四章、空蝉



 十九、


 翠楼の前で見張りをしているのは、あわせて十数人ほどだった。
 すべて、葛ヶ原の衛兵たちである。それぞれがふたり組を作って、東西南北あちこちでひっそりと夜闇に身を紛れ込ませるようにしてあたりをうかがっている。
 たったひとりの護衛のために十数人。橘颯音はこの件に関して実に用心深い徹底ぶりを見せた。

 夜半を告げる鐘の音が鳴る。月は天頂を過ぎようとしていた。
 宵口はかなりのにぎわいを見せていた玄楼街の通りからもようよう人気はなくなり、旅籠の暖簾もすでにほとんどが下ろされている。門前に掲げられた行灯の光はなく、薄い夜霧があたりをたゆとうていた。

「颯音さまは大丈夫だろうか」

 隣で見張りをしていた相方が月を仰ぎながら、ほぅと息をつく。お怪我などないといいな、と呟き、祈るように手を組み合わせた。暁はゆるやかにうなずく。
 外に対しては悪名をとどろかせている橘颯音であったが、こと葛ヶ原に関して言えば絶大の人気を誇っていた。
 葛ヶ原の民は古く海とともに生きてきた民であるだけに、荒々しい波にも負けぬ、強き者を好む。強く、正しき者を。遊郭遊びにふける当主を排し、腐敗しかけた王朝に反旗を翻した天才風術師は、だから葛ヶ原では英雄だった。強く正しく、憐れみ深い当主はみなに愛された。

「私たちは私たちの役目をまっとうするだけです」
「……あぁ」

 暁が呟けば、相方は顎を引いた。
 暁と相方はお互い自然背中合わせになりながら、あたりをうかがう。いつでも抜刀できるよう腰に佩いた太刀に手をかけてはいるが、今のところ抜刀を必要とする事態が生じたことはなかった。
 いくら注意を心がけていても、一刻、ニ刻とたち続けていれば疲れが出て、集中力が途切れがちになってくる。交替まではまだ時間があった。暁は眠気に抗うべく柄をきつく握り締める。

 不意に空がざわめき、流れる群雲に月が隠れる。月光がふつりと途切れた。完全な闇夜が落ちる。
 ちん、と鍔鳴りの音がしたのはそのときだった。
 暁の頬にぴっと何かが飛ぶ。彼は眉をひそめ、頬をぬぐいやった。一瞬雨かと思ったが。雨滴にしてはやけに粘着質な。これはいったい何なのか。
 ――雲流れ、視界がまたおぼろげに明度を取り戻す。暁は手元へ視線を落として、細く息をのむ。白い手の甲についたそれは鮮烈な赤色をしていた。

 駿河、と暁は鋭い声で相方の名を呼ぶ。触れ合わせていた背中にかかる重みが増して、やにわに暁が振り返れば、眼前を血を撒き散らしながらゆっくりと男の身体が倒れていく。
 弧を描いた刀が鞘に戻される。暁は息をのみ、目の前に立つ男を仰いだ。夜闇に融け入るような、その黒衣の。
 暁は口を開いた。







 そっと耳元で誰かが自分を呼んだ気がした。深く、甘く、神経をゆうるりと麻痺させていくようなその声。聞き覚えがあるようで、見知らぬ者のようでもある。
 目を覚ましたくない、と桜は思った。このまま眠っていたい。このまま夢の中にいられれば、怖いことも、怖いものも見なくて済むから。
 けれどそう望む胸のうちをよそに意識は徐々に覚醒へと向かっていく。海の深くで生まれた泡沫が光射す水面へと昇っていくように。桜は目を覚ました。
 
 見慣れぬ天井をしばらく凝視してしまってから、桜は小首をかしげた。おかしい、橘の家じゃない。ここはどこなのだろう。わたしはどこにいるんだろう。考え、そういえば今朝方葛ヶ原を発って旅籠に泊まりにきていたのだということを思い出した。

 桜は身体にかけられていた布団をはいで身を起こし、ひっそりと夜闇に沈む部屋へ今一度視線をやった。沙羅はまだ帰ってきてないらしく、部屋には桜ひとりしかいない。先ほどと変わっている点といえば、衣桁に上着がかかっているところくらいか。
 それで己を振り返ってみると、先ほどまで着ていた小袖が脱がされている代わりに襦袢の上にもう一枚、新しい衣が重ねられていた。井戸端で吐いて、水をぶちまけてしまったところで記憶は途切れてしまっているのでわからないけれど、あのあと誰かが運んでくれたのだろうか。

「あつい……」

 桜は熱っぽい息をついて、汗ばんで額にはりついていた前髪をかきやった。普段、昼どんなに暑くとも夜になって太陽が沈めば、涼しくなるのだが、今日はまたずいぶん気温が高い。道理で寝苦しかったはずだ。からからに渇いてしまっていた喉に手をやって、お水ほしいな、と桜は考える。部屋に水差しがないか少し探してみたが、あいにく目当てのものは置いていなかった。
 ほんの少し迷ってから、桜は枕元に置いてあった銃を帯に挿し、立ち上がる。

 部屋を出ると、すぐそばにある階段をぺたぺたと下りていく。先ほどは廊下を明るく照らしてくれていた行灯は今は消えていて、あたりは真っ暗だった。見通しがきかないせいで足元はひどくおぼつかない。
 それでも割と動物的な勘には優れている桜は壁伝いに前の記憶を頼りに歩き、一階の隅にある土間へとたどりついた。確かここの裏口から外に出れば、井戸があるはずだ。井戸水はちゃんと陽にあてないと飲んじゃだめだよ、と以前雪瀬に言われたことがあるような気がするけれど、他に水がありそうな場所がすぐに浮かばなかったのだから仕方ない。桜は人形であるし、きっと大丈夫なはずだ。
 
 うん、とひとりうなずき、桜は戸を見上げる。さっきと違ってきちんと閉められていたが、錠はかけられてはいないようだった。
 桜はほっとして、そちらへと駆け寄る。だが桜が取っ手に手をかける前に、戸が大きく揺れ、すっと音もなく開かれた。血濡れた手がこちらへ突き出される。桜はびくりと肩を震わせ、取っ手に伸ばした手を引っ込めた。
 その手は助けを求めでもするように虚空を彷徨ってから、しかし中途で力尽きてずるずると地に落ちる。たすけなきゃ、と思った。わからないが、その手は助けを求めているような、そんな気がしたのだ。
 自らの危険を顧みず、半ば衝動的に桜は戸を引き開ける。
 
 そこにいたのは、つい先ほど言葉を交わした青年だった。扉を開けたはずみにぐらりと桜のほうへと倒れこんでくる。桜ひとりの力では支えきれず、結局彼に巻き込まれるような感じで土間にしりもちをつく。
 むっと鉄錆にも似た臭いが鼻腔をついた。青年の背に回した手にべっとり粘着質な液体がくっつく。その感触には覚えがあった。声にならない悲鳴を上げて、桜は青年の背中を見やる。そこには鮮やかなまでの刀傷があった。

「――あかつき、」

 青年の肩をつかんで起こし、あかつき、あかつき、と焦燥まじりに何度も繰り返すと、ほどなく青年がうっすらと眸を開いた。

「あかつき」
「……桜さま。……いいですか、早く、雪瀬さまのもとへ。来ました、彼が来たのです」
「彼?」

 問い返しながら、桜は暁の頭越しに視線を投げかける。蒼い月光に照らし出された地面には点々と赤黒い血痕が落ちていた。暁は身体を引きずってここまで歩いてきたらしい。

 さわさわと草木が揺れる。空気がざわめく。かさり、と草の根を踏みしだく音がした。現れた人影を見取って桜は細く息をのむ。
 天頂を昇る大きな月の下、血濡れた刀を片手にたたずむその男は。

「彼が……」

 血臭を濃く含んだ夜風に、男の黒衣が舞う。長い銀髪がさらりと流れ、差し込んだ月光に焼け爛れた右腕があらわになった。

「黒衣の占術師、月詠が、現れたのです」

 するりと暁を支えていた手が落ちた。反動で彼の身体が傾き、土間に倒れこむ。重い音が地を響わせた。それが聞きつけたのだろうか、黒衣の男がこちらを――、
   
「――……っ、あ…」

 喘ぐような声が漏れる。桜は即座に扉を閉めると、ぐったりとする暁の身体を引っ張って来た道を引き返す。
 男のひとの身体はひどく重く、脇に手を差し入れて力いっぱい引いているのだけど、なかなか進むことができない。早くしないと黒衣の男が追いついてしまう。怖くて、怖くて、頭がぐちゃぐちゃになりそうだ。――だけども、桜は暁を置いて逃げることは露ほどにも思いつけないのだった。だって血がいっぱい出ている。放ってなんておけない。手当てしなきゃ、死んでしまう。死んでしまう。
 ゆるゆると涙が溢れ、頬を伝い落ちた。何度もしゃくりあげながら、桜は暁の身体を運んだ。







「……あれ?」

 読みかけの草紙を開こうとしたところで雪瀬はぴたりと動きを止めた。部屋を見回し、それから軽く眉をひそめる。

「空蝉。ちょっとそこどいて」

 雪瀬は窓枠に腕をついて居眠りをしていた男を無理やり押しのけ、眼下の通りに視線を走らせる。往来には、人の気配といったものがまったくない。おかしい。異常なほどの静けさだ。

「暁たち、どこ行った?」
「んあ? 何かあったのか?」

 いぶかしげな様子で空蝉が目をこすりながら尋ねてくる。だが、雪瀬はてんで男の存在は無視してあたりへと意識を集中させる。

「何で? 一度に神隠しにあったわけじゃあるまいし、何でこんな、」

 いや、本当にひとが消えてたとしたら。
 それこそまずい。まさか、ありえないと、そうは思うのだけど。雪瀬はすばやく窓から身を翻すと、立てかけてあった刀を引っつかむ。と、刹那、目の前の襖が勢いよく開けられた。