四章、空蝉



 十六、


 颯音が毬街の空蝉の邸宅に少しの手勢とともに到着したのは、雪瀬たちが葛ヶ原を出たその日の夕方のことだった。
 月詠を迎えるにはいささか心もとない数だったが、あまり人数を割き過ぎても、月詠がこちらの動きに勘付いて途中で引き返してしまうとも限らない。また、毬街を治める自治衆たちもよその兵が多く自分の領内に入ることを快く思わないだろう。

 ひっきりなしに船が行き交う港を持つがゆえに、毬街の臙井地区はこの国で一番の港町、宿場町、交易の都市として長いこと栄えており、これらの商業を促進する目的からこの国で唯一、商人による自治が許されている地でもある。その信条は、来るものを拒まず去るもの追わず、しかしながら喧嘩・流血沙汰はご法度。どのような素性の者であれ受け入れる懐の広さを持つが、代わりにこの領内においては諍いなどを起こすな、という意味だ。
 あるいは、“諍い”を起こすならば、隠れてやれとでも言うべきか。

 颯音は自嘲気味の笑みを漏らし、腰に佩いた刀を抜くと、あばら家の濡れ縁に腰かけた。
 門のほうは今透一が衛兵たちを見張りにつかせている。終わったら報告が入るはずだ。

「古びた庵でしょう」

 背後から玲瓏とした声がかかり、颯音は半身を振り返らせた。見れば、蜜蝋を手に持った女がそこに立っている。

「もう数十年も前、私と空蝉さまが初めて持った“家”なのですよ、ここは」
「では離れるときはさぞおつらかったでしょう」
「さぁ、そのような感傷は持ち合わせておりませんが。……ただ、そうですね、私たちは戦で親も家も失くしてお互い身一つ、貧民窟を生き抜いてきたので。帰る場所を持つというのはそれはそれは感慨深かったのですよ。――あなたのような恵まれたひとにはわからないでしょうけど」

 最後に毒まじりの悪態をつくのはこの少女の癖のようなものなのだろうか。颯音は是とも否とも言わず、ただ苦笑をするにとどめる。――“恵まれた”。確かにはたから見れば、颯音は恵まれている側の人間なのだろう。否定するつもりはない。生まれ持った境遇に浮かれてぬるま湯につかっているつもりもまたないが。

 沙羅は大事に火を守るようにして掲げていた蜜蝋を脇に置くと、颯音の隣に座った。とたん、すいと軽く印を切って、颯音はその火を消してしまう。沙羅は柳眉をしかめた。

「申し訳ない。こちらの気配をあちらに悟られたくはなかったので」
「あら、橘のご当主はずいぶんと用心深いのね」
「といいますか。あの男、昔からそういうところには聡いんですよ。油断は禁物、こちらがやられてしまう」
「まるで黒衣の占術師をよく知っているような口ぶりですこと」
「ええ、存じておりますよ? よく、ではないけれど。私も五條も蕪木も、それから弟も、ね」
「……それは心強い」

 含みのある物言いを快く思わなかったのか、沙羅は冷たく言葉を返した。気を紛らわせるように肩に垂らしたおさげをおもむろにいじり始める。銀糸がごとき髪を細い指に巻きつけて沙羅は、ああ嫌だ枝毛だわ、とのん気に呟いた。
 ――この様子だと、今晩このあばら家を離れる気はないらしい。颯音は翳りを帯びた琥珀の眸をつぅとすがめ、息をつく。

「……用心深いのはどちらのほうなのやら」
「何か?」
「いえ。ただあなたは見張りに来たのでしょう? 私たちを」

 枝毛をより分けていた指が止まり、はらりと毛先が胸元に落ちる。沙羅はわずか碧眼を大きくして、こちらを振り返った。その表情は驚愕と言うにふさわしい。この女性、一見感情を押し殺しているようで実際にはかなり表情豊かなひとだ。颯音は苦笑し、軽く手を振る。

「あぁ別にいいんですけど。俺も弟をそちらに置いているのだから、あなたがこちらに来るのだって構わない。どうぞご自由に。あなた方からすれば、俺たちが本当に月詠を討つ気なのか信頼しかねぬ部分もあるでしょうし」
「直前で逃げ出す、という可能性もありますしね」
「ごもっとも。嘘吐き一族は信用しないほうが良策かと」
「普通自分で言いますか」
「俺は嘘吐きだけど、誠実なんです」

 口元に人差し指を立ててしれっと微笑むと、沙羅はいかにもといった風に疑わしげな顔をした。やはり表情豊な女性である。

「ね、沙羅さん。ひとつ教えて欲しいことがあるんですけど」
「あいにくと私、そういう言葉には乗らないことにしてるんです」
「それは残念。ずいぶんとかたくなでございますね」
「軽薄よりは石頭のほうがよいでしょう」
「同感です。そちらのほうが信用できる。――しかし、そんなあなたが敬愛する“彼”はふわふわと浮ついた企みをしているのでは?」

 板敷きに手をつき、颯音は少し身を乗り出すようにして少女と目を合わせる。それまで終始淡く湛えていた笑みを消し去れば、冷徹な表情だけがそこに残る。

「かれ?」
「空蝉以外に誰かいますか」

 間髪入れずに告げて、颯音は空とぼけようとした少女の退路を断つ。碧眸にありありと動揺の色が滲んだ。唇を噛み、「……何も」と少女は目をそらす。

「空蝉さまはただ、あなた方の誘いに乗っただけ」
「確かに、彼に提案を持ちかけたのはこちらのほうですが。ひとつ、不明瞭な点がある。何故、一介の人形師ごときの始末に黒衣の占術師が乗り出すのか。配下の兵を数多放てば、それで済む話であるのに、月詠はいったい何を企んでいるんでしょう?」
「さぁ、私にははかりかねます」
「空蝉の考えも?」
「――ええ。存じません」

 花色の唇にふんわり笑みを乗せて沙羅が答える。いっそ完璧なまでの表情だった。一分の隙もない。颯音はこの娘から答えを聞きだすことを諦め、肩をすくめた。

 月詠がいったい何を企み、何を狙っているのか。颯音にはどうにもはかりかねたが、しかしながら底知れなさでいうのなら空蝉のほうが上だ。あの男の性格上、颯音たちに月詠を討たせるためだけにこちら側に下ったとは考えにくい。
 颯音は長老会での空蝉の破天荒ぶりを目の当たりにしている。だからこそ直感した。おそらく――、あの男はひとにかしずくことを何よりも嫌う。ひとに支配されることを何よりも嫌う。その心理は颯音にも理解できなくはない。颯音とて他人によって状況をかき回されるのは楽しくないし、率直に言うと不快だ。
 であるから、ひとの支配を厭う人間は必ず自分が支配する側に回ろうとする。ありとあらゆる策略、謀略をめぐらせて。空蝉とて颯音の直感が正しければ、必ず何かを企んでいるはずなのだ。あちら側の思惑が見えぬ以上、これほど危険なものはない。
 やっぱり変なものを抱き込んでしまったかな、と颯音は苦く思い、目を伏せた。

「――あー、いたいたっ、颯音さん!」

 と、場違いなまでの明るい少年の声が遠方から響いた。声の上がったほうへ視線を向ければ、透一が茂みの向こうから手を振りながら走ってくる。

「配置っとわわっ、……えっと配置すべてつき終わりましたっ」

 途中、勢いあまって転びそうになりつつ颯音の元へ駆け寄ってきた少年は、若干息を切らせながら報告する。ご苦労だったね、と颯音が軽く少年の薄茶の頭を撫ぜてやれば、透一はえへへーと嬉しそうに相好を崩した。まるでご主人さまに褒められた子犬のようである。
 十五歳でこの素直さというのはある意味貴重であるというか何というか。十五歳で時折ご老体がごとき老成ぶりを発揮する少年を弟に持っている颯音は苦笑し、腰を上げた。一応颯音のほうでも誰がどこにいるか確認しておいたほうがいいだろう。

「――心配するには及びませんよ」

 駆け戻っていく透一の背を追って歩き出そうとし、それから颯音はふと気まぐれのように濡れ縁に残される少女を振り返った。

「目的こそ違えているとはいえ、私たちにとってもあの男が邪魔なのは同じ。――討ちますから。次は、必ず」
「そうなることを、願っております」

 確然と告げれば、沙羅は祈るように手を組み合わせて目を伏せた。







 どうかご武運を、と。祈ることにいったいいかほどの意味があるのか薫衣にはわからない。

 朝の日課である木刀の素振り百回を終えた薫衣は肩にかけた手ぬぐいで汗をぬぐいながら、家人が運んできた冷茶に口をつける。まだ早朝とも呼べる時間とはいえ、半刻近く休みなしで身体を動かし続けていたら息も上がる。素振りを終える頃には汗だくになってしまっていた。
 昼からの長老会の前に一度身を清めておこうかなぁと考えながら、薫衣はうなじあたりで髪を束ねていた紐をしゅるりと解いた。短い毛先が肩につく。うざったそうにそれをかき上げつつ、薫衣はふと庭の木戸に挿されている菖蒲の花を見やった。自分のあるじである男の無事を祈って挿した花だ。迷信など信じないといったのに、剣山に挿した菖蒲を引き抜いてつい戯れのごとく木戸に立てかけてしまった。

「さぁ喰らえ、俺の弾丸!」

 と、木戸からぴょんと何がしかが顔を出した。ぷしゅーっと水が額に命中する。薫衣は眸を丸くした。ぱたぱたと顎を伝う水滴をまず手ぬぐいで拭きやってから、薫衣は呆れ混じりに竹で作られた水鉄砲を掲げている人影を見やった。近所の子供の悪戯かと思いきや、その人影は子供にあらざるかなりの身の丈だ。

「何だよ。真砂」

 見知った男の登場を薫衣は半眼になって迎える。

「あれ、驚かないん?」
「ちょっと驚いたけどさ。……お前も居残り組なの?」
「しっつれーな! 待機組隊長と言いやがれ、五條」

 ぷしゅー、と水鉄砲から水が放たれるが、さすがに今度は薫衣もよけた。また妙なところにつっかかってくる男だなぁと思いつつ、わかったよ隊長、と苦笑すれば、「うむ、よろしい」とあちらは大仰な口調で応えた。

「朝から稽古とは見上げた心意気ですなー」
「毎日やんなきゃ身体がなまるだろ」
「俺は毎日なんてやんないぜー? 面倒だから」

 気ままな猫のような笑みを浮かべ、真砂は木戸に腕をかけてきぃきぃと戸を揺らす。と、そこで「おや?」と挿されていた菖蒲に気づいて抜き取った。

「史書・五巻二章十八、三代橘翁のくだり。“菖蒲は軒にかけよ”、デスカ?」
「……よっく覚えてるな」
「うははは、真砂さまを甘く見ないことよ。それにしても、」

 青年はくいと首を上げ、晴れ渡った青空を仰ぐ。

「蜘蛛の巣がねぇなー。よき便りは来ない、ってな?」
 
 意地悪く笑ってみせた青年の頭をこつんと手の甲で叩き、「どうせ迷信だ」と薫衣は断じた。

「鰯の頭も信心から。一度立ち込めた暗雲はなかなか晴れますまいに」
「お前、性格悪いよな」
「お褒めに預かり光栄。なぁ、おい五條。アレの守り刀になると決めたのなら、片時も離れないのをおすすめするぜ?」
「私は葛ヶ原を任されたんだ」
「これは奇遇やね。この俺さまも任されておりますよ」

 ぴ、と指を立ててみせた青年と一時目を合わせる。ようやく青年の意図を悟って、薫衣は驚いたように彼を仰いだ。

「頼んでも、いい?」
「合点承知。あ、“栗のや”の水羊羹と葛餅をふたつずつよろしくなっ」
「……無償じゃないのか」
「そりゃあね、俺は消費経済の申し子ですから。んじゃ、行ってらっしゃいませー」

 手にした菖蒲を薫衣へと投げる。木戸を遊ぶように揺らしながら、真砂はひらひらと手を振った。