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12




 ハリネズミのかぶりものをした男女ふたり組は裏の水路に差しかかったところでようやく走る速度を落とした。裏道を使いながら広場からここまでを全速力で逃げ回ってきたので、息はかなり上がってしまっている。

「大丈夫?」

 ひとりが問い、思い出した風に自分の被り物をはいだ。ええ、ともうひとりがうなずいて、それからスカートのポケットから取り出した木綿のハンカチで相手の額に浮いた汗をぬぐってやる。その手つきは愛しさに溢れていた。

「そもそも僕たちが肉体労働っておかしいと思うんだよね。君のお腹にはいつ赤ちゃんが宿ったっておかしくないのに」

 青年ははぁっと憂鬱そうに息をつき、汗を拭く娘の手首をとって優しくさすった。そして昨晩のうちにあらかじめ岸に寄せていたゴンドラに飛び乗る。杭に繋いでいた縄を解き、中に伏せておいた櫂を手に取った。きゅっと握り締めると、物心ついた頃からずっと知っている慣れ親しんだ手袋を通して伝わる。

「いってらっしゃい。がんばってね」
「はいな。大丈夫、シャルロ=カラマイは道案内だけは一度も間違えたことがない」

 見送る新妻の額に別れのキスをして、ゴンドラーナは勢いよく岸を蹴った。




 市街地から商館の立ち並ぶ地区を抜け、湾岸方面へ向けて川に沿って下っていく荷車は本来、決して止まってはならないのだった。何があっても罪人を処刑場へ送り届ける、というのが護送兵たちに課せられた命令であったのだから、止まることは重罪に値するのだった。
 けれど、荷車は止まってしまった。血相を変えた群衆が押し寄せ、瞬く間に荷車を取り囲んで行く手を阻んでしまったからだ。

「ノースランドの宝!」

 取り囲んだ群衆の誰かが叫ぶ。護送兵には何のことやらさっぱりわからなかったが、どうやら彼らは自分たちが宝か何かを隠し持っていると思っているらしい。ついでにいうと、その宝を自分たちに分け与えてくれるものだと信じきっているようだ。次々に「真珠! 真珠!」と手を差し出され、困って首を振ると、今度は身包みをはがされだした。

「やめっ、やめろ! やめろ!!」

 熱狂する民というものは恐ろしい。
 ましてや今日は年に一度の大祭へと繋がる前夜祭、その興奮も生半可なものではない。興奮は伝染する。伝染して、共鳴する。いまや群衆そのものが、ひとつの暴力的なエネルギーの塊だった。

 さりとて命令もなしに切って捨ててしまうわけにもいかない。
 護送兵たちはもがいて、身包みをはがそうと次々に伸びてくる手から逃れようとする。それで、しまったと思った。抗うのに夢中なあまり、持ち場の荷車から遠く離されてしまったのだ。他の者も同様らしく、今荷車の上にはノースランドの楽師ともうひとり――市中の女の耳を斬って回ったという男だけがぽつねんと取り残されている。しまった、というこちらの顔色を見て、男が「あ」と呟く。状況を理解したらしい。

「おい、チャンスだぜ。逃げろ!」

 否や、言った本人は荷車から飛び降り、護送兵がいるのとは反対方向へ駆け出している。「あ」「お」「やべ」という馬鹿っぽい声が自分をはじめとした護送兵側から上がった。舌打ちし、こちらの下履きにごそごそと手を突っ込んで真珠はないかとまさぐっている男をなんとか振り切ろうとする(これが終わったら猥褻の罪で牢に放り込んでやる!)。

「イジュ!」

 そのとき、喧騒の中でもよく通る澄んだ声が耳を打った。
 見れば、少し離れた場所にユグド王国の王室の紋章が刻まれた馬車があり、そこからひとりの少女と青年とが降りてきているところだった。

「彼をひっとらえて! たまには男気を見せてごらんなさい!」

 背中を叩かれた青年はそのとおり、フリルエプロンで給仕をしているほうがふさわしそうな、いかにも優男な外見をしている。若干よろけた青年ははぁっと大仰にため息をつき、サーベルを抜いた。馬車を守っていた他の王兵にすばやく指示を送る。その剣が瞬く間に逃げようとしていた囚人の足の腱を切り、地面に倒すのを護送兵たちは固唾を呑んで見守った。訓練された者らしい流麗な動きだった。

 その隙に王女ルノ=コークランは喧騒を離れて、橋のほうに向かう。護衛官たちが付き添おうとするが、それを視線で制した。
 橋を背に立つ少女の背後にはちょうど白い世界樹と、太陽とがある。
 降り注ぐ陽光を浴びて、輪郭にうっすら光をまとった少女は教会のステンドグラスに描かれた神の子を髣髴とさせる。それくらいに、神々しい光景だった。

 王女の目はすでに囚人や群衆のほうを見てはおらず、ただひとり、荷車の上に座る老人のほうへと注がれていた。蒼色の眸に一瞬ふっと切ないような、何かをいとおしむような、不思議な色が宿る。けれどそれは、本当に一瞬のことで、次の瞬間にはルノはさらりと表情を消し、代わりに王女らしい鷹揚とした笑みを花色の唇に乗せた。
 王女は高慢そうに腕を組み、眸を眇めて老人を見つめる。

「――驚いた」

 その声は喧騒の中でもびっくりするくらいよく響いた。
 まるでひとりだけ声の質が違うようであった。

「生まれてはじめてギロチンが見られるというからとても楽しみにして来たのに、途中で足止めをされた挙句、そこで処刑される楽師がこんな地味な老人だったなんてね。しかも、この状況でも逃げ出す勇気もなくただぼうっと座っているだけ。驚いて、呆れちゃったわ。あなた、ギロチンが降りてきても、首がぼんやりしてなかなか空に飛んでいかないんじゃない?」

 くすくすと可愛らしく笑う声がさざめく。
 その頃にはあたりは静まり、やれ真珠だなんだと騒いでいた群衆も一様にぽかんと口を開けて、王女を見つめていた。護送兵たちもそれは同様である。
 周りの視線を一身に受けながら、王女はしかしそれらに気を止めた風でもなく、軽やかに橋から離れた。彼女が歩くと、誰ともなく道を開ける。ルノ=コークランはそうして老人の前へ立つと、薄く笑んだ。

「立ちなさい」

 そのとき頃合よく時計塔の鐘が鳴る。
 処刑が始まるはずの十二時であった。

「ちょうど十二時の鐘も鳴ったわ。処刑の時間――そうよね、イジュ」
「はい。予定では」

 ヘイズルの髪の従者がしおらしくうなずく。

「そう『予定』では。『予定』では、私はこのあとお芝居を見て、夜は王立教会のミサに向かう予定なのよ。聖歌隊の『ハリネズミと神の手』はとても好きな曲なの。冒頭のパイプオルガンの音律がすばらしいわ。今年の弾き手は有名なシルエル=カミラ。神の手と呼ばれる演奏はきっととっても素適なはずよ。――ねぇ、聞いている? 私は十二時に処刑が始まらないと困るのよ。一時や二時に始まったらお芝居が見に行けなくなるじゃない。とてもとても困るわ。そして、この私が困っているのだから、どうにかするべきだと思わない? ねぇイジュ」
「ええ。そう思います」

 ヘイズルの髪の従者はまたしおらしくうなずいた。
 その返事に満足した様子で王女はにっこりと花が綻ぶように微笑む。

「そうよね。第一、私が遅れてしまってはお芝居がかわいそうだわ。私が拍手を送らないお芝居など、一銅貨の見世物小屋ほどの価値もない。私が席につかないミサなら、乞食の話を聞いているほうがましよ。だって私はこの国の王女、ルノ=コークランだから」

 王女は胸に手を当てうっとりと呟いた。
 護送兵はぶるりと首をすくめる。

「――そこのあなた」

 そのときふと王女の蒼い眸が自分を捉えた。
 護送兵はぱちぱち目を瞬かせ、「私、ですか?」と自分の顔を指差してみたりする。

「そうよ、そこのとんまそうなお前よ」

 王女の言葉は手厳しかった。

「命令よ。そこの薄汚い楽師を橋の上から突き落としなさい」
「――は、」
「ふふ、さっきイジュが言っていたの。ここの水路はとぉっても深いんですって。足なんてまずつかなくて、昔この一帯で火事が起きてひとびとが次々飛び込んだときは、翌朝ぶくぶくに膨れた死体が浮かんで、まるで地獄絵図のようだったというの。私、ギロチンよりもそれが見てみたいわ。ねぇイジュ、いいでしょう?」
「ええ、もちろんですとも」

 ヘイズルの髪の従者は優しく、駄々っ子をいなす母親のようにうなずき、「――そのように」とこちらに向けて命じた。
 護送兵はしばし悩む。罪人の処刑に関わるようなことは本来大審院の決議を忠実に守るべきであった。でなければ自分が処罰をされるのも知っている。しかし今自分の目の前にいるのは王族と、彼女おつきの従者だ。ここで首を振ってもあとが怖い……。

「聞いているの? それともお前も一緒に川底に沈みたいのかしら」

 蒼い眸がふっと細まる。それは猫が獲物に狙いを定めたときに似ていた。
 ――そう感じたときには護送兵は首を振っていた。

「は! 無論聞いております、聞いておりました! いいいいいい今すぐにっ!」

 危うく舌を噛みそうになりながら何度も何度もうなずき、護送兵は荷車の上に座る楽師のほうへ駆け寄る。
 
「――姫」

 それまで黙って王女の言葉を聞いていた老人は、護送兵が荷車から引き立てるに至って、ぽつりと小さな声を漏らした。もう何日もひとと喋っていなかったひとのような、弱くかすれた声だった。

「怒ったのかい」
「いいえ」

 尋ねた楽師へ王女はきっぱり返す。
 意図のわからないやり取りに首を傾げるひとびとのかたわら、護送兵は楽師を橋の欄干に立たせ、従者を振り返った。従者がうなずく。刹那、王女はすっと息を吸ってこう言った。

「大好きよ」

 そして護送兵は欄干に立った老人の背を両手で押した。



 ばしゃんと水音が打ち鳴る。
 そのあまりの大きさに護送兵は身をすくめ、おそるおそる欄干から下を覗き込んだ。暗い川底からはぶくぶくと細かな泡がいくつも湧き上がっている。そして、まもなく、のっぺりした白い影が浮かび上がってきた。白い――ゴンドラの櫂。

「っうぅぅぅぅぅう心臓がぁ……」

 浮き上がった櫂を水際から引き上げた男がぎゅっと左胸を抑える。それからはっと姿勢を正してこちらを振り返った。ハリネズミのかぶりものがすっぽり顔を覆っているせいで、表情は見えない。ただ無機質な、つぶらな眸が爛と光って笑った気がした。水面に老人を乗せたゴンドラが一筋の航跡をすぅっと伸ばす。

「皆の衆、姫君、<ノースランドの宝>はいただいた! ハリネズミ祭万歳!」

 くぐもった声が宣言する。
 呆気に取られていた群衆は隣と顔を見合わせあったあと、――わぁぁぁぁぁと熱狂的な歓声を上げた。

「ハリネズミ祭万歳!」
「ハリネズミ祭万歳!」

 きらきらと陽光を反射した水面を切り裂いて、ゴンドラが進む。
 船影が次第小さくなって消えて行くまでをぽかんと見送ってしまってから、護送兵は大切な囚人を逃がしてしまったことに気付いて、くそっと欄干をこぶしで叩きつけた。

「急げ、逃亡者を追うぞ!」

 声を張り上げ、きびすを返す。だが、その頃にはあたりはすっかり群衆の興奮と歓喜の声に包まれており、誰もが「ハリネズミ祭万歳!」「ハリネズミ祭万歳!」と手を叩き合って、到底道を譲ってはくれなかった。
 
 どこの水路をどう逃げたのか、逃げた“ハリネズミ”は結局方々手を尽くしても見つからなかった。


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