四章、空蝉



 十八、


「おやおや、あいつときたらずいぶんと人間らしい顔をするようになったもんで」

 煮杏にぶすりと箸がつきたてられる。
 箸を刺したそれを口に放り込み、空蝉は皮肉げな笑みを口端に乗せた。もぐもぐと口を動かしながら、黒蜜のかかった寒天へ箸を突き刺す。

「人形のくせにな。モノとして生まれついてもやっぱ外に出りゃひとの心を持つようになるもんなのかね。いやー興味深い」

 まるで他人事のようにいう空蝉に雪瀬は冷めた視線をやる。
 ――月詠。
 桜はどうやらその名に反応を示したらしかった。かの有名な、老帝の近臣であるところの黒衣の占術師。彼女に宮中の話をするのは避けたほうがよいと思ってあえてその名前は出さないようにしていたのだが、まさかこんなに激しい反応を返すとも思わなかった。帝の夜伽であった彼女と、その近臣であった黒衣の占術師との間に接点があるようには思えないのだが。

「不思議か?」

 こちらの思考を読んだ風に尋ねると、空蝉は煮杏を噛み砕いて飲み下した。

「答えは単純。あの子を執拗に寝所にはべらせていたのは黒衣の占術師だからな。――下世話な話、帝のご老体は実はもうあちらはあんまり使い物にならないのだとか。桜を寝所に呼んでも一晩中髪を梳いていたり、ふたりでお菓子を食べていたって聞くぞ。子供のままごと遊びだぁな。だが、帝ひとりに対し、後宮に集められた女は幾千。帝からのお呼びが減れば、暇をもてあますに違いねぇ。ゆえ、宮中では禁を破ってあっちこっちで近臣や老帝の皇子たちと女官との不義密通があったと聞く。清浄であるはずの宮中にあらざる乱れだろ? あーこれも廃れた世のならいかねー」

 口端に箸を引っ掛けながらしみじみと呟き、空蝉は腕を組む。

「――そしてあの子を手篭めにしたのが黒衣の男だった。たいそう緋色の眸がお気に召したらしくてなぁ。他の者には決して触れさせなかった。重畳、重畳、アレの生みの親としても誇らしい」
「……誇らしいと言うか」
「ああ誇らしいぜ。下種だからよ。ふふん、知ってるか橘?」

 空蝉は身を乗り出して得意げに笑った。

「世の中を動かすのはひとの情じゃねぇ、欲だ。知略と技量と運をもった奴だけがのし上がり、己の快楽を満たす。能力のねぇ奴らは食い物にされる。食うか食われるか、利用されるか利用をするか、これは勝負だ。そして俺は負けをみるつもりは、さらさらない」
「とんだご高説だね」
「はっ、そんなゴコーセツな生き方をせずに済んできたのなら、お前はたいそう運がよかったんだろうよ」
 
 空蝉は黄色い歯を見せてにやりと嗤い、しゃぶっていた箸を引き抜いた。それを右手に持ち替えて、先端をこちらの胸へ突きつける。

「なぁ、橘。もう一度言ってやる。でもこれで最後だ。――知りたいのなら、あの子の左肩を見てみろ。お前が求める答えはそこにある」

 ゆらゆらと狂気に揺れる淡紫の片目を眺めやって、雪瀬は一度目を伏せてから手に持っていた湯飲みを置いた。腰を上げる。

「どこ行くんだ?」
「桜、見てくる。お前はこの部屋から離れないでね」

 一応護衛らしい忠告をして、鞘に収まった刀を男に渡す。こんな長い得物使えねぇよと空蝉は冷やかし、脇に挿していた懐刀を顎で示した。

「俺にはこいつで十分だ」
「そう? ならいいけど」

 返された刀を腰に佩き、雪瀬は襖に手をかける。

「なぁ、橘ぁ」
「……なに?」
「人を殺すってぇのはどんな感じだ?」
「――知りたいの?」

 嘲笑まじりに向けられた問いに雪瀬は振り返らずに尋ね返す。

「ああ。ぜひともお聞かせ願いたいねぇ、今後の参考に。俺は盗みも手篭めも拷問もあらかた人の道に外れることはやってきたが、人殺しはまだねぇんだ」
「……簡単だよ」
「ほう?」
「朝餉で豆腐を切るときを思い出してみ。または卵を割るとき、木の実をもぐとき。それと同じくらいのあっけなさでひとは死ぬ」

 空蝉が一瞬言葉をなくす。呆けた男の表情がおかしくて思わず笑みをこぼし、「――という感じらしいよ。草紙いわく」と雪瀬は続けた。

「はぁ? ずりぃぞ、それ」
「ご期待に添えず申し訳ない」

 形ばかりの詫びを淡白に口にすると、雪瀬は襖を閉めた。



 それにしてもいったいどこへ行ってしまったのやら。
 また外に出たのなら暁か誰かに連れ戻されるはずだから、旅籠のどこかにいるのは確かなはずなのだけども。考えながら、雪瀬は桜を探して翠楼をあちこち歩き回る。

 翠楼は二階建ての建物で、一階はおもに宿の者たちが生活をしていたり、客に出す料理の調理や洗濯などをする場所。二階のほうが客が泊まるための座敷といったつくりになっている。ちなみに二階は今は雪瀬たちの貸切だ。
 寝仕度のためか、内廊下にともされた行灯の明かりをひとつひとつ消していっている娘の後ろを通り過ぎながら、雪瀬はぱらぱらと木屑を落とす天井を嘆息まじりに見上げた。高級宿と称している割に、翠楼のそこかしこはずいぶんと老朽が進んでいるようだった。
 風が吹けば、ぎしぎしと旅籠全体が揺れるし、先ほど食膳をさげていた女将がよろけたはずみ、二階の床板が抜けかけた、なんていうのはもはや失笑を通り越して呆れてしまう。ごはんはおいしかったけれど、もう少しまともな宿を手配できなかったのかなぁ、と雪瀬は頭にかかった木屑を払いながら思った。
 
 二階はすでにすべて見て回り、一階も厠、炊事場と探し歩いたので、残る部屋は数少ない。勢い余ってかまどの中や、ごみ箱の中などを迷い猫を探す要領で確認してしまってから、いや大きさ的に無理か、と雪瀬はため息をついた。昼間であったのなら、このまま放っておいてもいいのだが、やはり夜半ともなれば心配にもなる。彼女ときたら、幼子程度の思考能力しかない上、かなりの世間知らず常識知らずであったのでまた何か変なことに巻き込まれるともしれない。

 ひやりとした隙間風が頬を撫ぜ、雪瀬は呼ばれたようにそちらへと視線をやる。そこはちょうど土間にあたる場所のようだった。旅籠の裏口にあたる戸が錠もかけられず開け放っしになっており、吹き付ける夜風にかたかたと軋んでいる。無用心な、と胸中でごちて、雪瀬は戸を閉めようと取っ手に手をかけた。

 夜闇に融け入るような人影を見つけたのはほとんど偶然だった。井戸端の前に座り込むようにしている小さな影。やはりというかなんというか、桜だった。
 雪瀬は大仰に息をつくと、土間に散らかっていた下駄に足を入れて裏庭に出る。
 木々のさやめきの中、そっと息をひそめるようにして眸を閉じている少女。一瞬ぎくりとしてしまうが、ほどなく規則的な寝息が聞こえてきたので胸を撫で下ろす。どうやら泣き疲れて眠ってしまっただけらしい。
 ところ構わず眠ってしまうのは、無防備なんて可愛らしいものを通り越してもはや彼女の“悪癖”ではないだろうか。――ほんと誘拐とかされたらどうすんの。世の中っていいひとばかりじゃないんだよ、たくさん悪いひといるんだよ? 
 げんなりと、しかし聞くひとが聞いたら親馬鹿かつ心配性でしかない発言を胸中でして、雪瀬は桜のかたわらにかがみこんだ。

「さくら」

 軽く頬を叩いて、そっと呼びかけてみる。けれど、思った通り返事は返ってこない。ああもう、と雪瀬は嘆息し、桜の背に腕を回すと、ひょいとその身体を抱え上げた。桜の身体は小さくて本当に軽い。横抱きにして雪瀬はそのまま二階の寝所のほうへと少女を運んでいく。

 本来は沙羅と相部屋であるはずの桜の部屋は、暗く沈みかえっていた。今晩は沙羅がいないので、布団も一組しか敷かれていない。適当に布団の上に転がしてしまおうとして、雪瀬は桜の膝元から肩口にかけてがびちょびちょになってしまっていることに気づいた。  ああそういえば黒蜜こぼしてたなぁと思い出し、雪瀬は少し考え込む。放っておけばいずれ乾くのだろうが、寝冷えしてしまわないか少し心配でもある。
 さくら、ともう一度呼んでみるが、反応ひとつ返さない。完全に眠り込んでしまっている。水気をしっとり含んだ衣は彼女のほっそりとした肢体にまとわりつき、うっすらと白い肌の色を透かし出していて、どこか普段の幼さに似つかぬ艶(いろ)があった。

「って、猫相手にいくらなんでも」

 雪瀬は思わず自嘲をこぼす。
 惹かれたように褥に散らばった黒髪をさらりと梳いてどけ、あらわになったうなじ、襟元へと指をかけた。ほんの少しくつろげれば、細い肩口があらわになる。しみひとつない、透き通るような白い肌には、けれど不似合いなまでの赤黒くただれた焼き痕があった。焼印。咎人の腕や額に押されるものが何故肩にあるんだろうと不思議に思ったものだ。そこへ刻まれた文字は、
 六。
 いや、夜。
 夜ともう一字、消えかけたそれは、「鳥」?

 ――「夜」、「鳥」、
 ヨドリ、あわせて。
 あわせて、鵺(ヌエ)。
 
 雪瀬は小さく息をのむ。
 偽装の木鈴売りが言っていた。男はヨドリを探して都へ向かうと言ったと。かの男が向かった先は彼女だったとでもいうのだろうか。とすれば、黎は今いったいどこに――?