四章、空蝉



 十、


『はじめまして。お姫さま』

 出会いがしら、放たれたのは老帝の夜伽相手であった少女に対してはある意味、皮肉ともいえる呼称だった。ただ、青年の声には不思議と一分の棘もない。お姫さま、とやんわり呼んでみせた青年は少女に視線をあわせるようにしてかがみこみ、牢の格子の間からこちらへと右手を差し出した。
 その挙措が何を求めているのかわからず、少女はきょとんと眼前に差し出された手のひらを見つめ返す。けれど彼からすればこちらの反応のほうが思いもよらぬものであったらしい。

「そっか。きみは何にも知らないんだもんね」

 青年は少し悲しそうに呟くと、ただ少女の手をとった。軽く握って、それから離す。それきり、他の者たちのように暴力を振るうようなことはなく、また無理やり組み敷くわけでもない。

「よろしくね。これからたくさん、いろんなこと覚えていこうね」

 優しい囁きが耳元を撫ぜる。少女は空(くう)に浮いた手をまじまじと眺め、手のひらに残ったぬくもりを確かめるように五指をにぎにぎした。
 青年は名を縫(ぬい)、といった。老帝の夜伽であった桜の昼の間の世話係を命じられた青年である。そして、桜を最初に“ひと”として扱ってくれたひと。大切な、大切な、ひと。
 ――今はもういない。




 遠くで虫の声が鳴いている。
 湯船に身を沈め、桜はほぅと深く息をついた。背中まである長い髪は今は後ろで緩く結って上げられている。
 外に出て、驚いたことの五つ目か六つ目が、こんな風に大きな熱いお湯の中にひとは毎晩入らなければならないということだ。初めて入ったときはあまりの熱さに火傷(やけど)してしまうかと思ったし、少しも経たないうちにのぼせて倒れてしまった。宮中にいた頃は、濡れ布で身体を拭かれたり、たらい桶で髪を洗うことはあっても、湯船に全身を浸からせる、という習慣はなかったのだ。

 槐や梅の葉などの浮かべられた薬湯は疲れた身体に心地よい。ほのかな香りに誘われ、ゆるゆると瞼を閉じかけ、桜はぼんやりとした意識の中で水面でゆらめく琥珀の月を眺める。それは金色で埋め尽くされた宮中を桜に思い起こさせた。
 ここずっと繰り返し昔の夢ばかりを見る。そのたびにくるおしいまでの切なさが胸を覆ったり、何かが抜け落ちたような喪失感、寂しさ、恐怖といった感情のたぐいが溢れたりした。なんだかとても疲れてしまって、桜は泣き腫れた瞼を下ろす。
 ぬえ、と。男の声が耳奥で響いた。桜はそ、と己の肩に刻まれた焼印を指でなぞる。
 消えかけた薄紅のその文字を、ことさら愛でたのは、かの黒衣の男だった。後宮の夜伽たちは、老帝にお呼ばれされないときは、その子供たちの相手へとあてがわれたり、側近たちの情欲のはけ口にされていたりしていたけれど、桜を呼ぶのはひとりの男と決まっていた。黒衣に身を包む、銀髪の占術師。とてもとても美しい顔をしたそのひとは、けれどぞっとするほどに冷たい微笑い方をするひとで。褥に身体を組み敷いては、鵺、ぬえ、と知らない名前で桜を呼んだ。
 その男の腕から、肩にかけて刻まれた焼印の痕が目を焼きついて離れない。まるで自分と対をなすような、禍々しい焼き痕。

 ――逃げ出したいか。

 それもいい、と肩に刻まれた印に冷たい口付けを落としながら男は言った。どうせ逃げることはできないのだからと。決して、決して、決して。逃げることは、できない。逃げることは。決して。呪詛のように言葉を紡ぐ。

 桜はぎゅっと腕で肩を抱きしめると、目をつむった。



 紺地の千鳥の浴衣にきゅっと紅の帯を結び、桜は肩にかけた手ぬぐいでそ、と濡れ髪をぬぐう。風呂あがりのほてった身体に、夜風が涼しい。
 ぺたぺたと濡れ縁を歩きながら、簾のかかった軒から空を仰ぐと、琥珀色をした月が雲間に架かっているのが見えた。その金色から目をそらし、桜はまた歩き始める。
 
 自室の前までたどりつくと、手燭のあかりを足元に置く。障子戸を開けたまま、一度部屋の中に入って抽斗(ひきだし)の奥から銃を取り出した。それは、ただひとつの武器。非力な桜にとってはたったひとつの。桜は銃を持って濡れ縁に出ると、板敷きに座り込む。構え、撃鉄を起こした。
 庭は今は背の高い雑草が鬱蒼と茂っていて、青葉闇の影では蛙がうるさく鳴き立てている。風にそよめく卯の実の背後には、空に向けて大きく枝を伸ばす花柚子の樹。その幹に、わらを束ね端をとめて人がたを模したものがくくりつけられていた。
 夜風が吹いて、手元の蜜蝋にともる炎がゆらりと揺れる。桜は人がたを見据えると、引き金を引く。ぱんと乾いた銃声が唸り、次の瞬間的のわずか左を射抜いた。もう一撃。次は寸分違いなく的の中心を射る。

「おお」

 不意に、感心したような感じの声が背後からした。

「ふぅん、意外とうまいんだ? びっくりした」

 銃口を下げて、桜が振り返ると、賛辞ともつかぬ言葉が微笑まじりに呟かれる。射し込む月光が暗闇から少年の姿を青白く浮かび上がらせた。いつの間にやらすぐそば近くまできていた雪瀬はひょいと桜の隣に座り込む。
 
「そんな練習熱心な桜さんに、はい、おみやげ」

 つ、と頭に何がしかをのせられた。
 桜は目を瞬かせてから、それが落ちてしまう前に、あわてて手で受け取る。笹の葉に包まれたそれはこぶしほどの大きさの筒だった。何だろうと思って問いたげな視線を上げると、開けてみ、と相手が促す。
 紐を解き、がさごそと笹の葉を開くと、小さな竹筒のようなものが入っていた。そろそろとふたを開ける。中を満たしていたのは、透明な色をした寒天。黒蜜がたっぷりかかり、煮あんずや色とりどりのぎゅうひ、それからひとつ、赤く色づいた桜桃が添えられている。
 
 あまりにも綺麗なかたちをしていたので、眺めて楽しむものかと思っていたら、雪瀬が一緒についていた匙で寒天をひとつ、すくいとってこちらの口元に差し出した。

「ドーゾ、“お姫さま”」

 ――“お姫さま”。奇しくも縫とおんなじ言い方だった。
 なされるがままに口に含むと、黒糖の独特の甘さが口の中に広がる。咀嚼してこくんとのみこみ、

「……あまい」

 と呟いた。ほんの少し考え込んでから「おいしい」と、胸のうちの気持ちが自然零れ落ちるように、淡く微笑う。彼はひとつ眸を瞬かせたあと、何かをまぎらわせるような微苦笑を口元に滲ませた。

「そう。おいしいの?」
「ん」

 こっくりうなずき、匙で運んでもらえるのを待っていると、「ほんと、どこかの雛鳥みたいだよなぁ」と雪瀬は煮あんずをすくいあげた。こちらの口の中にそれを入れると、あとは自分で食べなさい、と匙から手を離す。
 少しばかりがっかりしつつ、桜はそれでも気を取り直して、寒天の上に添えられた黒餡を匙で崩しにかかる。

 風にさわさわと夏草が揺れる。
 蛙がまた鳴き始める。

 桜は匙を動かすことに必死で、雪瀬は別段それを邪魔するわけでもなく、立てた膝に頬杖をつきながら遠くを眺めていたから、自然ふたりの間には緩やかな沈黙がたゆとうた。けれど、別に何を話すわけでもなく、側にいるだけで静かに、穏やかに流れていくこの時間が桜は嫌いではなくて。沈黙は沈黙だが、重苦しくはない。むしろ心地よい。ささくれだつ気持ちも、不安も、そっと流しやってしまうような。桜は雪瀬といるとき流れる時間がとても、とても好きだった。

「……ありがとう。これ、」
「うん、どういたしまして」
 
 ようやく思い至っておずおずと口を開けば、相手が微笑を含んだ声音で返す。 おいで、と手招きされ、桜が少しばかり距離を詰めると、雪瀬は桜の肩にかかった手ぬぐいをとって、風呂上りの濡れ髪を拭いてくれる。はらはらと毛先に宿った雫が散る。ゆっくりかき回すように髪を拭かれた。
 背中に触れた少年の温もりに安堵し、その心地よさに身をゆだねながら、桜は睫毛を伏せた。
 たいせつなたいせつなひと。
 ずっと、ずっと、そばにいたい。この温もりをうしないたく、ない。