四章、空蝉



 二十一、


 馬を走らせ、夜道を駆け抜ける。
 毬街の臙井地区に入る頃にはすでにどっぷりと日は暮れ、月も天頂近くに上ろうとしていた。これでは空蝉邸に着く頃には夜更け近くなってしまうだろうか。しかし、そうあってはならない、という確信じみた警告が薫衣の脳裏でけたたましく音を鳴らしていた。

「イガグリ、急いで」

 薫衣は祈るような声音で馬に命じた。栗毛の雄馬は薫衣の言葉に応えるように小さくいななき、速度をぐんぐんと上げていく。
 と、高速で後方へ流れ行く街並みに白い影を見つけ、薫衣は眉をひそめた。通り過ぎてしまおうとしてから思い当たるところがあり、「とまって、イガグリ」と馬の手綱を引く。よく躾られた馬は急転換にも首尾よく対応し、ぱっと足を止めた。

「扇!」

 薫衣はこちらに気づいた様子もなく、反対方向へと滑空する白鷺を呼び止める。薫衣か、とあちらがこちらを認めた様子で顔を上げた。だが、差し出した薫衣の腕には止まらず、せわしなくあたりを旋回している。その様子に尋常ならざるものを感じて、「どうしたの」と薫衣は短く問うた。

「まずい、まずいことになった」
「まずいこと?」
「颯音に知らさなければ、早く颯音に、」
「――だから、何があったんだ?」

 少し語調を強めて問えば、扇は人間にしたら蒼白といった面持ちでこちらを見つめた。

「……現れたんだ、」
「現れた?」
「月詠だ。こちらに、雪瀬のほうに現れたんだっ」

 白鷺は耐え切れなくなった様子で半狂乱気味の叫び声を上げる。

「扇、あっちの護衛の数は?」
「十余名。だがすでに全滅している。空蝉と桜と雪瀬しかいない。雪瀬しか」

 薫衣は舌打ちする。いったいどうして月詠がそちらに現れたのかわからぬが、今はそれをどうこう言っている場合ではない。下手すれば、空蝉ばかりではない、かの弟すら失うことになってしまう。雪瀬はああ見えて馬鹿みたいに律儀で情が深いのだ。空蝉を放って逃げたりなど絶対しない。

「来い、扇。――イガグリっ、最速で頑張れ」

 手を振って白鷺を呼びつけると、薫衣はぽんと馬の首元を叩いた。イガグリが高くいななき声を上げる。馬の背に身をゆだね、吹き抜ける風を感じながら、間に合うか、と薫衣はきつく眉根を寄せる。どうか、間に合っておくれ。







 天頂の冴え冴えとした月を映す黒眸がすぅっとすがめられる。空気を読むように、風を嗅ぎ取る一羽の鴉のように、黒衣の占術師は首をめぐらせ、こちらを向き直った。
 瞬間太刀が閃き、斬線が弧を描いて雪瀬の首元へと走る。びりりと空が震えるような気すら、した。かわす暇などない。雪瀬は後ろに一歩のいて、その太刀を受け止める。ぎりぎりと刃と刃がこすれあう。柄を握る手がじんと痺れた。もう幾人をも斬り伏せてきたはずの刃はしかし、よほどの名刀なのか刃こぼれひとつ起こしていない。
 
「ほぅ。俺の太刀を止めるか」

 片眉を上げ、意外そうに月詠がこちらを見下ろした。お褒めに預かり光栄とかなんとか、皮肉のひとつやふたつ返してやりたかったのだが、あいにくと口をついてこぼれるのはか細い吐息だけだ。冷えた汗がこめかみを伝い落ちる。徐々に喉元に刀が近づく。もしかしてもしかしなくても雪瀬はあっさりここでやられてしまいそうだった。大丈夫などと大見得を切っておいてあまりにもあっけない幕切れだ。
 ――何か。何か突破口が欲しい。せめて目の前の男の注意を一瞬でもそらせたらなら。雪瀬は門のところへ置いてきた白鷺を思い出し、もしかしたらこちらに来てくれてはないだろうかと男の背後へと視線を投げやった。しかしそこに目当ての影を見つけることはできず、ただ暗い予感が胸を塞ぐ。
 見捨てられたのかな、と思った。俺は日頃行いが悪いから、だから扇にも見捨てられてしまったのかもしれないとそう思った。自嘲気味の笑みが漏れる。雪瀬はぐっと柄を握り締め、顔を上げた。

「扇、来い!」

 月詠の背後にすばやく視線を走らせ、確然と命じれば、一瞬、男の視線がそれを追う。おざなりになった太刀を払い、雪瀬は男に向けて一閃、刀を薙いだ。
 ず、と肉を断つような生々しい感触が手の内に伝わる。しかし――刀は男の胸にまでは届かず、その前にかかげられた左腕にはばまれてしまっていた。雪瀬は小さく舌打ちし、刀を抜く。とたん、深い傷口からは少量じゃない血が流れ落ちるが、月詠は痛みに顔をゆがめるわけでもなく、ひどくさめやかな眸で身体の前にかざした腕をひっこめた。

「くだらない。はったりか」
「一瞬、騙されたでしょ」
「長らく老人の相手をばかりをしていたツケかな」

 月詠は自嘲気味に笑い、一度血を払い落とすように手を振った。傷口には目もくれず、太刀を構え直す。これなら最初から急所を狙わず、腱を切っておいて刀を握らせないようにしておくんだった、と雪瀬は後悔した。
 男から数歩間合いを取って、雪瀬も刀を構える。向けられた切っ先を目をすがめて眺めやり、月詠は微苦笑まじりにふと口を開く。

「既視感を抱く光景だな」
「へぇー、あなたに昔を懐かしむ気持ちがあったとはね。――じゃあ忘れたとは言わせないよ」

 片眉を上げた男に、雪瀬は続ける。

「――橘凪。そしてそれは『俺の』だ。返して」

 男の脇に差された黒鞘の刀へ一瞥を送り、雪瀬は冷然と告げる。

「あいにくと聞けぬ頼みだな」
「なら、力ずくで奪っても?」
「できるというなら」

 いちいち勘に触る物言いをする男である。そう、と顎を引き、雪瀬は刀の柄を握りこんだ。機先を制するように地を蹴って間合いをつめる。

「ちょーっとたんまー!」

 刹那、背後から出し抜けに乱入してきた声に、ぎくりとして雪瀬と、そして平然として月詠は顔を上げた。思わず踏み出しかけた足を止め、声のしたほうを振り返れば、闇の中からそれと同色の僧衣が浮かび上がる。

「よ。頑張ってるじゃねーか、橘」

 空蝉は軽く笑って、ちゃっと片手を上げた。場違いな笑顔を浮かべながらこちらに近づいてくる男の姿を認め、雪瀬は目を瞬かせた。

「がんばってる、じゃなくって。何で出てくるの」

 決して部屋を出るな、ときつく言ったのに。これでは自分から殺してくださいと言っているようなものではないか。雪瀬はとっさ、男を自分の背にかばうようにする。月詠が前にいる。守らなくてはいけない、気がした。こんな男だけども、殺されるわけにはいかない。

「お前はいい奴だなぁ、橘」

 背中越しに、静かに、憐れみでもするような言葉が投げかけられる。雪瀬はついと眉をひそめた。

「俺、実はお前のこと気に入ってたんだぜ。淡白に見えてお前はとてもオヤサシイ。ひねくれているように見えて実に素直かつ誠実だ。興味深いぜ、天才の兄なんかよりもずっとなぁ」

 僧衣の袖がふわりと身体をかすめる。すれ違いざま、軽く男の肩と自分の肩が触れ、離れ。
 ぱたぱた、と床を跳ねる生々しい音がつかの間の静寂を破った。足元に赤黒い血痕が刻まれていく。いったい何が起きたのかすぐには理解できず、雪瀬は瞬きを繰り返す。男の薄笑いが耳朶を撫ぜた。ずぶりと身体から何がしかを引き抜かれる。
 刹那、たとえようもない激痛が身体に走った。危うく刀を取り落としそうになり、雪瀬は切っ先を床に突き立て、傾ぎそうになる身体を支える。そ、と脇腹に手をやった。ぬるりとした感触が手を滑り、みるみる視界を赤く染めていく。脇腹からせりあがってきた痛みに次第平衡感覚すらおぼつかなくなり、雪瀬は刀に取りすがるようにして地に膝をついた。あつい。あつくてうまく息、できない。息を喘がせ、苦しげに肩を上下させる。

「これで、俺の勝ちだ」

 ぬめりと鮮血に濡れる短刀を掲げ見せ、空蝉が宣言する。床にうずくまる雪瀬の肩をこつんと爪先で蹴りやり、空蝉は月詠を振り返った。

「知ってるぜ。お前がこんなところまで出張ってきたのは俺の首欲しさじゃない。欲しいのは俺の“しらら視の能力”、霊眼だろ? じゃあよ、殺すのはこっちで勘弁していただきたく。それで俺は助かる。お前は葛ヶ原のしらら視は消せるし、能力は手に入るわで一石二鳥。どうだ? 悪い提案じゃねぇだろう」
「…っの勝手に…」

 勝手に他人を身代わりに立てやがって。毒づこうとした言葉は半ばで途切れて消える。雪瀬は荒く息をついて、空蝉を仰いだ。悪いな、と男は懐刀についた血を袖でぬぐいながら応える。

「この盤面、お前が消えりゃあ、万事うまーく収まるようにできてんだよ。ま、ちょちょいと月詠を倒せるんだったら考え直してもよかったが、この感じじゃ無理そうだしな。――まぁ、ともあれ俺みたいな下種を信じたお前が悪い。この世は喰うか喰われるか、利用するかされるかって言ったろ。なぁ月詠?」
「……実にお前らしいな」

 状況を傍観気味に見守っていた黒衣の男は口元にうっすら笑みをたたえ、肩をすくめた。

「喰うか喰われるか、然りだ。しかし、それで俺がお前を見逃すと?」

 伏せがちな漆黒の眸がつと上げられる。狂気をすくい取ったような眸の色に、空蝉の笑いが凍りついた。

「ちょ、待て、待て、しらら視はここにいるんだぞ? おい、」

 空蝉は眼前で手を振りながら、たじろいだ様子で二、三歩、あとずさろうとする。が、それをはばむように男の大太刀が薙いだ。瞬間、空蝉の首が胴体を離れ、ごろりと床に転がる。ころころと跳ね返る男の首は雪瀬の眼前で止まり、その空虚な眸をこちらへ向けた。
 月詠は鮮血をふき出す胴体を横へ押しやるように大太刀を振ってどけ、床に倒れた胴体に更に太刀を突き立てた。骨を砕く音、肉をえぐる音、吐き気をもよおすような湿った破壊音が続く。目の前で繰り広げられる光景の凄惨さに雪瀬は呻いて、引っかかりがちの息をついた。身体から血が抜けたせいか、意識がぼんやりしてくる。焦点の定まらない視線を男のほうへと上げれば、ちょうどその切っ先が赤い臓を抉り出し、月光に映える白い手がそれを潰しているところだった。
 血を吸って赤く染まった白い腕を振ってみせ、男は血と同じ色をした唇を歪めて鮮やかに嗤う。右の黒眸を淡い色素が滲むように侵食し、やがて完全な紫に変わる。空蝉のと、同じ色だ。

「さぁ、次はお前の首か? 橘雪瀬」

 黒い羽織を翻してこちらを振り返ると、男は空蝉を斬った刀を今度はこちらへと向ける。脳裏でけたたましい警告が鳴った。防衛本能とでもいうべきか、雪瀬は茫洋としていた意識を何とか繋ぎとめ、ぐっと刀を握りこむ。――首。首なんかとられてたまるか。こんなところで死んでたまるか。だって今、後ろには彼女がいるから。彼女がひとりで、いるから。ここで死んでしまうわけにはいかないのだ。

「首、を取られるのは、お前だ」

 かすれがちの声をなんとか言葉に変えると、雪瀬は懐に手を差し入れ、探り出した符を放った。呪を詠唱する。風術師でない雪瀬が風を閉じ込めた符を扱うのは実は難しい。うまく強い風が出ることもあったし、淡い春のそよ風のようなものしか出ないこともあった。――出るか。出ないか。結果は、ふたつにひとつ。ならば賭ける他ないと、賽を投げる。
 出ろ、と祈るように呟けば、ふ、と漂う符の一枚が空に融け、烈風が立ち起こった。

「愚かな」

 月詠はつまらなそうに吐き捨て、黒い羽織から血に染まる右腕を出した。黒鞘から少し刀身を引き抜き、そこに軽く指を這わせる。猛り狂う風が男に迫るが、それは宙にかざされた右腕に触れたとたん、吸い込まれるようにしてふつりと消えた。吸い込まれる、否、風と風がぶつかりあい、相殺されたのである。風が途切れる。風が消える。風が絶える。
 男は袖をばさりと振って、腕を下ろす。雪瀬は愕然とした。風音が完全に絶えた静寂の中、からのこぶしを握りこみ、目を伏せる。
 降って出た賽の目は、あまりにも絶望的な。
 ――万策尽き果てた。