「従者殿」 別れ際に老人はブルーの眸を煌かせ、ひとつお伝えしたいことがあるのですが、と微笑んだ。 いちおう理由が理由であったので、下痢ぴぃぴぃの王女のためどっさり薬草を買い込んで王城に戻ってきたイジュが目にしたのは、窓の近くの椅子に腰をかけてぼんやり『乙女の愛の詩集』を読んでいる姫本人だった。 かつてイジュが読むよう勧めた書物である。 だが、花柄で彩られた詩集は上下が反対になっており、ついでにいうと、ルノの目は手元の本ではなく、遠い窓の外のほうへ向けられていた。あれからずっとこんな風なのです、と年を取った恰幅のいい侍従が扉の影からそっとイジュに耳打ちする。姫君はあれほど楽しみにしていたミサに参加したときも上の空といった風で、配られた楽譜を何度も落とすので、侍従はそれを拾い上げるのに苦心したらしい。 恒例の『抜け出し』もしていないようだった。 何せこれまで足繁く通っていたパン屋は今は長期休暇をとっており、扉には一枚張り紙があるだけだというのだからその心情は推してはかるべしであろう。 窓硝子に息を吹きかけ、白くなったそれに指でパンの絵を描き始めた王女を見て、はぁとイジュは大仰に息をつく。一度部屋を出ると、ミルクと砂糖とをたっぷり入れた紅茶を用意して戻ってくる。さらに、クリームのたっぷり載せられたフルーツケーキをテーブルに置くこととも忘れない。ケーキの真ん中にはチョコレートのプレートが挿してあり、そこには短い聖句が書かれていた。この国で、年に一度どの子どもにも等しく捧げられる聖句である。 「ルノさま。お茶の時間です」 イジュはこんこんとテーブルを叩き、ルノを呼ぶ。 それでもぼんやりしている少女から『乙女の愛の詩集』を抜き取り、上下を直して本棚に戻した。その間にしぶしぶといった、気乗りのしなさそうな顔でルノが席に着く。 「イジュ。私、お腹なんてすいてないわ」 「心配ありません。お腹がすいてくる魔法を用意しております」 イジュはくすりと微笑み、足元から大きなクマのぬいぐるみを取り出した。 その首には真紅のリボンが巻かれており、中央には大粒の宝石までついている。 「……何よこれ」 「クマでございます」 もうぬいぐるみで楽しむ歳でもあるまい。 胡乱げな顔をした王女にしかし無理やりクマの頭を押し付けてしまうと、イジュは同じくリボンのかかった書物を数冊テーブルに置き、さらには愛らしい小鳥の彫り物が乗ったオルゴール、百本は束ねられているのではないかという薔薇の花束、クレンツェ地方でしか作られない紺碧の硝子細工、しまいには銅像のたぐいまで次々と置いていった。あっという間にあたりにはルノの腕にはかかえられないほどのプレゼントの山ができる。小さな王女の身体は、色とりどりの包みに埋まってしまいそうである。 「そして、私からもひとつ」 イジュはこほん、とひとつ空咳をし、一歩後ろに下がった。 それから従者は歌い出す。不慣れな、つたない旋律をのせて。 この従者が歌を歌ったところなど、ルノは出会ってこの方見たことがない。 どんな気まぐれだろうかと、しばし呆気に取られていたルノだったが、そのうちそれが普段自分が口ずさんでいるメロディと同じであることに気付いた。 いったいいつの間に覚えたのだろう。 ほとりと首を傾げ、だが、そのあとに続いた言葉に目を見開く。 ――ことば。そう、歌詞がついているのだ。 ルノがどうしても思い出すことのできなかった歌詞。 風は歌う。 花は祝う。 その王国の名を。 そしてあなたの名を。 とこしえに。とこしなえに。 そうしてオルゴールの螺子がぷつんと切れたみたいに歌は終わった。 「あなたさまがお生まれになったときのことです」 目を瞠ったまま、口を開くことのできないルノのかたわらに膝をつき、イジュは囁く。 「とある伯爵お抱えの楽師があるじに言付かり、あなたさまの生誕を祝って捧げた歌なのですよ。その地は北の不毛の土地で、他の貴族たちのようにお金がなかった。だからこそ、この歌をあなたに捧げたのです」 淡い翠の眸がすぅっと甘くいとおしげに細められた。 「十三歳、おめでとうございます。ルノさま。我が姫」 それで、ルノはようやくこのプレゼントの山の意味を理解する。 すっかり忘れていた。忘れていたが、そういえばルノの生まれた日は終末祭の終わりの日のことだったのだ。たいそうめでたいと父である国王が喜んだその日は、神がお生まれになったとされる日と同日にあたる。 「どうか立派な姫君になってくださいませ」 柔らかな声で、イジュは続ける。 「それが私の、彼の、民の願い。この国があまねく幸せに包まれますよう。争いがなくなりますよう。ひとびとがひとりとして悲しみの涙を流すことがなきよう。――ルノさま。ノースランドの悲劇を忘れないでくださいませ、この先もずっと」 その眸がどこか切実な色を帯びていることにルノは気付いていた。 膝に置いたクマを下ろすと、ルノは青年に向かい合い、まっすぐその目を見つめた。 「――忘れないわ。約束する」 愁眉がふっと開かれる。 従者はまろんだ春風のように微笑み、王女の手の甲へ忠誠と誓いの口付けをひとつ落とした。 「そういえば、イジュ」 ケーキ皿はもうすっかり空になっている。 食後の少し苦めのミルクティーを味わいつつ、ルノはふと何か思い出したように顔を上げた。空いたケーキ皿を片付けていたイジュは「何でしょう?」と不思議そうに首を傾げる。 「今しがた知ったんだけど。――あなた、実は音痴だったのね?」 投げ放たれた一言に一瞬絶句してみてから、 「……皆にはナイショです」と従者は気まずげに空の向こうへと視線をそらした。
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