四章、空蝉



 二十二、


「“俺の”だと、言ったな」

 ひんやりした太刀が首筋にあてがわれる。はずみ、雪瀬は喉に引っかかり気味の咳を繰り返した。口元をおおった手のひらを血が絡まり落ちる。口内を鉄錆にも似た嫌な味が広がった。もはや抵抗するだけの力もなく、雪瀬はぐったりその場に倒れ付したまま視線だけを声のしたほうへ上げる。

 月詠は冷めた眸で床に伏すこちらを見下ろし、大太刀を鞘に戻して床に放り投げた。残った細身の刀のほうを古びた黒鞘からすらりと抜いて、腰をかがめる。

「ならば、死地へはこの刀で運んでやろうか」
 
 囁く声はさながらひとの魂を取る悪鬼のごとく。月光を弾き、鈍く刀が光った。鏡のように磨きぬかれた刀身の一部には、赤茶色に錆び付いた古い血がこびりついている。

「――っ返せ」

 反射的に手を伸ばすも、あと少しのところで男によけられてしまい、刀には届かない。虚空だけをつかむ手のひらを雪瀬は握りこむ。歯がゆかった。ずっと欲しかったものが目の前にあるのに、届かないのだ。俺はそれを前に死にゆかねばならないのだ。雪瀬は握りこんだこぶしはそのままに眉根を寄せた。
 月詠はこちらの反応にひどく満足した様子で嗤い、微かな衣擦れ音とともに腰を上げた。ひゅっと風切音が空を裂く。その音をはっきりと知覚する前に刀が頭上から振り下ろされた。死を覚悟して、雪瀬は目を瞑る。

「――……?」

 だが、予想していた衝撃はいつまでたっても襲ってこない。うっすら眸を開けば、直前で刀がぴたりと止まっていた。雪瀬は不思議そうに宙に浮いている切っ先を眺め、それから、そ、と眼前に立つ男をうかがう。仰ぎ見た男の横顔が一瞬忌まわしげにゆがみ、瞬間、その頬を何かがかすめた。銃声の乾いた音が夜闇を引き裂く。
 ――銃声?
 雪瀬はぎくりとして音の鳴った方向へ半身をひねらせた。

 内廊下の奥のほうに、小さな人影が壁にすがるようにして立っている。うまく歩くことができないのか、右足をびっこをひくようにして、こちらに歩み寄ってくる。見れば、水浅葱の着物の右太腿あたりがぐっしょり鮮血に濡れていた。
 さくら、と口の中で呟き、雪瀬は咎めるような視線を少女へと向ける。出るなと言ったのに、どうして来たのかと。戻れという意味を暗に含ませて。
 けれど桜は小さく首を振ると、こちらのほうへほとんど転がるように駆け寄ってきた。あたりに広がる鮮血に驚いた様子で瞬きを繰り返したあと、そろそろと手が伸ばされ、脇腹の傷口に触れるか触れないかのところで下ろされる。

「……や、……いや、」

 嗚咽まじりの悲鳴がこぼれ落ち、桜はひどく怯えた様子で何度も首を振る。緋色の眸にみるみる涙が溢れ、彼女が首を振るたびはらはらと空に散った。半身を起こしたこちらの肩にすがるように顔を押し当ててくる少女を雪瀬はぼんやり眺める。ほとんど消えそうな微苦笑を滲ませると、その頬に手を伸ばした。びくりと桜は顔を上げ、泣き濡れた眸を不安そうに揺らす。溢れた涙が頬に添えた手の甲を伝って、彼女の足元に落ちた。
 本当はだいじょうぶ、と言いたかった。彼女がたくさん泣くから。大丈夫、だから泣きやんで、泣くのやめて、と、嘘でもいいからそう言ってあげたかった。雪瀬は桜に泣かれるのが苦手なのだ。彼女が泣くとどんな願いでも叶えてあげたくなってしまう。
 雪瀬は一度固く目を閉じると、桜から手を離す。彼女の肩に手を当てて、無理やり自分から引き離すようにした。

「臙井地区城川通りの空蝉邸。いい? 覚えられるな?」
「や、」
「ちゃんと聞いて。……そこ行ったらたすけてもらえるから」
 
 たすけてもらえる、と喘ぎながら繰り返す。けれど桜はしゃくりあげながら何度も首を振ってその場を動こうとしない。本当、お願いだから言うこと聞いて、と雪瀬は半ば懇願するように言った。早く、早く逃がさないと桜まで殺されてしまう。

「――鵺」

 そのとき、闇夜にひとつ呼び声が落とされた。何かを懐かしむような、いとおしむような、くるおしい響き。桜は小さく肩を震わせ、男を振り返る。

「鵺、だな。籠から逃げた鳥」
 
 語りかける男の艶とした声に、桜は表情を凍りつかせた。緋色の眸は見る間に澄みゆき、感情の色がふつりと消え失せる。声を失し、ぎゅっとこぶしを握りこむも、小さな体躯はかわいそうなくらいに小刻みな震えを繰り返した。
 こわいこわいにげてしまいたい、と身体ぜんぶがそう言っていた。それでも彼女は動こうとせず、あまつさえこちらを庇うように前に出る。桜はどうにかして雪瀬を守らなければならないと思っているらしかった。

「ようやく見つけた」

 男の手がおもむろに差し伸ばされ、思わず身を引きかけた少女の細い腕をつかむ。その手の甲にいとおしむように唇を食ませ、ようやっとだ、と男は繰り返す。――彼女は動かない。震えて、緋色の眸からぽろぽろ涙をこぼしながらも動かない、悲鳴ひとつ上げない。華奢な背中に見たのは、脆くて今にも崩れてしまいそうなくらいの、けれど強さだった。雪瀬ははじめて目の前の少女を守ってあげたいと本当の意味で思った。

 ぱらぱらと腐りかけた天井から木屑が落ちる。頭に振りかかるそれを見やって、雪瀬は手元に視線を落とす。先ほど女将が足をぶち抜いてしまった床板がこのへんにあったはずだ。おぼろげな意識、散らばりそうになる思考を必死にまとめて、雪瀬は懐に手を入れる。先ほど使った符の残りがまだ数枚あった。血にぐっしょり濡れたそれをつかみ、「さくら」と身を起こしながら少女を呼ぶ。
 ふ、と桜は眸を瞬かせる。それから、泣きそうな表情になって目を伏せた。小さな身体を抱き寄せると、雪瀬は月詠を振り仰ぎ、袂から抜いた符を放つ。 

「効かないと言っただろうに」

 月詠は忌々しげに舌打ちし、黒羽織から伸びる白い腕を眼前に突き出す。だが、雪瀬は宙に浮いた符を掴んで下ろし、その手を床につけた。古聖語の呪詞を紡げば、手の下で符がゆらりと融け、瞬間、烈風が床板を裂く。

「落ちろ」

 うねるような亀裂が床板に走り、月詠の足場が崩れる。轟音とともに床が一階になだれ落ち、それに巻き込まれるようにして黒衣が消える。廊下にぽっかり開いた穴からしゅうと煙が上がり、うひゃあとこんな惨劇の中、気づかず眠っていたらしい一階の旅籠の主人夫婦が布団から起き上がって悲鳴を上げた。
 なんだなんだと騒ぎまわるふたりを穴から見下ろし、「早く外出て」と雪瀬は命じる。

「それで臙井地区城川通りの家の橘颯音に伝えて、月詠がここにいると」

 畳み掛けるように言えば、ふたりはこくこくと首を振り、寝間着のまま外に飛び出していく。それを見送り、雪瀬は未だ血の止まっていない傷口を手で押さえてよろよろと立ち上がった。何とか落ちずに床に転がっていた刀を拾い、階下の瓦礫へ一瞥を送る。
 そこにあるのは静寂。否、沈黙。男の気配はまだ消えていない。
 壁に手をついて身体を支えるようにしながら、雪瀬は階段を使って下に下りようとする。しかし数歩もいかぬうちにその袖端をついとつかんで引きやられた。桜はぎゅっとこちらの袖端を握りこんで、絶対離すもんかとばかりにふるりと大きくかぶりを振った。
 苦笑し、その頭に手を置く。

「桜はここにいて。すぐ、終わるから」

 とにかく颯音が来るまでの時間稼ぎをしなければならないと思った。雪瀬は袖を軽く振って桜の手を離し、刀を腰に佩く。
 がらがらと瓦礫の残骸が一部、崩れて散開した。思ったよりも動けるようになるのが早かったらしい。残った一枚の符を握り締め、雪瀬はそちらに神経を傾ける。瓦礫の山から焼き印に爛れた白い腕が伸びる。宙を彷徨うそれを見据え、呪の詠唱をしようと口を開いた。
 ――そこへ横薙ぎの風が走る。

 雪瀬の詠唱はまだ終わっていない。錯覚でも起こしているような気分に陥って目を瞬かせ、雪瀬はあたりを見回した。

「おい、雪瀬、大丈夫か!?」
「――扇?」
「うわわわ、大丈夫雪瀬っ」

 扇に少し遅れて透一が廊下を駆け上ってくる。中央に開いた大穴に一瞬ひるんでから、透一は横壁を伝ってこちらに走り寄った。

「う、わ。何、ちょっとちょっと血っ!? 大丈夫なのっ? あや、ちょ、桜ちゃんも」

 透一はわたわたと憔悴した様子で雪瀬と桜を見比べる。その間にも幾度となく轟音の飛ぶ階下に気づいて、心配げにそちらへ視線を投げかける。

「だ、大丈夫ですか、颯音さん!」
「全然よろしくないよ。あちらが逃げてしまった」

 颯音は嘆息し、組んだ印を解いた。

「俺は彼を追う。ゆきくんは怪我人のことをよろしくね」

 手馴れた様子で命令を出してから身を翻しかけ、そこで不意に翳りを帯びた琥珀の双眸がこちらの姿を捕らえた。何だか疲れたようなため息がつかれたあと、「……感謝なら扇と薫ちゃんにすること」と颯音は短く言う。

「それから俺が帰ってきたとき死んでたら、骨は馬糞と一緒に捨てるからね」
「……ばふん、」
「わかった?」
「――はい」

 兄の空気に圧されて、雪瀬は素直にうなずく。それを見取って颯音はひらりときびすを返した。衛兵の隊があわただしくそれに続き、あっという間にいなくなる。

「だってさ。ほんと扇さんは偉いよねぇ」

 少し落ち着いてきたらしく、透一はしみじみといった様子で呟いた。――そうか、扇。逃げ出したのかと思ったら、颯音たちを呼びに行ってくれていたらしい。こちらを心配そうに見上げてくる白鷺へ目を移して、雪瀬はありがと、と苦笑をこぼした。

「雪瀬、肩かす? それとも自分で歩ける?」
「……歩ける」

 と、答えたとたん、力が抜けてその場にへたりこんでしまった。

「――うん、重傷だ。扇さん、瀬々木さんを呼んできて。僕、止血する」

 透一は白鷺に命じると、雪瀬のかたわらにかがみこむ。

「雪瀬、そこ寝て。脇?」
「ちょっと待った、待って。い、痛いのやだ。瀬々木待つ瀬々木待つ、」
「もーわがまま言わないのっ」

 透一にぺしりと額を叩かれ、雪瀬はしぶしぶ口をつぐむ。身体を横たえると、透一は袖まくりをして上着の布を引き裂きつつ、「うーん、とりあえず血が流れる前に塞いじゃったほうがいいのかなぁ。糸とか針とか……」とごにょごにょ呟く。――糸! 針! 雪瀬は空恐ろしくなってもう何も考えないことにした。

「我慢してね、すぐ終わ――」

 と、何かに注意を引かれた様子で、透一は言葉を止める。彼の視線をたどり、雪瀬は少年の上着の端を心配そうに握っている少女を見つけた。
 桜は目元を手の甲でごしごしこすりながら、苦しげに嗚咽を繰り返す。何かを口にしようとしているらしいが、そのたび言葉は喉に引っかかってうまく言うことができないらしい。
 泣き喘ぐ少女の姿に、雪瀬と透一は顔を見合わせる。それから苦笑し、雪瀬は手招きして、こちらのかたわらにしゃがみこんだ桜の頭を撫ぜた。

「大丈夫。もう怖くない。大丈夫だから」

 泣くなと続けたかったのだが、その前に視界が揺らいで、そのままふつりと意識が途切れた。







 空が明るみ、月の光が失せた頃、彼女はそこに戻ってきた。

 旅籠は外観こそ変わらないが、中を見やると二階の床が半分ほど落ちていて、その落下部分にあたる一階は半壊し、ほとんど瓦礫と化している。夕方、男が空を眺めて腰掛けていた窓枠はどこにもなかった。男の姿もどこにもなかった。――いや。そこには。

「空蝉さま……」

 変わり果てた骸を抱き、沙羅の名を持つ少女はそれでもかの男の名を繰り返す。静謐と、朝の陽射しの降り注ぐ中、少女の嗚咽だけがいつまでも途切れることがなかった。



 のちに人形師の怪死と都でひそやかに噂されるようになる今回の騒ぎは、最終的に十余名にのぼる死傷者を出すに至る。翠楼に張っていた葛ヶ原勢で命を取り留めたのは暁と雪瀬だけ、駆けつけた橘颯音は兵を率いて朝まで捜索を続けたが、黒衣の占術師は闇夜に乗じて逃げおおせ、こうして事件は一応の終結を見る。それぞれににわかなる疑惑と不信、爪痕と、それから新たな感情を残しながら。