四章、空蝉



 十三、


 風に揺れる花々は残照を受けて、赤々と燃えるような色に染まっている。桜は手桶を地面に置くと、花の根元の乾いた土へ柄杓で水をかけていく。雫を宿した花弁は赤い光を受けて、艶やかな色を帯びた。

 夏の暑い日は朝と夕と一日二回、水遣りをしなければならない。普通のひとならば若干面倒がる花の世話を桜はいまだ楽しげに続けていた。ものを育てるというのがどうやら桜は好きであるらしい。
 朝、花に水をやるため、明け六ツにはきちんと起きるように心がけているうちに、朝起きて夜眠るという生活にもだんだん身体が慣れていった。夜伽であった桜はこれまで十数年間、夜に起きて朝眠るというひととは完全に逆転した生活を送っていたのである。

 都草、若紫、竜胆、梅笠草。ひとつひとつ名前を言えるようになった花々へ桜は丁寧に水やりをしていく。と、水をすくおうとした柄杓が桶の底についてしまった。中をのぞくと、桶はからっぽになってしまっている。桜は柄杓を手桶に入れると、取っ手をつかんで井戸端へ向かった。

 庭から井戸まではかなり距離がある。
 屋敷の棟をいくつか越えて、いくらか迷いそうになりながら桜は葉の生い茂っている夕顔の棚から顔を出す。木の葉の影になった場所に小さな井戸があり、そのふちに腰掛ける人影が見えた。夕光の中、長い影法師がそのひとの足元から伸びている。
 きよせ、と彼の名前を呼ぼうとして、桜はほんの少しためらった。少年のまとう空気がどこかいつもと違うような、そんなかんじがしたのだ。思案げというか、どこか研ぎ澄まされた冷たさのようなものがある。

 甘くくゆる夕顔の前で足を止めたまま、桜がぼんやりと彼の姿を眺めていると、ふとあちらが顔を上げた。

「桜」

 表情という表情がなかった顔にほどなく淡い苦笑が口元に載せられ、「何してるの?」と柔らかな声が尋ねる。そのときにはすでに先ほどの空気は消え去っていて、桜は少し不思議な気分になった。からの桶の中に入った柄杓をかちゃかちゃ揺らしながら、雪瀬のもとに駆け寄る。
 
「あのね。水やり、してた」

 軽く息を弾ませながら、そう告げる。桶を地面に置き、額にじんわり滲んだ汗をぬぐっていると、「ご苦労さま」と雪瀬は手桶へと視線を落としながら言って、袂から一枚の符を取り出した。何がしか、聞き取れなかったが、短い言葉が紡がれ、符がじじ……と端から空に融けいる。刹那、さやかなる風が吹いて、ふわりと前髪をまきあげた。火照った頬を撫ぜるひんやりした風はとても気持ちいい。桜が目を細めていると、ぱたりとそれを見計らったように風がやむ。

「それ、」
「面白いでしょ。風術師じゃなくても風が使える符」
「そんなの、あるんだ」

 感心してうなずく。そういえば、以前、葛ヶ原から抜け出すときにも雪瀬はこれで風を出していたような気がした。あのときは今のような微風ではなく、もっと強い風だったけれど。
 雪瀬が取り出してみせた符を桜は少し身をかがめて眺めやった。手のひらにおさまる程度の縦長の紙には墨で何か、文字のようなものが書いてある。

「なんて書いてあるの?」
「んー、なんだろ。昔の言葉だから俺もよくわからないんだけど。これが命令を表す動詞だったはずだから風を出せとかそんなのかなぁ」

 ドーシ? どーし、ってなんだろう、と考えながら、桜は雪瀬が指した文字を指でなぞる。紙に文字が描かれているだけで本当にそのとおりになってしまうのだから、考えみれば、なんだか不思議だ。

「さっきね、颯音兄からもらった。“もしも”のときのために」

 もしも?、と桜は小首をかしげた。そうもしも、と繰り返し、雪瀬は何かを考えるように夕空を仰ぐ。つられて桜も頭上へと視線をやった。真っ赤に染まった空には鮮やかな彩雲がたなびき、刻一刻と彼方へと流されていく。上空は風が強いのだろうか。

「桜」

 はっきりと名を呼ばれ、桜は少年のほうへ目を戻した。

「俺たちはこれから少しの間毬街に行くことになるんだけど。桜は来る?」
「うん」
「……即答だね」

 苦笑され、桜は“そくとう”はいけなかっただろうかと考える。だって雪瀬の行くところならどこだって、桜はついていきたい。そんなこと、迷うまでもない。
 そっか、と微笑む少年に、うん、と桜はうなずく。それから足元の手桶へと視線を落とし、底に落ちていた夕顔の花を見つけた。先ほど足を止めていたときに落ちた花が入ってしまったのだろうか。拾い上げたそれをしばらく持て余してから、桜は井戸端に座る少年へそっと差し出す。

「……くれるの?」
「うん。さっき雪瀬、しおれて? ……たから、」
「萎れてって」

 それ基本的に人間には使わないよ、と言い、雪瀬は白く綻んだ花を受け取った。ふにゃふにゃした花弁は水で濡れていた。もしかしてあんまりよくないものをあげてしまったのかもしれない、と思って、

「や、」

 やっぱり、と桜は雪瀬の手から夕顔を取り返そうとした。だが、その前にすいと髪の房を取って引かれる。おもむろに伸ばされた手が桜の髪をかきやって、持っていた花を乗せた。

「うん、似合う。かわいい」

 髪に指を絡めながら、微笑まれる。桜は目を瞬かせてから声を失い、ぎこちない所作で俯いた。さっき風で冷ましてもらったはずなのに身体が熱い。
 雪瀬はわかってないんだ。与えられる言葉ひとつで、差し伸べられる手ひとつで、桜の世界が色を変え、形を変えるのだということ。全然わかってないんだ、とふんわりくゆった夕顔の甘い香に少し落ち着かなくなりながら桜は思った。







「さっき橘颯音から話があった」
「何と?」
「曰く、念には念を入れて、毬街の旅籠に移るように、だとよ」

 空蝉は薄く笑うと、白磁の徳利瓶を傾ける。同じく白磁の盃に、安い濁り酒が注がれていく。
 三つ編みを梳いて、そこに櫛を通していた少女は男を振り返り、「あら」と意外そうに眉を上げた。

「ずいぶんと真面目にこちらを考えてくださるのね、橘のご領主は」
「ふん。あいつぁ食わせ者だぜ。しかも相当の。屋敷の中でも外でもさりげなくひとを置いて、俺が変な行動を取らねぇか見張らせてる」
「何せ、老帝の首に斬りつけた男ですからね。並みの度量ではありますまい」
「ま。俺としてはその弟のほうが幾分興味深いがな」
「……橘雪瀬、ですか」
「ああ。アレは、なかなかに面白い」

 いったい腹のうちでどのような企みごとをしているのか、空蝉は愉快げにほくそ笑む。障子戸から射し込む月光が少女の銀髪を弾いて、目にまばゆい。くしくもその色は、黒衣の占術師と同じ髪色だった。
 空蝉は酒をぐいとのみほすと、少女の身体を引き寄せた。三つ編みの癖が残り、緩く波打つ沙羅の髪を指でいじって遊ぶ。

「何にせよ、こっからが本番だ。橘颯音が滞りなく黒衣の占術師を討てれば、問題なし。だがもしも相成らずの時は、――こちらとて切り札を使わせてもらうしかねぇなぁ」

 淡紫の眸が異様なきらめきを宿して光った。沙羅はほんの少し身をすくめ、長い睫毛を伏せる。

「切り札、ですか」
「そう、すべてを制すのはこの俺だ」

 空蝉は目をすがめ、盃に満たされた酒を飲みほした。