四章、空蝉



 十四、


 毬街への移動には、駕籠(かご)が使われた。
 桜は見るのも乗るのも初めてであったのだが、四方の柱が竹でできた簡素な駕籠には一本の太い木が通されていて、見た目は何やら物干し竿に吊るされた祠、というかんじだ。乗り込むと、その両端を屈強な男が肩に担ぎ上げ、運んでいってくれるらしい。
 空蝉はともかく、桜はいつものように歩いて移動するつもりだったのだけど、今回は“お忍び”で旅籠まで向かわなければならないのでだめなのだと言われた。

 葛ヶ原の関所を出ると、そこにはすでに人数分の駕籠と人足(にんそく)が揃っていた。雪瀬が小さな袋のようなものを渡し、行き場所を告げれば、大男たちは恭しく頭を下げる。
 促されるがままに桜も駕籠に乗り込む。 
 中はひとがひとり座れるくらいで狭く、座り心地も悪い。ほどなく足元が浮くような感覚があり、駕籠が持ち上げられたことがわかった。

 駕籠と聞いて、なんとはなしに歩くよりは楽なのかな、と思っていたのだが、しかしそれはほんの半刻足らずで大きな間違いであったことに桜は気づかされるはめになった。
 夏の熱気がこもった駕籠の中は息苦しく、おまけにふたりの男が肩に担いで運ぶため、振動がひどい。天井から垂らされた紐に一生懸命しがみついているのだけど、少しもしないうちに気持ちが悪くなってしまった。

 胸の辺りに重くのしかかるような不快感があり、駕籠の中にこもった熱気とあいまって次第頭がぼんやりしてくる。おろして、と言いたいが、そんなことを口にしたら迷惑がかかってしまうかもしれないし、雪瀬のことだ、そのまま葛ヶ原に返されるか、瀬々木の元へ送られるかされてしまいそうで怖い。それは嫌だ。
 桜は口元を押さえ、必死に吐き気を耐えようとした。だいじょうぶ、だいじょうぶ、と心の中で念じる。行く前に数刻もかからない道のりだと雪瀬が言っていた。朝に出たのだから、少なくとも昼過ぎには旅籠のほうへ着くはずだ。だからきっとあとちょっと。
 そう言い聞かせながらも、胃のあたりを取り出され、ぐるんぐるんとお手玉遊びされているかのような感覚にさすが耐え切れなくなってくる。細く息をつき、紐を握る手にほてりと額を乗せた。

「――…くら……ま…」

 意識の遠くで呼び声のようなものが聞こえ、桜は顔を少しずらした。最初、水膜で隔てられたかのように聞きにくかった声は、徐々に鮮明に、はっきりとしてくる。

「桜さま」

 簾が開けられ、ひんやりとした風が流れ込む。いつのまにか振動は止まっていた。駕籠が地面に降ろされていたらしい。大丈夫ですか、と顔を覗き込んできた青年にうなずこうとするも、その前に額に大きな手があてがわれる。

「熱気にあてられてしまいましたかね」

 そんな独語が聞こえたかと思うと、青年の腕が支えやるように桜の身体を駕籠から引き出す。

「へいき……、へい……」

 大丈夫だから、平気だから、帰れなんて言わないで、と。そう思うのだけど、ほとんどかすれるような吐息しか口にすることはできなくて。そのうちに目の前が暗転し、意識も途切れて落ちた。







 そよそよと微風が頬を撫ぜる。
 春の花の香まじりの優しい風、夏の雨上がりの草の吐息のような。
 きもちいいな、とぼんやり考える。風は好きだ。
 風は優しく、時に厳しく、何者よりも自由で、しなやかで、強くて。風の音が好きだ。風を身体に受けるのが好きだ。どこか遠い遠い場所へ連れて行ってくれるような、そんな風が桜は好きだった。

 頬にかかった髪をふわりと風がまきあげる。桜は閉じ入っていた睫毛を震わせ、うっすら眸を開いた。
 最初に目に飛び込んできたのは、番傘の鮮烈な赤。そこに落ちた木漏れ日の影だ。少し視線をずらすと、身を横たえた桜のかたわらに腰掛け、団扇(うちわ)ではたはたとあおいでくれている青年の姿を見つける。

「あか、つき?」

 少しかすれた声で青年の名を呼べば、通りのほうへ視線を向けていた暁はつとこちらを振り返り、ほっとした様子で相好を崩した。

「お目覚めになられましたか」
「私、」
「あ、動いちゃだめです。少し熱気にあてられてしまったようなので」

 ぱっと身を起こそうとした桜を青年が制し、背に手を回してゆっくりと半身を起こすのを手伝ってくれる。あたりを見回してみると、どうやらここは通りの片隅にある水茶屋のようなところで、桜はそこの縁台に寝かされていたらしい。
 どうぞ、と暁が差し出した竹筒を受け取る。

「薄荷水です。すっきりすると思いますよ」

 筒を開けて、促されるがまま乾いた喉に水を流し込む。ほのか薬草にも似た香りのする水は暁の言ったとおり、胸のむかつきをすっと晴らしてくれた。濡らした手ぬぐいを渡され、それを頬にあてがう。先ほどは気づかなかったが、身体は熱く火照り、嫌な汗がぐっしょりと背中に張り付いていた。すごく気持ち悪い。眉をひそめ、手ぬぐいで身体をぬぐうようにする。

「今日はかなり暑かったですからね。駕籠に連れ添って歩いていまして、桜さまは平気だろうかと心配していたんです」
「……雪瀬は?」
「先に行っていただきました。空蝉さまや沙羅さまも」
 
 置いてかれてしまったんだ、ということを理解し、桜はしゅんと顔を俯かせた。どうして桜だけ途中で具合が悪くなってしまったんだろう。皆と同じようにただ駕籠に乗っていただけなのに。思うようにならない自分の身体が歯がゆい。

「仕方ないですよ。桜さまは女子ですし、駕籠に乗ったことだって初めてでしょうし。あれはね、ちゃんと酔わないコツというのもあるんですよ」
「ほんとに?」
「ええ。今度教えて差し上げます」
 
 暁は人差し指をそっと突き立てて微笑んだ。つられて桜はほんの少し表情を緩める。両手で持った竹筒からもう一口、薄荷水を飲んだ。

「少し休んだら、旅籠のほうに向かいましょう。あと半刻くらいの道のりですから」
「……うん」

 なだめるように言われ、ひとまず帰されてしまわなかったことにこっそり安堵する。ぜんぶ、この優しい青年のおかげだ。桜は考え込み、ついと彼の袖端を引いた。胸の中の気持ちを伝えたいのだけど、なんと言ったらよいのかわからない。物言いたげな表情のまま、口を閉ざしてしまうと、暁はにっこり笑って、

「早く追いつきましょうね。雪瀬さまも心配しておられるはずですから」

 と言った。
 基本的に淡白というか、落ち着いているというか、何かに感情を揺らすことが少なそうな雪瀬が桜の心配をしてくれるようにはとても思えなかったけれど。はやく追いつきたい、と思って桜はこっくりうなずいた。







「桜は?」
「なんか途中で倒れちゃったんだって」

 雪瀬が答えると、「なんかって大丈夫なのか?」と扇は険しい表情になる。

「暁が診てるから、たぶん」
「お前がついていてやればいいものを」
「残念ながら、俺は一応アレの護衛なのですよ」

 はぁーと深いため息をつき、雪瀬は旅籠の中へと入っていく空蝉と沙羅を眺める。ほぼ肩書きだけの護衛であるが、やはり一時でも空蝉を目の届かない場所に置いてしまうのはよくない。
 それに、空蝉を見張れ、との颯音の言葉も気になる。今のところはこれといって目立った動きをしているようには見えなかったが。あの兄が言うからには用心するに越したことはない。

「――颯音兄も葛ヶ原を出たんだって?」
「ああ。“毬街のうらなひ屋”を通じてあちらに偽の情報も流してある。二三日前、空蝉邸に入る剃髪の男を見た、とな」
「それであちらをおびき寄せて迎え撃つってわけ」
「ああ。透一らを連れて空蝉邸を張っている」
「おや、薫ちゃんは連れて行かないの?」
「そういや、出て行く面子には混じっていなかったな」

 扇がうなずき、雪瀬はひっそり微苦笑を漏らす。旅籠の門の、黒に塗られた柱に背を預けながら、「やっぱり心配だったのかな」と呟いた。
 薫衣当人からしてみれば、心配などされる筋合いはない、と啖呵を切られそうだが、兄の気持ちもわからなくはない。
 大切なものは、一番安全な場所に置きたくなるもの。なるべくなら、目の届く場所に、目が届く場所が安全でないのなら、遠くでも一番安心して置いていける場所に。

 雪瀬は宵の色に染まり始めた空を仰ぐ。
 紅の柱が目印の妓楼街、別名紅楼(こうろう)に対する、毬街の臙井地区の高級宿街、玄楼(げんろう)。その名の通り、黒塗りにされた柱がそこかしこにそびえている旅籠はゆうるりと夕闇に包まれつつあった。
 暖簾下から女将が出てきて、宿の屋号の書かれた提灯に明かりを入れる。薄闇の中をひとつ、ふたつ、とぼんやりと提灯の明かりが浮かんでいるさまはどこか幽玄な趣があった。

 肩に止まっていた扇が何がしかに気づいた様子で顔を上げる。
 雪瀬は空から視線を戻し、雑踏の中、息を切らせながら走ってくる少女と青年とを迎えた。