市井の流儀なのだろうか。考え込んでしまったルノを見て、シャルロ=カラマイはのんびり続ける。

「だって姫。世の中というのは、ギブ・アンド・テイクの法則で回ってる。それ相応の代価がなくちゃひとは動かない」
「……愛と善をうたう神官の卵がよく言ったものね」
「愛と善ね。個人的見解から申し上げれば、欲と金の間違いじゃないかな。――だけども、あなたこそ、お転婆王女がよく言ったものだよね」
「オウジョ……?」

 ――王女。今この青年は王女と言わなかったか。

「おやまぁ何を驚いているんでしょうこの姫は」

 笑ってシャルロ=カラマイは軽くルノのほうへ身を乗り出した。少しだけ声をひそめて耳打ちする。

「ルノ=コークラン、ユグド王国の“王女さま”」
「……気、付いて?」
「ええ。ちなみにワタシだけじゃなく、おじいさんもゴンドラーナも彼の若奥さんもみーんなね」
「嘘」

 これにはさすがに唖然となってしまう。ということは“姫”の愛称も歌に引っ掛けたものではなく、皆本気で使っていたのだろうか。嘘、嘘、と動揺のあまり頬を染め、ルノは神学生を睨んだ。

「どうして言ってくれなかったの! だ、だいたいあなたいつから、」
「まぁまぁそう怖い顔をなさらず。あなたが現れた翌日、おじいさんが言ったんです。あの方は尊いお方だから、変なことをするんじゃないよシャルロ=カラマイって。……俺、変なことなんてしないのになぁ、信用ないんだもん」

 ふふっと笑い、シャルロ=カラマイは店の娘が気を効かして持ってきたルノのぶんのケーキに断りなく手をつけ始めた。ナイフでたっぷりクリームのかかったケーキを切り分ける。

「ところで、そのおじいさんはこのままだと明後日には首をじゃっきんらしい。さて姫。どうする?」
「助けるつもりよ」

 気負いなく言って、ルノはシャルロ=カラマイからナイフを奪い返した。

「だから、あなたにその手助けをして欲しいの」
「『手助け』ねぇ? 彼方の王城から遠路はるばるご足労ご苦労さま。でも、あいにくとワタクシただいま休暇中なのです。リシュリテ金貨百枚持ってきてくださるなら考えてもいいけど」

 取られたナイフの代わりにフォークを使ってケーキを口に運びつつ、シャルロ=カラマイは言った。リシュリテ金貨百枚。さらっと言ってのけたが、それは教会ひとつ建てられてしまうくらいの途方もない額だ。ルノとてそのようなもの今日の明日で用意できるわけがない。

「……あなた、よくひとから言われない?」
「ハイ?」
「『性格が悪い』って」

 無理難題を、知って吹っかけている。

「あはは、なかなか鋭いね、姫。だけど答えは少し違う。学友たちがワタシにつけたあだ名はもっと簡素で、ただの『ハリネズミ』」
「醜悪でずる賢い?」
「本人はもっぱら否定をしたいところですがね。ワタシならサボテンにされるなんてドジは踏まない。――だけど姫。何も嫌だって言ってるんじゃないんだよ。条件は提示した。乗るか否かはあなた次第。リシュリテ金貨百枚を用意できないなら、それは単にあなたの能力の問題でしょう」
「……っ!」

 痛いところをつかれた気がして、ルノは唇を噛んだ。
 感情の昂ぶるままに言い返しそうになるのを堪え、指を組む。

「――……ギブ・アンド・テイクの法則と言ったわね。あなたを動かすのは金貨だけだとでも?」
「ふふ、非難なさるように言うね」
「だって、あなただっておじいさんと仲良くしていたでしょう? 少しくらい、ほんの欠片くらい、助けたいって、そう考えたりはしないの? あなたはまるでそうしたくはないみたいだわ」
「まぁ確かに、彼とは懇意にさせていただきましたがね。それとこれとは話が別だよ。そして姫君。そうやって情に訴えかければ何でも望み通りになると思ってらっしゃらない? それこそ“姫君らしい”甘い考えだと思うんだけど」

 いつもは蜜の溶けるような色をした眸は、今は硬質な金貨のようだ。
 にべもなく叩き返され、ルノはついぞ口をつぐむ。つぐまざるを得なくなる。

 ――……そうよ。そのとおり。あなたの言うとおり。
 王女の肩書きも言葉も時としては何の役にも立たない。感情に訴えたって誰も相手になどしてくれない。わかっているわ。知っているわ。そんなこと言われなくたって、痛いくらい。

「……そうね。あなたの言うとおりだわ、シャルロ=カラマイ」

 長い沈黙のあと、ルノはふぅと息を吐いた。
 おや、と青年は意外そうに目を瞬かせる。
 ルノがあっさりと引いたのが意外であったらしい。

「ずいぶんと物分りがよくていらっしゃる」
「私、不毛な論議を重ねるのは好きじゃないの」
「殊勝な心がけで」
「どうも。それに、あなたのおかげで気付いたわ。私ったらどうやらひどい思い違いをしていたみたい」
「思い違い?」
「そう。思い違いよ。もとより私は、拾ってきた子どもに勝手に名前をつけて無理やりそばに置いて無理やり剣を握らせてしまいにはカモミールティが下痢止めになるだとか利尿作用になるだとかそんなことに詳しくなってしまう仕事をさせている、それを悪いとすら思っていない、とんでもないごうつくばりの我侭娘なのに、今さらなんだというのかしら。私はしがない娘でしかなかったのに、いったい自分をどこの傑物だと思っていたのかしら。そうよ、私はいつもと同じように自分のしたいことを自分勝手にするべきなのだわ」

 我ながらめちゃくちゃな自論といえた。
 案の定、対面の青年は何やら怪訝そうな顔でこちらを見ている。その視線を引きつけるようにして手を下ろすと、ルノはさながら花が綻ぶかのような微笑を返し――、

 ダンっ!

 と青年が癖のように手を伸ばしかけていた懐中時計の上に手を置いた。
 目を瞬かせる青年の前でそれを取り去り、ぱかっと銀製の蓋を開ける。

「この懐中時計。とても大切なものなんですってね?」
「――脅す気?」

 ルノの意図をすばやく読み取って、金色の眸が剣呑そうに眇められる。
 思ったとおりだった。この神学生は馬鹿でない。そして弱みもある。
 ――悪くない。
 身体が強張りそうになるのを押し殺して、ルノはふっと笑ってやった。挑発するように銀の鎖を指に絡める。

「そんな盗人みたいな真似はしないわ。何せ私は一国の王女ですもの。そうではなく、この私がわざわざあなたの寮まで赴き、これを届けてやった、その代金を払えと言っているのよ」
「結局ゆすりじゃあないですか」
「商談と言って」
「じゃあ仮にそんなものがあったとして、いったいいくらの値を付けるの? 自称ごうつくばりの我侭な商人さまは」
「しめて――、そうね、金百はいかが?」

 青年の眸が軽く見開かれる。
 やがてそこに隠しきれない苦い笑みが浮かび、彼は「考えたもんだね」と頭痛でもしてきたかのようにこめかみに手をやった。

「だって世の中はギブ・アンド・テイクの理で回っているのでしょう? 私はあなたに善意を差し出したわ。あなたはそれにどんな見返りをつけてくれるのかしら。シャルロ=カラマイ」

 ルノは鷹揚に腕を組んで対面の男の返答を待つ。
 はやる気持ちを抑え、余裕すら感じさせる笑みを浮かべてやった。失敗は許されない。ルノはこの男を掌握し、思いのままに動かさねばならない。たとえ一時でも。

「――面白い子だね。ワタシに勝負を挑むつもり?」
「楽しいゲームにするわよ」
「いかにも。あなたとなら飽きないゲームになりそうだよ。カードでも。チェスでも」

 くすっと笑い、シャルロ=カラマイはルノが差し出した懐中時計を手に取った。

「ノースランドの憐れな楽師の奪還でもね。よろしい。姫に免じて、その話乗りましょう」


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