四章、空蝉
十一、
とん、と微かな重みがこちらにもたせかかってくる。
「桜?」
髪を拭いてやっていた手ぬぐいを取って、少女をうかがえば、返事の代わりにすやすやと平和そうな寝息が返された。おなかがいっぱいになったからか、はたまた疲れていたからか、そのまま寝入ってしまったらしい。本当に、雛鳥というか、まだ幼子のような少女である。
ほとと呆れてしまってから、まぁそれもそうか、と思い直す。彼女はまだ外の世界に出て半年も経っていないのだから。人間で言うなら、乳飲み子がようやく這い這いを始めたくらいである。そう考え合わせてみれば、彼女の物事の吸収ぶりは目覚ましいものがあるともいえた。今はまだつたない言葉遣いやぎこちない所作が目立っているけれど、それもそのうち自然になるに違いない。最初に拾ったときは人形そのものようだった彼女がどのように変わっていくのか。そんな風に未来(さき)のことへ思いを馳せるのは、少し楽しかった。
雪瀬は桜の身体を抱え上げ、部屋に敷かれていた布団に下ろす。癖なのか、大きな布団の上でもころんと小さく丸まってしまう少女に苦笑し、畳まれていたかけ布団を引きやった。
「――なに?」
不意に雪瀬は笑みを消し、背後へと言葉を投げかける。少女に布団をかけ終えると、雪瀬は半開きの障子戸に映った人影を振り返った。その独特の姿は影であっても十分誰だか判別ができてしまう。
雪瀬は部屋を出て、障子戸を後ろ手に閉める。横目をやると、墨色の袖に手を入れて組むようにしていた男が喉に引っかかるような笑みを漏らし、短い首をすくめた。
「いえね。うちの人形をしっかり世話してやってくれているみたいで安心していた、といったところかね」
「あぁそう。ドウイタシマシテ。おやすみ」
「――っと、おいおい、ちょっと待てよ。つれねぇなぁ」
脇を通り過ぎようとすると、空蝉はぱっと腕を解いてこちらの袖を引っつかむ。露骨に眉をひそめてやるも、男はさして意に介さない様子で下卑た笑いを顔に貼り付けた。
「ふふん。なぁお前、黎という男を探し回っているそうじゃねぇか」
雪瀬はひとつ眸を瞬いた。いったいその話をどこで聞きつけたというのか。男は腕を組んで、少し首を傾けるようにしてこちらの顔を覗き込む。
「――奴とのご関係は?」
「あなたの質問に答えなきゃならない理由が見つからない」
「俺の個人的興味でね。一介の豪族の庶子と、伝説の暗殺者にどんな繋がりがあるのか、気になるんだ」
「答えたら、何か、教えてくれる?」
小さく微笑って、雪瀬は反対に男を眺め下ろす。空蝉はほぅと息をつき、にやりと黄色い歯を見せて嗤った。
「小賢しい餓鬼だ」
「あいにくと性分でして」
「そりゃあいい。もってけ泥棒、教えてやる。黎の現在の居場所だがな、――お前の兄が知ってるぞ」
「颯音、兄?」
「奴だけじゃない。五條の嬢ちゃんも、蕪木の坊主も、あの“砂”野郎もおそらくは知っている。知らないのは、お前だけだ」
「……どういうこと?」
「さぁねぇ。ちなみに俺も知っているぜー? 沙羅もな。何せ、あの野郎がいるのはこの国一有名な場所なんだからよぅ?」
なぞかけのように言って、にやにやと男は意地悪く嗤う。
有名な場所? いったい、どこだ?
雪瀬は黙考する。寺社。遺跡。……遺跡は違うよな。港。城跡。一向に浮かばない。しかも、颯音だけでなく、薫衣も透一も真砂すら知っているってどういうことだ。
「ま。のんびりと考えるこったな」
口元を手で覆ったまま、考え込んでしまったこちらを嘲るように見やって、空蝉はひらひらと手を振ってきびすを返す。
「……従兄」
その背にぽつりと雪瀬は呟いた。
「あ?」
「従兄だよ、俺が手にかけたの」
「……ほー。そりゃあびっくり仰天でございますな」
おどけて肩をすくめた男から空へと視線を移し、雪瀬は淡然と続ける。
「五年前にね、いろんないきさつがあって、従兄を討った刀を黎に取られたんだ。だから、俺は奴を探してる」
「従兄の血を浴びた刀を取り返すために?」
「そう、取り返すために」
「常人の行動とは思えねぇ。狂気の沙汰だな」
「正気を持ってなさそうなひとに言われても説得力がない」
「はっ、違いねぇ」
空蝉はおかしそうに肩を震わせて嗤った。紫の眸をすがめて探るようにこちらをうかがう。
「どこまでつかんだ?」
「四年前、黎がヨドリってひとを探して都に入ったってところまで」
「ほーう。ヨドリ、ね」
男は腕を組み、意味深にうなずく。
「ひとつ。奴にたどりつく最短の方法があるぞ」
「方法?」
「ああ至極簡単なことだ。お前の可愛がっている“薄紅の花”の左肩を暴け。そうすりゃすぐにわかる」
つい、と障子戸の向こうを指し示し、男は言った。雪瀬は眉をひそめる。どういう意味だ、と問おうとすれば、空蝉は己の口にひとさし指を当ててにまりと笑い、
「じゃあな。おやすみさん」
と足を返した。
*
その翌日、例の賭博場へもう一度足を運んだ。
だが、扉の前には昨日のように頭のへこんだ男の姿がなく。代わりに紙が一枚貼られてあり、ただ“閉鎖します”とだけ書かれていた。
雪瀬は立て付けの悪い扉を開けて、室内を見回す。
煎じ煙草の臭いがまだ色濃く残るその部屋にすでに人気はない。さいころも壷もそのまま置き忘れてしまったかのようにござの上に無造作に転がっていた。
「――昨晩、中央兵に取り締まられたんだそうだ。その場に居合わせなくてついていたな」
肩に止まった扇がしみじみと呟いた。雪瀬は深く息をつく。
正面の壁に乱れ散った血痕がにわかに不穏な予感をさざめき立たせた。
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