四章、空蝉



 二十、


 引き開けた襖の先にいたのは、空蝉と、それから雪瀬だった。安堵が胸いっぱいに広がり、桜はくしゃりと表情を崩す。

「きよせ、きよせ、……あのね、暁、ったくさん血、たくさん、」

 嗚咽に邪魔をされながら途切れがちな説明をして、桜は引っ張ってきた青年を部屋の中に入れる。それを見て雪瀬が軽く息をのんだ。桜から青年を受け取り、畳に寝かせながらこちらへ視線を上げる。
 
「桜。これ、どうしたの」
「どう……」

 いつになく鋭い声で問われ、桜はふるふるとわけもわからず首を振った。嫌だ、思い出したくない、と本能が言う。戸の外に黒衣の男がいたなんて。もしかしたら追いかけてくるかもしれないなんて。怖い。怖いよ。考えたくないよ。

「さくら」

 どこまでも優しく、それでいてどこまでも厳しい声で名を呼ばれ、桜はぎこちなく顔を上げる。そっと頬に手をあてがわれた。冷え切ってしまった頬にその手はひどく温かく。張り詰めていたものが緩んで、ぽろぽろと涙がこぼれる。それをどこか節ばった大きな手のひらが優しくぬぐった。目を伏せ、その手のひらへと頬を預ける。

「つくよみ……、」

 震える声がようやくその名を紡いだ。
 窓枠に腰かけていた空蝉がひゅうと口笛を吹く。

「黒衣の占術師殿の突然のご来訪ってか。血が騒ぐったらありゃしねぇ」
「血が騒いでるのはお前だけだろうけどね」
 
 淡白に返し、雪瀬はもう一度指で眦にたまった涙をぬぐってくれてから手を離した。緩やかに足を返す。

「やっ、」

 そうして雪瀬はひとりで部屋を出て行こうとするので、桜は慌てて声を上げた。袖端をぎゅっと握り締め、かぶりを振る。

「逃げ、よう、きよせ逃げよう逃げようにげ――」
 
 逃げないと。逃げなきゃ。そうでないとあの男が来てしまう。こっち、来てしまう。ほとんど強迫観念に近いものに駆られ、桜は必死に彼の袖を引っ張り、襖を開けようとする。けれど、その前に頭越しに伸ばされた手が襖を押さえた。
 桜はひとつ緋色の眸を瞬かせ、自分の頭上に伸ばされている腕を不思議そうに見やる。小首を傾げるようにして雪瀬をうかがうが、それには直接答えを返してくれず、代わりに雪瀬は少し腰をかがめて桜の耳元へ囁いた。

「いい? 桜はここにいて。そしてこの襖を絶対開けないこと。――約束できる?」
「……雪瀬は?」
「ちょっとばかり護衛の仕事をば。へーきへーき、すぐ終わる」

 まるでなんということでもない様子でぽん、と軽く頭に手を置かれ、襖から引き離される。桜は首を振った。嫌だ、嫌だ、行かないで、と声にならない声で訴える。

「大丈夫だよ。――嘘じゃない。あ、お前も出てきたりするなよ」

 雪瀬は振り返りざま空蝉へ言いつけると、取っ手に手をかけた。捨てられた子犬のような表情をする桜に微苦笑を返して、部屋を出る。

「雪、待っ、」

 追いかけようとするも、その前に行く手を阻むように襖が閉じられた。



 雪瀬は後ろ手に襖を閉めると、軽くそこへ背を預けた。ひとつ大きく深呼吸、顔を上げる。
 廊下は濃密な闇の中にあって見通しが利かない。息をひそめて壁伝いに進みながら、部屋の襖をひとつずつ足で開けていく。中に人がいないか確かめる意味もあったが、それ以上に外からの光で少しでも視界を明るくするためでもある。雪瀬は気配に聡いほうであったが、相手はおそらく雪瀬以上に夜目が利く。

「雪瀬さま!」

 廊下を半分ほどいったところで、何やら切迫した呼び声がかかった。見れば、通りに張っていた男のひとりが階段を駆け上がってくる。左肩を庇うように押さえている。斬られたのだろうか。眸をすがめて青年を眺めながら、「なんか、あった?」と雪瀬は平静を装おいながら尋ねた。

「それが……それが……、裏切り者があいつの手引きを――」
「裏切り者? あいつ?」
「ええ、今――……」

 男は壁にもたせかかって身体を支えるようにしながら、こちらに向かってくる。その背後にゆらりともうひとつ、黒い影が立ち、雪瀬は目を瞬かせた。

「――駿河、」

 雪瀬が注意を促す前に、背後から閃いた太刀が大きく薙ぎ、男を斬り伏せた。彼の、その黒い眸からすっと光が消え失せる。背中から血をまき散らしながら、青年は廊下に倒れ伏した。重々しい残響が床板からじかに足裏に伝わる。
 とっさに男へと駆け寄りたくなる衝動を何とか抑えながら、雪瀬はおそらくは絶命した駿河から男へと視線を移した。

 窓辺から射し込む細い月光が、暗く翳った男の姿をあらわにする。あの日から変わることのない闇を吸い込んだかのような漆黒衣に、淡い月光を弾き、羽織に沿ってさらさらとなびく長い銀髪。女子とも男ともいえぬ中性的な顔立ちには表情というものがまるでない。精緻な人形か何かのようだ。

「久方ぶりだね」

 男の横顔に変わらぬ面影を見つけ、雪瀬はそっと緩やかな笑みを口元に載せた。

「月詠。いや、さにあらず? ――白雨黎とでもいうべきか」

 白雨黎、の名に男がぴくりと反応する。それは肯定のしるし。
 前には敵、味方はなく、背後には守るべきものがふたつ。

「――最悪」

 ひとりごちて、雪瀬は風に流れる黒衣を見据えた。







「や、放して! はなして!」

 男に後ろから羽交い絞めにされ、桜は力いっぱいにもがいて抵抗する。雪瀬を追って部屋を出ようとしたら、とたん空蝉に止められてしまったのだ。
 どうにか男の手を振り解こうとするも、桜の小さな身体では抗ってみたところで彼には到底叶わない。涙で視界が揺らぐ。悲しくなった。悔しくなった。桜はあまりにもあまりにも非力で。雪瀬を助けることはおろか、このひとの手を振りほどくことすらできない。いやだいやだ、と空をかいた足が襖を蹴って、大きく揺らす。

「まーてまてまて。暴れんなって、もうちょい待てよ」

 空蝉は苦笑して、赤子をあやすような猫撫で声を出した。けれどこのひとの言うことを聞いてやる気など毛頭ない。はなして、と桜はぶんぶんと首を振る。
 脳裏を何度もよぎるのは、先ほど見た黒衣の男の姿だ。身体が芯から冷え切って、呼吸することすらままならなくなる。――こわい。さっきみたいに、黒衣の男のことが怖いんじゃない。いや、怖くはあるのだけども。それよりももっと雪瀬を失うかもしれないことが、すごく、すごく怖いんだ。
 桜がにわかにおとなしくなったからか、身体に回された空蝉の手がわずか緩む。その隙に桜は男の腕をすり抜けた。

「っおい、」

 空蝉の手を振り払い、もつれる足で何とか襖へと飛びつく。指先の震えを必死で押さえ込もうとしながら引き戸に手をかけるが、開けることもままならぬうちに背後から腕をつかまれた。

「ったく仕方ねぇなぁ」
「っや、」

 さっきのように力任せに振りほどこうとすれば、逆に腕を引き上げられ、両手首をまとめてひっつかまれる。無理やり襖へ身体を押し付けられた。背中をぶつけ、桜は小さく呻く。唇を噛んでしまったのか、鉄錆にも似た味が口内を広がる。

「ほんとお前はいつからまったく俺の言うことを聞かなくなったんだ?」

 男の指が血の滲んだ桜の唇を撫ぜ、顎をとって上向かせる。

「いいか、聞け。お前がどう思おうとな、この筋書きを変えさせるわけにはいかねぇんだよ」
「……はな、して」

 これから空蝉がとるだろう行動に察しがついてしまい、桜は空蝉の手から逃げるように顔を背けた。

「悪いな。“ねむれ”。さくら」

 頬にかかった髪を耳にかけると、男は桜の耳朶に唇を寄せて静かに囁いた。両手首の戒めが解かれる。身体の力が抜け落ち、桜はそのままさながらふつりと糸の切れた人形のごとく、力なく畳の上に倒れこんだ。

「いや、だ……、」

 桜は次第に薄れゆく意識を必死に繋ぎとめようとしながら、畳に爪を立て、男を仰ぐ。空蝉は困ったように肩をすくめると、悪いな、ともう一度謝って、足を返した。

「出札はそろった。さぁて、空蝉さまの革命の時間だ」

 腰から抜いた懐刀を掲げながら空蝉はにやりと笑い、襖を閉めた。