終章、光
二、
雪瀬はあれからずっと眠り込んだままだった。
まぁたぶんきっとどうにかなるだろ、と雪瀬を診た瀬々木は何だかとても適当なことを言っていたが、目を覚まさぬ少年がやっぱり心配で、桜とそれから扇はかれこれ数日雪瀬のそばを離れることができないでいた。三日目、それまで傍観を決め込んでいた老女中も痺れを切らしたのか、お粥くらいお食べなさい、と桜の腕をつかんだ。引っ張って部屋から連れて行かれそうになるも、桜は首を振って、ここにいる、とかたくなに言い張る。老婆と目をあわせ、ここにいる、ともう一度いつもよりはっきりとした口調で告げる。思わずといった様子で老婆が腕を離すと、桜はまた雪瀬のかたわらに駆け戻った。
「……まったく変な子でございますね……」
老婆は未知の生き物と遭遇したような顔をした。思えば、いつも不快そうな視線を桜に向けてくるだけのこの老婆が口を利いたのは今日が初めてではなかったろうか。
「橘の第二子に取り入ったところでたいした価値はございませんよ」
「カチ?」
「あなたにとっての利益、という意味です」
「りえき……」
利益、とは確か自分にとってよいこと、という意味であるはずだ。変なことを言うひとだなぁと桜は思う。雪瀬のそばにいることは桜にとってすごくしあわせなことなのに。それに、桜にとってのいい悪いをどうして他のひとが決めるのだろう。不思議そうに桜が首をかしげると、老婆は呆れ果てた様子で嘆息した。そのまま部屋を出て行ってしまったので、また自分がおかしなことを言ったのだろうかとか、ちゃんと反応を返せなかったのがまずかったのだろうか、とかいろいろと考えていると、まもなく老婆はお椀によそったお粥を持って部屋に戻ってきた。それをほとんど無理やり桜に受け取らせる。きょとんとした桜に、お食べなさい、ともう一度そっけなく言って老婆は去った。
いったいどんな心境の変化だったのだろうか。そのあともかかさず、老婆はお粥を持ってきてくれるようになり、また桜をきちんと名前で呼ぶようになった。
扇は基本的には食べることを必要とはしないので、桜はひとりでお粥を口に運ぶ。お椀をからにすると、桜は雪瀬の額に乗った濡れ手ぬぐいに手を置いた。手ぬぐいはもうずいぶんと温かくなってしまっている。取って代えてから、桜は雪瀬の熱っぽい手をきゅうと握り締めた。――どうか痛いのが少しでも和らぎますように。早く起きてくれますように。
「あ。こおり……」
視線を戻したところでたらい桶に浮かぶ氷がもうほとんど融けかけていることに気づいた。こおり、と桜はひとり途方にくれて呟き、雪瀬の手をひとまず布団の中に戻す。枕元でうとうととしている扇を抱き上げ、かけ布団の中に入れてやると、桜は部屋を出た。
氷はいつも件の老婆が運んできてくれていたので、いったいそれ自体がどこにあるのか、桜には見当がつかなかった。試しに庭のあたりをひょこひょことびっこをひきつつ探し回ってみたが、やっぱり見つからない。確かにこの暑さなら氷も水になってしまいそうである。
こおり、こおり、と屋敷中をあちこち見て回ってから、北に面した場所で土間を見つけて、桜は「あ」と声を上げる。瀬々木の家にいた頃の感覚だが、なんとなくここならありそうな気がする。――基本的に勘任せの動物的思考をするのが桜なのだった。
瓶やら壷やらをひっくり返してみながら、目当てのものを探す。けれど、大きな壷を動かして場所をずらしたはずみに足がずきりと疼き、体勢を崩した。そのまま受身を取り損ねて三和土(たたき)に顔面から突っ込んでしまう。
うう、と痛みに顔をしかめつつ、桜はすった額に手をやる。それから太腿におそるおそる手を這わした。ずきんと脈打つような痛みが走る。着物で隠れているので見えないが、太腿には幾重にも包帯が巻かれている。傷口自体は大きくはないのだが、銃弾が一発貫通したのでとても深いのだという。空蝉の“ねむれ”という言葉をきかぬよう、たいした考えもなく自分で撃ったので、あのあと透一と瀬々木と扇にたくさん怒られてしまった。……でもあのときはしょうがなかったのだ。と、桜は珍しくむきになって意地を張っている。
「よーよー夜伽、久しぶりー! ご機嫌麗しゅう!」
と、がらりと正面の戸が開かれ、いきなり場に不似合いなくらいの明るい声が頭上から降った。
「いやー、くそ暑いから冷水の一杯くらいいただけないかとひとを探してたんだけどさぁ。お前の人影が見えたから急いで追ってきてやったんだぜー」
説明しながら、ずかずかと土間の中へ入ってきた声のぬしはそこで不意に足を止め、あたりを見回す。
「あれ? いない。……と思ったら、いた。地べたで何やってんの、お前」
「……ころんだ」
かがみこんだ青年へ桜は前後の経緯というものを一切省略した答えを返す。真砂は一時いぶかしげな顔をしてから、ぽんっと手を打った。状況を察したらしい。
「……っ…うっわ馬鹿だ、馬鹿がいるっ。だって家の中で転ぶか、普通―? それも顔面から! うひゃひゃひゃ笑える、お前蕪木の阿呆といい勝負だぞ! ふたりで阿呆勝負しろよいっそ!」
ひーおかしいーと青年は身体を九の字に折って腹を抱える。笑いがつぼにはまってしまったようだ。何だか妙なひとだな、と思いながら桜が半身を起こそうとしていると、青年が「ほいよ」と眼前に手を差し出した。桜はびくりを肩を震わせる。刹那、ほとんど条件反射で桜は青年の手から逃れるようにあとずさりした。――今では幾分改善されてきたとはいえ、桜はよく知らない人間に対して興味より前に恐怖のほうが浮かんでしまうのだ。ましてつい先日、目の前で慕っている少年が傷を負ったとあっては警戒心が強くなるのも致し方ない。
さながら毛を逆立てた小さな猫のごとく、警戒混じりの視線を青年に向かって跳ね上げれば、青年は宙に浮いた手を見つめて、はて?と首をかしげた。
「え、何。もしかしてお見舞いが遅れたからめちゃめちゃ怒ってるん?」
「おみまい?」
「ってか無礼なことこの上なくね? せーっかくこの俺さまが遠路はるばる桃と栗を担いでやってきてやったってのに。これだから野良猫サマは」
その独特の皮肉り方に微かに既視感を抱き、桜は目を瞬かせた。思い返せば、濃茶の髪に、濃茶の眸、明らかに誰かの面影を持つ風貌は少し見覚えがあるような気がする。
「んん? あーれ? そういや寂しくて死ぬのって猫だっけ? 兎だっけ? お前知ってる?」
それからこのぽんぽんとあっちこっちへ話題が飛ぶようなお喋りも。少しどころか、何だかとても覚えがある。もしかしてどこかで会ったことがあるのだろうか。親しげに喋りたてる青年をじぃっと凝視し、桜は考える。寸秒記憶をたどってみた末、だめだと匙を投げた。あのね、と青年の袖の本当に端を桜は指先でつまむ。
「はいはいなぁに。ふところが広いことで有名なこの俺さま、質問なら随時受付中ですぜー」
「だれ?」
葛ヶ原の橘一門分家の嫡男にして当主、橘真砂(たちばな まさご)。性別男。齢十七。あの馬鹿の従兄だ、従兄。――という話をあちらこちらに発展しつつ長々と説明されて、ようやくこの青年が以前毬街で追いかけっこをしたあの青年と同一であることに思い至った。そういえば、あのときもこんな風に長々と似たような説明を受けた気がする。
「別にいいけどね、いいけども? そうだよな、偉大なる夜伽さまはこんな小庶民覚えてませんものね。あーあーよぅくわかっておりますとも。俺ってば橘一門なのに姓も忘れられてるような影の薄い男ですよ、ええ骨の髄までよぅくわかっておりますともよ!」
ぶつぶつと文句を吐き散らしながら、真砂はほいよと桜のほうへ大きな風呂敷を放り投げる。自身は筆を取り出しつつ、携帯用の墨壷のふたを開けた。
危うく取り落としそうになりながら、桜は風呂敷包みを受け取る。結び目をほどいて開くと、大きな桃と栗と茶筒が出てきた。
「お見舞い品。瓦桃と梅こぶ茶と甘栗」
なんだろうと思って桜が桃を手にとってみたりしていると、椿の花紋のついた墨壷に筆を浸しながら半身を振り返らせて真砂が説明する。
「俺、どこかの失礼な夜伽さんと違って礼儀正しいからさー。きちんとお見舞い品まで持参しちまいましたぜ」
「――……さくら」
「んあ?」
「夜伽じゃ、ない。私のなまえ」
俯きがちになりながら、それでもかたくなに言い張れば、ひとつ眸を瞬かせたあと、真砂は何故だか楽しそうに口角を吊り上げた。
「へぇ、言うようになったじゃーありませんか。――桜サン」
付け足しのようにこちらの名前を呼ぶと、真砂は機嫌がよさそうに鼻歌なんかを歌いながら土間を出る。桜は桃と栗とをたらい桶の中に置くと、寸秒考えあぐねてからひょこひょこ足を引いてそれを追った。
「なぁ玄関あっちー?」
「んと、」
「こっち?」
「……そっち?」
「どっち?」
どうやら方向音痴の気があるのはふたりともであったらしい。
何せ橘の屋敷は広い。しかも似たような館、棟がたくさん連なっているので、ひとたび迷うとわけがわからなくなってしまう。桜など、未だに時折自分の部屋に帰れなくなってしまうことがあるくらいだ。
「んー、あっちかな。いや、俺の勘はこっちと言っている」
――らしいので、桜は口を挟まず青年のあとにくっついて歩く。よいしょ、と抱え直したたらい桶の中に視線を落とした。茶筒と栗の他に、瓦桃、と先ほど真砂が呼んだ桃がふたつほど並んでいる。ほんのり薄紅色をした大きな桃だ。
「真砂。雪瀬と仲良しなの?」
この前も毬街に訪ねにきてくれたし、今日もお見舞いと称してわざわざ屋敷を訪ねてくるくらいなのだからすごく仲がいいのかな、と思って尋ねる。前を歩く青年がぴたりと唐突に足を止めた。危うくぶつかりそうになってしまい、桜は目を瞬かせて顔を上げる。
「いんやー? むしろ……、控えめに言って大っ嫌いかね」
真砂はにっこり笑って、吐き捨てるように言った。その表情と言葉とがあまりにもそぐわず、桜はしばらく言葉を失ってしまう。だいきらい。好意を抱いていないにせよ、あまりにも強い否定だった。むしろ嫌悪すら抱くような。
「どうして?」
桜は歩き出してしまった真砂を追いかけながら尋ねる。
わからない。雪瀬のいったいどこを“大嫌い”になってしまうというのか。なんだか大切なものを傷つけられたような気分になって、どうしてと桜は繰り返す。
「さぁ、知ーらね。嫌いなモンは嫌いだもん俺。ついでにいうとぴーちくぱーちく騒ぎ立てる雛鳥も嫌い」
びしりと筆先を額に突きつけられる。有無を言わせぬその口調に、桜は思わず口をつぐんだ。――雛鳥? 何で突然雛鳥なのだ? 第一、ぴーちくぱーちく騒いでいる雛鳥なんていったいどこにいるんだろう。桜は考え込み、あたりを見回す。早く見つけて静かにするように言わないと。
「桜サンってさ、すっごく阿呆の子だよな!」
「ふぇ?」
「って、おー。あったあった、入り口!」
あたりをきょろきょろと見回してから、んん?と己を顧みる。自分のことを言われたのだ、とようやく気づいた頃には青年は一目散に玄関のほうへ駆け寄っていってしまったあとだった。
|