四章、空蝉



 十二、


「よかったね、雪瀬。明日から、毬街の高級宿にお泊りだよ」

 かぽーん、と添水(そうず)の竹が間の抜けた音を立てる。外とは違い、冷えた空気の立ちこめる部屋の中を夏の生暖かい風が通り過ぎていった。

「こうきゅーやど?」
「そう」

 目を瞬かせて尋ねた雪瀬へ、手元の草紙に視線を落としながら颯音が答える。

「毬街の臙井地区にある旅籠でね。翠楼っていう。十畳、朝餉・夕餉・お風呂つき。いいでしょう?」
「や、」
「温泉はないけど、所望すれば薬湯にもしてくれるっていうし、」
「ちょ、」
「ごはんもお墨付きだし。海に近いからね、海の幸がたくさん食べれるよ。で、さっそく明日の朝にでも立って欲しいんだけども、」
「ちょっと待った。待って」

 突然呼びつけられ、兄の私室に出向くや否や、まず放たれたのが最初の一言。あれよあれよという間にどんどん話が進んでしまい、雪瀬はこの暴走馬がごとき兄を止めるべく片手を挙げる。きょとんとして本から顔を上げた兄に詰め寄った。

「どゆこと? 何で俺が高級宿にお泊りに行くことになってるの?」
「雪瀬が大好きな葛切りもあるよ」
「行く。――じゃなくて。理由教えて、リユー」

 葛切りかぁいいなぁ黒蜜かなぁ白蜜かなぁ、と明後日の方向に行きそうになる思考を理性で抑えつけつつ、雪瀬は根気よく繰り返す。まったく仕方ないなといった風に颯音は肩をすくめた。まさか葛切りくらいで雪瀬の意識がそれると真面目に思っていたのだろうか。一瞬それたが。

「だからね。雪瀬は空蝉さんの護衛なわけでしょう? 護衛なら形だけでも護衛のお仕事してもらわないと」
「……つまりまとめると、高級宿にお泊りするのが護衛の仕事ってこと?」
「そうなるねぇ」
「――颯音兄」
「そう慌てない。今から説明するから」

 ぱたん、と草紙を閉じると、颯音は肩から落ちかけた紺地の夏羽織を引き寄せてこちらに向き直った。

「この前長老会でも話したよね。月詠は今空蝉を血眼になって探しているはず。だから俺たちはあちら側に偽の情報を流しておびき出し、そこを討つ」
「聞いた。でもそれとこれとどういう関係があるわけ?」
「話はみなまで聞くものだよ、雪瀬。……ちゃんと教えたはずなのに、忘れちゃったのかな」

 最後のあたりは独語っぽく呟き、颯音は苦笑する。確かに話はきちんと最後まで聞け、というのは兄の教えだったが、同時に誰の言葉であろうと疑ってかかれというのも兄の教えだったのだから仕方ない。――雪瀬というのはその実、かなり兄の目論見通りに育ってしまっていた。
 俺が心配しているのはね、と颯音が口を開いた。

「月詠が“葛ヶ原に空蝉が匿われている”ことを感づいていたら、ってことなの。関所に兵を置いているし、問題ないとは思うけれど、少し不安の種は残る。だから念には念を、空蝉さんは俺たち一門しか知らない別の場所に移してしまおう、という腹なのですよ」
「――……それが高級宿ってわけ」
「その通り。暁やあと数人、目立たないように護衛をつけるけど、もしものときは雪瀬もよろしくね。それから、移動の際には人目につかないように」
「よろしくってさぁ……」
「おや? やってくれない?」
 
 次々と命令を与えられた上、極めつけにはその台詞だ。雪瀬は挑発にはてんで乗らないたちなのだが、一方で頼まれごとにはとても弱い。見抜かれている。と、気づいてはいるのだが、さりとてどうしようもない。

「……わかった」

 目を伏せてしぶしぶといった風にうなずくと、よかった、と小さく微笑う気配がした。手招きされて少し距離を詰めれば、くしゃくしゃと子供にでもするように髪をかき回された。頼んだよ、と微笑を含んだ穏やかな声音が落ちる。――珍しい、とその場に扇あたりがいたら目を丸くするかもしれない。頭に手を置かれても、雪瀬はむぅっとした表情のまま、でもよく手なづけられた猫のごとく静かにしている。普段はそんなことはない。幼子扱いされたら普通に嫌がる。だけども、颯音というのは雪瀬にとって兄ではなく、親のようなものなのだ。物心つかないうちに雲の上のひととなってしまった母、その母を懐かしむあまり残された子供たちに見向きもしなかった父、そんな彼らの代わりに自分をずっと育ててくれたのが兄なので。抱いている感情はもはや親に向けるものに近い。優しい母親であり、厳格な父親だ。

「あのさ、颯音兄。……俺に隠し事とかしてないよね?」
「かくしごと?」

 視線は手元に落としたまま、雪瀬は少しためらいがちに口を開く。

「たとえば、黎のこと、とか」
「――……お前はまだ、そんなこと言ってるの」

 ふと呆れ返ったような息がつかれた。頭にあった手が離される。雪瀬は膝元に乗せた手に少し力をこめて顔を上げた。

「“まだ”じゃない」
「そうかな。まだ、でしょう。もう五年も前のことなのだから。――雪瀬。あの男への執着は身を滅ぼすよ」

 それは兄なりの忠言だったが、雪瀬は違う意味にとった。

「やっぱり何か知ってるんだ」
「――ねぇ、それ誰に聞いたの」
「俺の質問のほうが先。黎、生きてるんだろう? なぁあいつどこにいるの? 颯音兄知ってるの?」
「教えたら、どうするの」
「捕まえて刀を取り返す」
「刀、ねぇ。彼はすぐに返してくれるなんてたまかな」
「なら、奪い返すまで」
「ふぅん。そう」

 颯音は淡白にうなずくと、脇息にほとと肘を乗せた。頬杖をつきながら、赤い夕空を仰ぐ。

「知らないよ。黎のことはなぁんにも」

 返された言葉に、雪瀬は少し顔をしかめる。わざとらしいはぐらし方だ。しばし物言いたげに兄を見つめているも、あちらのほうが視線をあわせてくれることはなく。こうなった颯音に口を割らせることはほぼ不可能といっていい。雪瀬は憮然となる。悶々とした胸のうちを抑え、無言で腰を上げた。

「雪瀬」

 きびすを返そうとすれば、背中にふと声が投げかけられる。

「空蝉をきちんと見張っているように」
「見張る? 守るじゃなく?」
「杞憂で済めばいいけれど。あの男、何か企んでるよ。こちらに泣きついてただ守ってもらうような可愛い男じゃない」

 厳然とした言葉に引かれてつと背後を振り返る。兄はゆるりと鷹揚に微笑って、頼んだよ、ともう一度告げた。