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13




 夕刻を告げる教会の鐘が遠くで鳴った。
 石造りの町の壁を複雑に反響し、玲瓏なる音色を奏でる。

 広場からは遠く離れた、さびれた船着場に一層のゴンドラが着いたのは教会の鐘がちょうど最後のひと突きに震えるさなかだった。
 楽師を岸へ下ろすと、それじゃあ、とハリネズミのかぶりものを小脇に抱えてゴンドラーナがくすりと笑う。

「どうかお元気で。いつかまたお会いしましょう」
「あぁ。そのときには、きみの子どもたちにパンをご馳走できることを祈っているよ」

 子どもたち、とことさら強調して言ってやると、若き花婿は頬をうっすら染めてはにかんだ。

「ええ、……必ず!」

 強く岸を蹴る。
 弾みをつけたゴンドラが船着場を離れ、その勢いに乗って彼は櫓をひと漕ぎした。打ち寄せる波、闇に沈みこんだ川に細い水の尾が引かれていく。悠々と船を操るゴンドラーナの背中を頼もしく眺め、老人は深く頭を下げた。
 
 ゴンドラーナがナイフで縄を切ってくれたおかげで、手足はもう自由になっている。船が夕闇に消えていってしまうのを最後まで見届けると、老人は小さく嘆息し、きびすを返そうとした。――その刹那、カンテラの橙色の光が目に差す。老人は驚いて、思わず足を一歩引いた。けれど、光の方向から返ってきたのは、無害な、愛らしい笑い声だ。
 カンテラの灯りが少女の輪郭を浮かび上がらせる。
 暗闇ではうっすら発光しているかのように見える銀髪に、空色の眸。胸元を造花の薔薇で飾ったドレスの上には、彼女の華奢な身体つきには少し不似合いな、無骨な外套を着込んでいる。

「よかった。間に合って」

 どうやらここまで走ってきたらしい。
 ルノは弾んだ息を整え、こちらを仰いだ。

「あなたを見送りにきたの」
「芝居見物はよかったのかい?」
「あんなもの。侍女のヘラが見たいというからチケットをあげちゃったわ。でもミサは本当よ。『ハリネズミと神の手』は大好き。これから聞きに行くの」

 先ほど橋の上で見せた鷹揚な笑みはどこへやら、今老人の目の前にいるのは愛らしい十二歳の少女だ。老人がもしもこのような身でなかったら、彼女を喜ばせてやりたいと、ただそれだけのために『ハリネズミと神の手』を歌い始めただろう。

「このまま、大広場とは反対方向に進んでね。入り組んだ小路を出ると、一騎の馬車がある。話はうまくつけてあるから、それに乗って王都を抜け、他国へ向かってください。紺海の国あたりがいいかもしれない。私の友人が王をやっているのだけど、あたたかくて、綺麗な碧い蝶の舞う素敵な国よ」

 ルノの背後から心得た風に護衛官が進み出て、小さな袋と、毛皮の外套とを渡した。先ほどのヘイズルの髪の青年とは違ったが、この護衛官にも話はすでに通っているらしい。
 袋の口を開くと、銅貨が何枚もつまっているのが見えた。

「姫」

 とっさ老人は眉をしかめる。

「別にほどこしをしているわけじゃないわ。ずっと払い忘れていた紅茶とパンのお金よ」
「そんなものは……」
「受け取って。じゃないと私がイジュに怒られてしまうの。イジュったらひどいのよ。一度へそを曲げると、おやつを抜いて、紅茶も淹れてくれなくなっちゃうんだから。――だから、私のおやつと紅茶のためにあなたはお金を受け取らなくちゃいけないのよ」

 ルノはびしっと老人を指差し、花色の唇に策士の笑みを浮かべる。
 さすがの老人も二の句が継げなくなった。

「あなたという方は」

 苦笑し、銅貨のつまった袋を内ポケットにしまう。それから外套を腕にかけると、一歩下がり、ユグド国王女へ臣下の礼を取ろうとした。だが、それを遮るように口元に指先をあてがわれる。目を上げれば、ルノはにっこりと屈託なく微笑んだ。

 花色の唇がつと開き、微かな音階を紡ぐ。
 最初頼りなかったそれは、次第大きくなり、美しい旋律を夕方の船着場に響かせた。
 老人は息をのむ。
 それは、歌だった。
 詞(ことば)の失われた歌だった。
 親愛と敬意、感謝と祈りとをこめて。
 ありがとう、そしてさようなら。いつまでもお元気で。
 たくさんの想いとをこめて、世界樹の国の王女は歌う。

 老人は淡いブルーの眸を細める。
 それからおもむろに目頭を手で覆った。
 最愛の貴婦人を失ったときにも流されなかった涙がひとつふたつと彼の澄んだ眸から溢れ落ちる。伝い落ちる涙はやがて歌に変わる。
 つたない歌声と、老練した歌声は重なりあい、響きあい、今、ひとつの歌となった。




「ノースランド、ディスラ伯爵の楽師さま、ですね?」

 王女に言われたとおりの道すがらに見つけたのは、一騎の馬車とその前に立つひとりの青年だった。後ろで緩くくくったヘイズルの髪に、緑よりも少し淡い翠の眸、質素ではあったもののどことなく高貴な身なりをした青年は老人に気付くなり、物腰柔らかに会釈した。

「ルノさまからお話はうかがっております。さ、どうぞ中へ」

 馬車の扉を開け、老人を中へといざなう。
 上質なヴェルベットの座席は座ると、しなやかに跳ね返った。ステップを上がり、さらに青年が乗り込めば、心得た風に鞭のしなる音がして馬車が動き始める。細い石畳の道を馬車は駆けた。
 
 街から出る大門のところで一度止まり、役人に検査をされる。
 窓から不安げに役人に書状を渡す御者を見守っていると、大丈夫ですよ、と隣の青年が微笑んだ。
 
「目下、『下痢ぴぃぴぃの姫君のためにお忍びで薬草を買いに行く』、となっておりますので」

 何故理由をぴぃぴぃにしなければならなかったのか、なんぞ青年の怨念めいたものを感じたものの、老人は苦笑をするにとどめて、御者から受け取った書状にサインをしている役人へと視線をやった。壮年の役人の隣では、もうひとり、もっと若そうな男がインク壷を持って待機している。
 そのとき風が吹いたのか、深い蒼色をしたローブのフードがぱさりと落ちた。透き通った金糸の髪が星が瞬くみたいに零れ落ちる。

(ふふー、ご旅行ですか? おじいさん?)

 振り返った青年は、にんまり笑ってひらひら手を振った。
 窓硝子を隔てているので、くぐもった声しか聞こえない。

「いいですか?」

 イジュに目をやると、否とは言わなかったので、老人は窓を少し引き開ける。
 神学生の屈託のない顔がこちらを見上げた。

「シャルロ=カラマイ。お前までいったい何をしているんだ」
「えー? やだな。お小遣い稼ぎに街門警備の臨時日雇いをしているだけですよ。近頃はパイプの草が高い」

 同様の身なりで近くに立っていた青年にインク壷を渡してしまうと、シャルロ=カラマイは馬車の表面を物珍しげに手で撫ぜた。

「地味だけどいい樹を使ってるなぁ。さすが王族」
「……今日のは、お前の入れ知恵かね?」
「さぁ、何のお話でしょうか」

 青年は金色の眸を煌かせて嘯く。
 その眸に悪戯めいた色が乗っているのを見て、老人は確信を深めた。

「しらばっくれるんじゃない。いくらゴンドラーナといえど、このあたりの隠し水路にまで通じているのはお前くらいだろう」
「ふふふ、俺、アンダーグラウンドなお友達が多いからね。ご希望とあれば、隠し水路どころか、城の抜け道やら、地下通路まで教えてあげるよ。――だけど、入れ知恵という言い方はいささか心外だな。今日は我が友人のために動いただけのこと」
「友人とは光栄だね」

 少し笑い、老人は窓枠に腕を乗せた。
 青年の横顔を軽くのぞきこむ。

「私にディスラ伯爵夫妻とカロリナさまの訃報を知らせてくれたのはそういえばお前だったな」
「おや。ありましたっけ、そんなこと」
「ああ」

 逃げ道を断つように老人は深くうなずく。

「不思議に思っていたんだ。君みたいな男が何故そんなことを?」
「さぁね。ワタシみたいな男でも、せっかくできた友人を失くすのが少し惜しいと思ったのかもしれないね。……まぁその友人は、ワタクシめの好意を無碍にした挙句、囚われてしまった身勝手野郎ですけども」

 物腰柔らかな口調で毒を塗った刃を差し出される。
 青年の口元に薄く乗った笑みにひそむ意味に気付き、老人は困ったように頬をかいた。

 ――確かに、訃報を受け取って、すぐにユグド王都を脱出する道はあった。
 しかしそうはせず、ユグド王国の王兵に捕まるまで緩慢と時を過ごしたのは、どこかで主人たちに殉死したいと願う気持ちがあったからだ。遠い地で安穏とした日々を過ごしていた自分を恥じ、せめてもの償いに、その死に連れ添いたいと願った。けれど。

「最後にひとつ聞いてもいいかな。<ノースランドの宝>はさ、結局どこにいったの?」

 その声には彼らしい好奇心が含まれていた。
 シャルロ=カラマイは金色の眸を猫のように細めてこちらを見やる。
 老人は目を瞬かせ、やがておかしくなって笑った。

「――ここに」

 聖職者がそうするように胸に手をあてがう。
 青年は少し眉根を寄せた。

「家から何かを持ってくる暇はなかったように思うけど」
「もちろんだよ。だから、ここに、と言ったろう。ふふ、冴えていないなシャルロ=カラマイ。お前らしくもない」

 してやったりだと老人はほんのわずかばかりかの矜持に駆られ、苦笑を深めた。
 
「聞きはしなかったか。ノースランドの王城を開けたとき、城は空っぽ、宝どころか金貨一枚すらも見つからなかったと。あれが、真実なのだよ」
「……真実、ね?」
「ああ。我が友人にだけ、語ろう」

 寸秒、間をためて、老人は口を開く。

「――博識な君なら知ってるだろうが、ノースランドは北の寒い地方でね。南のように小麦も野菜もろくに育たなかった。ディスラ伯爵は飢えた農奴たちを救おうと、それまで築いた財産を切り崩して王都から小麦を買っていたのだよ。――宝など。本当にあったのなら、すぐにでも金に換えて小麦や、チーズ、牛乳や野菜を買っていたに違いない。私たちには何もなかった。一貴族であるというのに、食卓に載る料理は固いパンや、味の薄いスープばかりだった。けれど、それを皆で囲む幸せはよく知っていた。カロリナさまをはじめ、子どもたちは食後、紅茶を飲みながら暖炉の前で私の語る歌物語を聞くのが好きだった。私はそれまで旅してきたいろんな国の話を歌で語り聞かせたよ。
 すると、ある日ディスラ伯爵がこう言ったのだ。
『なぁさすらいの楽師よ。お前はたくさんの歌を語って聞かせてくれるが、我がノースランドの民や、この地で育つ花の馨りや、冷たいが春になると少しだけ柔らかくなる風、くすんだ蒼い空、そういったものもまた歌にしてはくれまいか』と。
 私は、すぐに歌を作ったよ。考えなくとも、次々に言葉と音が溢れ出てきた。そして歌い終わったとき、伯爵は言ったんだ。これが――」

 これがノースランドの宝であると。

「私はね、この小さなひとかけの宝を抱えて、ここに来た」

 どうだ、なかなかロマンチックだろう?
 そう言って微笑むと、シャルロ=カラマイは一瞬呆けた顔をしてみせたあと、ほどなくそれを苦笑に代えた。

「まるで言葉遊びだね。……欲に目がくらんだ者だけが見る幻か。まんまとしてやられたよ」
「なんだ、あわよくば宝を横取りするつもりだったのかい?」
「横取りとは口が悪い。ワタシは労働への正当な対価を――」

 言いかけたところで神学生は首をすくめる。
 その手が何かを紛らわせるように銀製の懐中時計をいじるのを老人は眺めた。
 やがてシャルロ=カラマイは開いた時計をぱちんと閉じる。

「――あっちで役人さんが呼んでる。どうやら出立の時間らしい。楽しかったけど、お喋りもおしまいだね」

 確認が終わったらしい。
 サインのなされた書状を御者に渡す役人を横目に見て、シャルロ=カラマイは馬車から数歩離れた。御者が鞭をしならせ、馬を動かす。それと一緒に神学生はぴっと十字を切ると、こちらに一礼し、蒼いローブを翻した。走り始めた馬車、それを待たずに歩き出した青年を目で追いかけながら、

「行くのか」

 そう尋ねると、

「行くのは、あなたでしょうよ。『さすらいの楽師よ』」

 青年は如才なく返し、にやりと笑う。
 それを最後に馬車が加速し、ほどなく夕暮れの薄闇の向こうに蒼いローブは埋もれて見えなくなった。
 老人は窓を閉める。ぱたん、という音とともにユグド王国の花の香混じりの風の匂いが消え、馬車の車輪の音も遠くなった。
 
 青く染まる世界樹とその頂に昇る星を一時見据えてから身体を戻し、老人はにわかに微笑む。

 ――そうだ、そうだった。
 行くのはわたし。いつだってこのわたし。
 
 ひとかけの宝を抱え、流れ流れて生きてゆく。
 数多と出会い、数多とすれ違いながら、生きて行く、生きて行く、私は旅人。

 楽師はのんびり窓にもたせかかり、歌を口ずさみ始めた。

 そして、私は旅に出る。
 寂しくなどないさ。
 幾千の歌が私にはあるから。
 吟遊詩人に定住は似合わない。


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