終章、光



 一、


 きりりと矢をつがえた弦が鳴る。
 濃茶の双眸が的を捉え、矢が放たれた。
 矢は的の中央へとまっすぐ飛揚する。とん、と的の真ん中を射抜いた矢を青年は澄み切った眼差しで見据える。衣擦れひとつたてず、弓を下ろした。
 濡れ縁に座ってそれを見ていた薫衣はほいよと青年に手ぬぐいを渡す。

「ありがと。待たせた?」
「いんや、さっき来たとこ。精が出るなぁ」
「――ただの暇つぶしなんだけどね」
「ふぅん、格好よろしい暇つぶしだ。風術師なら風で矢を飛ばせばいいのに」
「無茶言わない。それに弓を介すのが楽しいんだよ」

 颯音はそばに控えていた男に弓を渡すと、手ぬぐいを首元にあてがった。

 橘颯音の“暇つぶし”、もとい趣味は碁とお歌、あとは弓である。先のようなことを言ったが、薫衣は男が弓を引く姿が好きだった。的を見据える冴え冴えとした眸の色も、弓を引くときにつかの間彼がまとう静謐とした、それでいてどこか厳しく鋭い空気も。薫衣は青年の横顔に素直に見とれる。弓を構えている青年は決してこちらを見たりはしないので、薫衣はそのときだけ彼の姿をとっくり眺めることができた。
 矢が的を射れば元通り、薫衣はいつもの悪態をつく。

「弓って楽しい? 私は棒を振って、ばったばったとひとを薙ぎ倒していくほうが血潮たぎるけど」
「やだなぁ、薫ちゃん。野蛮めいた呟き」
「うるさいな」

 颯音が濡れ縁に腰掛けると、老婆が冷えた茶を持ってきた。宗家の使用人なのだろう。楚々と立ち去る老婆を見送って、薫衣は話を切り出す。

「空蝉の件の事後処理が終わったから、報告に参った」
「続けて」
「死者は十余名。みな、翠楼の周りを張っていた兵だ。それと空蝉。亡骸は胴体部分しか見つかってないが、奴であることは間違いないだろう」
「みしるしは“彼女”が持ち去ったかな」
「だろうな。さりとて別に害はない。負傷者は二名。暁と雪瀬だな。――なぁあいつらどうしてるの?」
「ふたりとも療養中だよ」
「ふぅん……。あと、これ透一から」

 薫衣は板敷きにばんと紙の束を置く。軽く数十枚はありそうな紙の束はすべて毬街の自治衆の印が押してあり、法外な金額が並んでいた。颯音はひとつ眸を瞬かせ、「これ、何?」と問う。

「月詠を追っていた際に破壊された建築物の修繕費。全額そちら持ちでよろしくお願いします、だとさ。金のやりくりにゆき、泣いてたぞ」
「あぁー、うん」
「おまけにそこまでやっといて肝心の月詠は取り逃がすし!」
「……自分の至らなさは自覚しております」
「嘘だ、嘘。全然自覚してない。お前のようなふてぶてしい人間が自覚するわけがないっ。この私の目をごまかせると思うなよ。そもそもだなぁ」
「ご免」
「ゆきの奴は側に置いておいてこの私をあの場に連れてかないってのが納得いかな、って、ん?」

 小言の合間に入った颯音の声に遅れて気がつき、振り返った薫衣に「ごめんね?」ともう一度彼が謝る。一瞬ぽかんとしてしまってから、薫衣は眉をひそめた。

「……何か、悪いもの食べた?」
「宗家の食事はいつもおいしいよ」
 
 颯音は苦笑し、肩をすくめる。――この様子だと本当に、真面目に反省をしているらしい。肩透かしを喰らい、薫衣は振りかけていたこぶしを若干持て余し気味におろした。深くため息をつき、中庭へと視線を向ける。

 空蝉邸よりもわずかばかりは手入れのなされた庭では、雑草に混じって庭木が枝を天に向かってまっすぐ伸ばしている。晩夏でありながらもなお強い陽射しに、茂った木々の緑が照り映える。そよりと風に吹かれてひとひら落ちた葉が視界を横切った。空を漂い、やがて濡れ縁に落ちたまだ若い葉を薫衣は目を細めて眺める。

「――たくさん、失ったな」

 ふと、こぼれ落ちるようにそんな言葉が漏れる。颯音は特に何も言わない。そうだとも言わないし、違うとも言わなかった。おもむろに板敷きに落ちたまだ若い葉を手にとり、颯音はその柄をくるくると無為に回しながら、ただ少し眸をすがめた。青年の手元を眺めながら、薫衣は胸をくすぶる罪悪感にも似た気持ちをまぎらわそうともう一度ため息をついた。

 死傷者が十余名。――その数は未だ深い挫折をしたことのなかった薫衣にとってあまりにも大きいものだった。自分の、――無論薫衣がひとりで決めたわけではないのだが、自分が一端を担った裁断で、今回大切な兵を失ってしまった。ひとりやふたりじゃない。十人以上だ。何か、事を為すには犠牲もやむを得ないと覚悟していたとはいえ、そう考えるのと実際十余人の死を目の当たりにするのとでは違う。わたしのせいでひとが死んでしまった。……違う、そんな風に考えてはならないと、わたしのせいなんて言い方はあまりにも高慢だと、自分に言い聞かせているのに、その念はふとしたはずみにどうしても胸を突く。
 何かもっとやりようがあったのではないかと、もっとよい方法があったのではないかと、そう思えてならないのだ。こうして安穏とした日々が帰ってくると、その思いはいっそう強くなる。情けない。悔しい。薫衣は彼らを守ることができなかったのだ。助けることができなかったのだ。そんな現実を突きつけられるのがつらい。

「きみは少しものを背負い込みすぎてしまうよね」

 不意に柔らかな苦笑が落ちたあと、ぽんと軽く頭に手を置かれる。薫衣は眸を瞬かせ、男を仰いだ。

「だっ、」
「“だって”は要らない。過ぎたことを言うのも悩むのも不毛」
「……っそりゃあなたはいいかもしれないけど、」
「そう、俺がいいと言っているのだから。いいんだよ、五條薫衣」

 彼の声はどこまでも厳しく冷たく、最後だけが仄かに優しかった。ともすれば見落としてしまうほどの違い。
 薫衣はこぶしを握りしめて眉根を寄せる。これ以上繰り言を連ねて醜態をさらすのはよくないと思った。こんなときだけ女子みたいに泣き喚くのなんてまっぴらごめんだ。薫衣は奥歯を噛んで、湧き上がる衝動に耐える。肩が少し、震えた。
 颯音はそれをしばらく眺めて。さらりと薫衣の淡茶の髪を撫ぜやってから手を離した。あとは何事もなかったかのように湯飲みに口をつける。そのさりげない気遣いは、少し苦しい。


「――……雪瀬さ、」
「うん?」
「気づいちゃったかな。黒衣の占術師が黎だったってこと」

 大丈夫かなぁ、と颯音は中庭へと視線を投げかけながら呟く。最初は意図的に話題を変えてくれたのだと思ったのだが、否、そういうつもりもあるにはあったのかもしれないが、彼の横顔によぎったのは純粋に相手を心配する表情だった。嘘偽りのない。
 なんだか珍しいあるじさまの表情に、胸にわだかまる気持ちに反しておかしくなってしまい、薫衣はきつく寄せていた眉根を少し和らげた。

「……お兄さまは心配性だな」
「それは心配だよ。世の中ってね、見なくていいものがあるように、知らなくていいこともあるでしょう」
「だから言わなかったの?」

 薫衣は颯音をうかがい、尋ねた。相手は微苦笑を滲ませて顎を引く。
 黒衣の占術師月詠が、五年前雪瀬が幼馴染を失う原因ともなった白雨黎と同一人物なのだと薫衣たちが気付いたのは数年前のことである。参内した薫衣たちの前に男は現れ、平然と月詠の名を名乗った。最初はたちの悪い冗談としか思えなかった。が、男はどういう手段を使ったのか、この短い時間の間に帝に取り入り、その地位を確固たるものにしていた。
 颯音はそのことを弟に秘した。教えてやればいいのに、と薫衣は言ったが、頑固なこの青年は耳を貸さない。そうまでして颯音が何を守りたかったのか。わからないものの、先日の件でついに真実は明るみへと出た。

「心配なの? 雪瀬のこと」
「まぁそこそこにはね」

 嘘だ。それはめちゃくちゃ心配している顔だ。

「……あいつはもう子供じゃなかろうに」

 薫衣が呆れて嘆息すると、そうかなぁと颯音は困ったように笑った。

「子供だと思うけどね。俺は」

 それこそ、そうかなぁ、である。かの少年は歳に似合わぬある種の諦観の念が色濃くあり、そしてまた、どこか刹那的なものの考え方をする。一言でいうなら、可愛げがない。まさかこの青年の“子供”の基準は何か間違っているんじゃないだろうか、もしや薫衣まで子供か何かと勘違いしているのではないかと著しい疑念に駆られるにいたって、薫衣はふと別のことを思い出し、はたと手を打った。

「なぁ、そういやさ」

 疑念といえば。

「月詠はどうして空蝉の居場所がわかったんだ?」

 それは事後処理の際に改めて浮上した疑問だった。
 考えてみれば、月詠は空蝉が葛ヶ原に助けを求めたことすら知らなかったはずである。否、万が一あらぬ筋からそのことが漏れていたとしても。颯音たちはその可能性すら見越して、空蝉を翠楼に移し、幾人もの見張りをつけた。すべてを知っているのは葛ヶ原でもごく少数である。月詠が空蝉の居場所を知りうることは不可能、であるはずだった。

「さぁ。どうしてだろうね?」
「どうしてってさぁ」

 青年の物言いに薫衣は呆れた面持ちになる。問いを連ねようとすれば、何故か目の前の男はそっと淡く微苦笑を浮かべ、その質問自体がまるで禁忌であったかのように、やんわり薫衣の口元に人差し指を当てた。薫衣は思わず口を閉じる。

「もしかしたら悪い虫がわいたのかもねぇ」

 意味深な言葉をどう解釈したらよいのか、薫衣が珍しく考えあぐねているうちに、「さて」と颯音は腰を上げた。

「――出かけるの?」
「ちょっと。野暮用」

 颯音は一旦部屋に戻ると、衣桁にかかっていた黒羽織をとる。袖を通しながらまた濡れ縁に出て、沓踏石に揃えてあった下駄に足を入れた。こんな昼間からどこに行くというのか。尋ねようとしてから、不意に思い当たるところがあって、薫衣は口をさしはさむのをやめた。

「それでは行って参ります」
「お供は?」
「いらない」

 短く答えて、彼は季節に似合わぬ黒羽織をひらりと返す。
 次第小さくなっていく青年の背中を見送り、薫衣は苦笑気味に嘆息した。
 黒服は、喪の証。
 ――知っている。このひとが亡くなった衛兵の家族のもとに幾度となく通って話を聞いてあげていること。稼ぎ手のいなくなってしまった家を陰日なたとなって援助してやっていること。それから、彼らの墓にひとりで何度も足を運んでいること。知っている。知っているよ。
 
「だって私のあるじだもの」

 薫衣は大きく伸びをし、青空へと語りかけた。
 燦々と降り注ぐ陽光に眩しげに目を細める。刻々と移りゆく青い空を薫衣は静かに眺めた。