四章、空蝉
十五、
「たかい……」
雪瀬とともに女将に案内されて通された旅籠の二階の窓から身を乗り出し、桜は小さく感嘆の息をついた。
高級宿街、玄楼のひとつ、“翠楼”。
黒く塗られた柱木が物珍しく、普段一階建ての屋敷で過ごすことの多かった桜には二階からの景色の眺めというのがまた目新しい。特別騒ぎ立てたりはしないものの、あちこちへ興味深げな視線を向けていると、ちょうど宿の下あたりで柱木に背を預けるようにして立っている暁の姿を見つけた。
「あ」
なんと声をかけたらよいのか思いあぐねて、桜は手すりから身を乗り出したまま青年をじぃっと眺める。すると不意に青年が顔を上げた。こちらの顔を認めて柔らかに微笑み、軽い会釈をする。桜もつられておろおろと頭を下げた。何がおかしかったのか、あちらが小さく吹き出し、隣の衛兵――こちらは雪瀬たちとともに旅籠に着いていたらしい――に肘で小突かれてようやく気を取り直した風にまたそれとなく雑踏に身を紛らわせていく。
手すりに乗せた腕に頬を預けて、桜は青年の背中を目で追う。
――それにしても、暁たちはいったい何をしているのだろうか。
一緒に旅籠に泊まるのかと思えば、中には入らず、かといって葛ヶ原へ帰っていってしまうわけでもない。ただ門の外に立ったり、時折何かを探すように通りを歩いてみたり。あえていうなら、何かの見張りでもしているようだった。
そういえば先ほど、旅籠に入るとき、門の前に扇を置いてきている雪瀬の姿も見かけた。何を警戒しているんだろう。突然、毬街の旅籠にお泊りすることになった理由と関係があるんだろうか。
桜が首をかしげていると、遠方で振り返った暁がしぃと口元に指を当てるような仕草をする。目を瞬かせ、指を口元へ持っていって青年の挙措を真似してみてから、あぁと桜は気づいた。どうやら、自分たちのことは内緒、という意味らしい。
口元に指を当てたまま、でもどうして内緒なのかな、と桜が難しい顔で考え込んでしまっていると、
「熱心そうに何見てるの?」
微笑まじりの声がすぐ耳元へ落ちる。顔を上げると、背後からおもむろに腕が差し伸ばされ、障子戸が引きやられた。ぱたん、と人目を忍ぶよう戸が閉められ、暁の姿も隠れてしまう。
「どうして閉めちゃうの」
「――どうしても」
少しばかり憮然となって雪瀬を仰げば、彼は薄く笑って有無を言わさぬ口調で返した。どうしても、なんて。そう言われてしまったら、それ以上は聞けなくなってしまう。桜は口を引き結び、目を伏せた。
――ずっとこの調子なのだ。空蝉のことにしても、旅籠に移った理由にしても、雪瀬は何一つ教えてくれない。どうしてだろう、そんなに桜は信用がないんだろうか。それともはなから言ってもわからないだろうと思われているのか。
前々から思っていたのだけど、雪瀬というのは時折、あえて真意を隠すような物の言い方をする。そんなときの少年はとたん見知らぬひとのような、ひどく遠い存在へなってしまうのだった。
雪瀬はいつだって優しいが、一方でつかみどころがない。彼が怒りをあらわにしたり、何かに泣いたり、悲しんだりしている姿を桜は見たことがなかった。雪瀬の心というのはまるで捕まえようとしても消えてしまう幻か何かのようだ。誰にでもそうなのか、桜には見せてくれないのか、それともそもそも感情の起伏が少ないひとなのか、どれかはわからないのだけども。
別に雪瀬を信じてないわけじゃないのだ。ただ、何も話してくれないのはやはり自分が雪瀬に信用されていないからだろうか、と思うと寂しい。悲しい。
おかしいなぁ、と桜は思う。少し前は差し伸べられる手さえあれば、それでよかったのに、それで胸は満たされてしまったのに。今はその手のぬしが言葉や信頼や、もっともっといろんなものを与えてくれないと寂しくなってしまう。桜は昔より貪欲になってしまったのだろうか。
「なんだかご不満そうだね」
「ごふまん」
「障子閉められたの、そんなヤだった?」
「……ヤ、じゃない。少し、ヤだったけど」
窓の桟に腰掛けた少年に苦笑まじりに問われ、桜は一度首を振ってからためらいがちに雪瀬の袖端を引く。
「どうして、ここ来たの?」
「さぁ……、どうしてだと思う?」
「わからない」
「じゃあ俺もわからないよ」
単に高級宿に泊まってみたかったからじゃない、と他人事のように言われ、桜は眉根を寄せた。そんな言葉、いくら桜だって信じられない。
「……どうして、」
ぽつりと言葉の切れ端がこぼれて落ちる。どうして嘘つくの、と。胸にじわりと湧き上がった気持ちを必死に押し殺すように桜はきゅっとこぶしを握りこんだ。一度口にしてしまったら、堰を切ったように感情が溢れ出てきてしまう気がしたのだ。
「まぁたそういう顔する」
嘆息が落ち、視界端で少年が顔を上げるような気配がした。
「何でそう“どうして”“どうして”になるかなぁ。桜は知らなくていいことなのに」
放たれた言葉はいつものように淡然としているにもかかわらず、胸をえぐるような冷たさがあった。知らなくていいなんてどうしてそんなことを言うんだろう。そんな切り捨てるような、言い方。
どうして、と繰り返しかけてから、桜は続く言葉に迷って首を振った。視界が揺らぐ。嗚咽がこみ上げそうになり、桜はたっとその場から逃げ出すように部屋を出て行った。
少女の背中が襖の奥へ消える。
すぐに言葉が出なかったのは、単純に驚いてしまったからだ。顔を上げたときの泣きそうに揺らいだ緋の眸が鮮烈に脳裏に焼きついて消えない。彼女はいつの間にこんな表情をするようになったんだろう、とびっくりしてしまった。生々しい感情を宿した、ひとそのもののような。初めて出会ったときの人形のような無表情が嘘のようだった。
なんとも厄介な、と呟くと、雪瀬は先ほどとは趣の異なる嘆息をして目を伏せた。
*
階段を降り、食膳を運ぶ女たちの間を縫うようにして内廊下を駆け抜ける。
一気に走ったせいで旅籠の出入り口につく頃には息が上がっていた。軽い眩暈を起こして、桜は柱に手をつく。
玄関で預けておいた下駄を出すと、先ほどより歩調を落として外に出た。
あたりはすっかり暗くなっていた。
しかし、宿屋街である通りには依然ひとがごった返しており、提灯を吊り下げた旅籠の前で女たちが道行く者の客引きに精を出している。
毬街の臙井地区は大きな港があり、そこにたびたび異国船がつくこともあって、流れ者の商人や旅人が数多く訪れる。毬街。そこはものの集まる場所で、ひとの集まる場所なのだと、道中暁が教えてくれた。イコク?、と聞きなれぬ言葉に桜が首をかしげると、暁は海の果てにある遠い国のことだと教える。
話によれば、海の果てにある国は船という乗り物で渡っていけるらしい。大きな水にお椀を浮かべてるみたいなものですよ、と言われて、桜はふわぁと目を大きくする。お椀にひとが乗って遠くへ行くなんて、この前読んだ昔話のようだ。
道中、暁と交わした会話の数々を思い返しながらあてどもなく歩いていると、不意に先ほどの雪瀬の言葉が脳裏をよぎってちくんと胸を刺す。知らなくてよいのだと言われて、最初に抱いたのは悲しみで、次に胸に沸きあがったのは初めての強い反発だった。
桜は雪瀬のことを知りたい。たくさん知りたい。それと同じで、いろんなものを見てみたいし、聞いてみたい。触れてみたい。感じてみたい。何故なら、何かを知るたび、何かに触れるたび、何かを感じるたび、目の前に広がる世界が以前とは姿かたちを変えるからだ。それは夜に閉ざされていた世界に雲間から朝の光が射し込むように。世界は彩りを帯び、光を宿し、確かな息吹を桜へ伝える。そのたび、かたくなに閉ざされていた心もまたゆうるりとほぐれていくのだ。
自分の外と、中とはきっと繋がっているんだ、と桜は思う。外の世界が形を変えると、内なる世界をもまた様相を変える。――それすなわち、“育む”ということなのだと桜はまだ知らなかったけれど。
「桜さま」
ひとの流れに身を任せてふらふらと彷徨い歩いていると、不意に背後から声がかかって桜は足を止めた。だが、このひとの多さだ。声のぬしがすぐには見つからず、桜はきょろきょろとあたりを見回す。
「こっち、こっちです」
「……暁?」
黒塗りの柱の影から手を招いている青年を見つけ、桜はほっと表情を和らげた。
「暁」
青年のもとへと駆け寄れば、しっと鋭い声が飛び、腕を引かれて路地裏の小さな道へと連れ込まれる。思わぬ厳しい声音に少しばかり面食らってしまい、呆けた顔で青年を見上げれば、「すいません」と彼はわびた。
「怖がらせてしまいましたよね。……けれど、あまり人目につくわけにはいかなかったので」
「ひとめ?」
「そうです。――桜さま」
青い、海にも似た静謐さを湛えた双眸がすがめられる。そこにはほんの少しこちらを咎めるような色があった。
「あまり外に出てはいけないと雪瀬さまは仰いませんでしたか?」
つと考え、桜はふるふる首を振る。これは暁にとっては予想外のことであったらしい。
「あの方は肝心なところでお甘いのだから……」
暁は若干呆れた様子で呟いて、桜へと向き直る。両肩に軽く手が添えられた。
「では、今覚えてくださいませ。いいですか、桜さま。これから私たちがいいと言うまで外出はお控えください。旅籠の外に出てはだめです。それから私たちの存在を雪瀬さまや空蝉さま以外に教えてもいけない。――守れますね?」
青い眸に宿るあまりにも真摯な光に気圧され、桜はぎこちない所作でうなずいた。どうして、などと口を挟む隙もない。まるでさっきの雪瀬と同じだ。いつもとどこか異なるふたりの空気に桜もようやく違和感を覚える。
「帰りましょう。旅籠のほうへ案内します」
「……あ、」
暁は明るい大通りのほうへ視線をやると、そちらへきびすを返そうとする。待って、と桜は思わずその袖をつかみやった。別に深く考えたわけではない。ほとんど衝動に近い行動だったため、暁を引き止めることには成功しても、二の句が継げなくなってしまう。桜は少し考えこむように目を伏せ、それから眉をひそめている暁を仰いだ。
「あのね、“どうして”、教えて」
「――雪瀬さまは何と説明しましたか?」
暁は静かに問い返した。無論、説明はしてもらっていない。だから暁に聞いたくらいなのだから。答えられず、桜が口をつぐんでしまうと、
「では、私もお教えすることはできません」
とかたくなな言葉が返された。
「すいません、桜さま。けれど私は雪瀬さまをはじめとした橘一族に仕える身の上ですので。あの方たちの意思が私には絶対なんです。……どうかご理解くださいませ」
苦しげな声が耳元に落ち、桜はしぶしぶ暁の袖から五指を離すと俯いた。やっぱり桜にだけ教えてくれないんだ、と昼に雪瀬たちに置いていかれたときと似たような気持ちが胸をかきむしる。
「でもね、桜さま」
しゅんとなった桜の頬に軽く手を添え、暁はこちらをなだめるように微笑ってみせた。
「あの方が何も口になさらないのはおそらくお考えのような理由ではなく。そうではなくて、むしろ――」
続くはずだった言葉は笑みを含ませて意図的に途切れさせられてしまう。桜が小首をかしげると、戻りましょう、と暁は言って小道を引き返した。
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