四章、空蝉



 十七、


 食膳には港が近い宿らしく、焼きさざえや鯵の刺身、酢のものなどが並ぶ。
 葛ヶ原の家でもたまに漁師の仕入れた魚が出されることがあるが、ここまで海の幸尽くしになったことはない。雪瀬はここにきてようやく旅籠でお泊まり組になれたことを感謝しつつ箸を持つ。
 隣では空蝉が舌鼓を打ち、徳利から酒を注いでいた。けれど、対面に座る少女のほうは口を引き結び、かたくなな表情で出された料理を見つめている。暁に連れられて戻ってきてから、桜はずっと黙り込んでいるのだ。

「おーい、桜ぁ。この鯵うまいぞー!」
「……うん、」
「焼いてあるさざえとか。食べたことねぇだろ、お前」
「うん」
「うんって。――なぁおい、何かあったのかよ?」

 醤油に浸した鯵を口に入れながら、空蝉はもごもごとこちらに囁いてくる。食べるか喋るかどっちかにして欲しい。さぁ知らない、と雪瀬は首をすくめ、梅こぶ茶をすすった。

 障子越しにうっすら満月の朧な輪郭が透けて見える。夕刻を過ぎ、時刻はすでに夜に近い時間になっていた。しかしながらもう一刻近く、少女は微動だにしない。膝の上に手を乗せ、居住まいを正し、きゅっと口を引き結んでいる。食膳の箸は置かれたままだ。
 それでもお腹自体はすいているらしく、時折ぐー、と腹の虫が鳴く音が鳴る。桜はそのたびぎゅっとこぶしを握って必死に空腹を耐えているらしかった。きゅるきゅるとまたお腹が鳴る。ほんのりと頬を赤らめ、桜は今にも泣き出しそうな顔で俯いた。  いったいどうしてそんな無駄な意地を張っているのやら。出されたごはんを食べようとしないなんて、まるで幼子の反抗だ。
 彼女には悪いが、どこか微笑ましい気分になってしまい、雪瀬はそれを苦笑に紛らわせつつ箸を動かす。

「ねー、桜」

 名を呼びやると、桜の細い肩だけが小さく震える。

「餡蜜あるよ。食べたら?」

 こくんと唾を飲み込む音がした。先日、おみやげに餡蜜を買ってきて以来、無類の餡蜜好きになったらしい少女からすれば、これはかなり大きな誘惑だったようだ。食膳の一点に尋常でない視線を注ぎつつ、桜は俗念を断つ修験者のごとくゆるく首を振る。

「あ、そう。じゃあ俺食べちゃお」
「……っや、」

 対面の少女の膳へ手を差し伸ばせば、その前に桜は餡蜜の乗った小鉢をつかんだ。それからしまったといった様子で表情を変える。雪瀬は苦笑し、はいどーぞと匙を桜の持った小鉢に挿した。
 しばし小鉢とこちらの顔とを見比べてから、桜はそろそろと匙を握る。あとは黙々と匙を動かし始めた少女を見取って、雪瀬も塩辛を口に入れた。

 そうしていささか滞りはありつつも夕餉は進み、女将が食膳を下げにやってきた頃には鐘の音が玄楼街を響き始めていた。三つ捨て鐘が鳴らされたあと、間を置いて五つ鳴らされる。夜五ツ。すでに月は天頂近くに差し掛かろうとしている。
 緩慢に過ぎ行く時を感じながら、雪瀬は女将が注ぎなおしてくれた湯飲みに口をつけた。
 兄は今頃どうしているだろうか。透一たちと空蝉邸を張っているというが、もう月詠は現れたのだろうか。もしも何かあれば、葛ヶ原の誰かから早馬で報せが入ると思うのだが――。

「そういや、沙羅、戻ってこないね」
「ひとの妻を呼び捨てにすんなよ」
「沙羅さん、戻ってこないね」

 確か空蝉を旅籠に送り届けたあと、颯音のほうが気になるといって出て行ったきりだ。この調子だと今晩は帰ってこないのかもしれない。
 料理をすべてたいらげ、食膳をさげさせた空蝉は徳利を傾けながら、「今日はもう帰らんだろ」と淡白な答えを返した。

「あいつぁ筋の通った女だからな。いつだって俺の身を案じてる」
「さりげなくのろけないでくれませんか」
「ふふん、いいだろ? ――まぁしばらくはお前の兄貴にべったりだ。今日も明日も明後日も。奴が約束どおり月詠を討ち取るまでは帰ってこないんじゃねぇか」
「ふぅん……」

 雪瀬が関心薄そうにうなずいていると、不意にかたん、と小さな音が対面で立った。桜の手から緩やかに小鉢が滑り落ち、箱膳の角にぶつかって跳ね返る。桜の膝元に寒天と黒蜜をぶちまけ、小鉢は畳を転がった。
 雪瀬はひとつ眸を瞬かせ、桜を見やった。けれど彼女のほうは膝元を濡らす黒蜜に気を止めた様子もなく、ただ緋色の眸を大きく見開いている。

「……つ、……よみ、」
「ん? ああ、そうだぜ。聞いてなかったのか?」

 瞬く間に蒼白になった少女へ、空蝉は口端からしゃぶった箸を引き抜きながら言った。

「あの男が俺を狙っているって話。俺を殺したいんだってよ。旅籠だってだから移ったんだぜぇ?」

 からからと男が笑うが、桜のほうは空蝉の言葉をちゃんと理解できているのかいないのか、表情を強張らせたままだ。まるで螺子を巻き終えてしまった人形のよう。長い睫毛がゆるゆる伏せられ、目元にうっすら影を落とす。緋色の眸は開かれたまま、光を失っている。色のない唇から形を成さない言葉を漏らし、桜は自分の肩を抱きしめるように身体に腕を回した。

「桜?」

 少女の様子の変貌ぶりをいぶかしみ、雪瀬は桜の前へとかがみこむ。見れば、五指がきつく食い込む肩は小刻みに震えていて。そっとその頬に手を差し伸ばそうとすれば、「や、」と桜は怯えきった様子であとずさった。身体を縮こませ、ふるふると首を振る。

「……っ来な、来ない、で…っ、こないでっ」

 ――まるで拾い上げたばかりのときのようなかたくなな拒絶に少しばかり驚いて、雪瀬は宙に浮いたままの手を下ろした。さくら、と先よりも落とした声音で彼女を呼ぶ。

「どうしたの」

 そろそろと上げられた緋色の眸に目を合わせ、静かに問うた。桜は小さく首を振る。涙をいっぱいにためた眸がこちらを見つめ、それからぎゅっと瞑られた。まるで逃げ出しでもするようにすぐそばをすり抜けて部屋を出て行く少女を、雪瀬は嘆息まじりに見送った。







 キモチワルイ。身体のいろんなところがキモチワルイ。

 床をつく足裏の感覚はどこかおぼつかなく。途中、何度か食膳を片付けている娘たちとぶつかりそうになりながら、桜は旅籠の裏口から外へと出た。裸足のまま下駄もはかずに歩いていって、井戸の前でぺたんと座り込む。
 胸の辺りからこみあがってきた吐き気に口元を抑えた。それでも耐え切れず、ついにはお腹の中のものを残らず吐いてしまう。けほけほと咳を繰り返すと、生理的な涙が眦に滲んだ。きもちわるい。身体、きもちわるい。身体の中、きもちわるい。何度も何度も吐いて、喉にひっかかりがちの嗚咽をこぼす。それを幾度となく繰り返し、何も出なくなって来た頃にようやく人心地ついた。
 
 井戸のつるべを引いて、水をすくうと、口の中や手をすすぐ。それから黒蜜でべとべとになっていた膝に気づいて、残った水をかけておいた。桜は深く息をつき、井戸端にぐったり身をもたせかけた。夏といえど、冷水を浴びせかければ徐々に身体が冷たくなってくる。小さく震え、桜は自分の肩を抱いた。
 気持ちが悪い。いまだ肌のあちこちに残る生々しい感触も、手の中を滑る血の感触も。あのひとを形作るすべての記憶は厭わしく、またぞっとするほど恐ろしい。怖いのはもう嫌だ。痛いのはもう嫌だ。
 桜は井戸端に背を預けると、立てた膝を抱え、鈍くうずくこめかみの痛みから逃げるように目を伏せる。


 ――ぬえ?
 ――ああ、それがお前の名。
 ――わたしの名前。
 ――俺の名は、


 れい。黎明のれいというのだと、そのひとは褥の上で桜の肩に冷たい口付けを落としながら言った。