終章、光



 三、


 さぁて、と真砂は何かを測るように空を見上げてから、おもむろに玄関近くの柱に筆をつける。仮にも宗家の玄関口に落書きをしてしまっていいのだろうか、と桜は心配になったが、真砂のほうは鼻歌を歌いながら機嫌よく筆をさらさらと動かしていく。
 槍を持った衛兵が前を通った。
 怒られてしまう、と身をすくめるも、衛兵はちらりとこちらのほうへ視線をやると、うやうやしく頭を下げ、「ご苦労さまです」と労いの言葉をかけた。ご苦労さま?、と桜は目を瞬かせる。落書きをして、何故“ご苦労”なのだろうか。

「何やってるの?」

 青年の袖端をついと引いて尋ねてみる。

「んー? あぁ結界ですよ」
「けっかい?」
「そう。前に一度見せたことあったと思うけどなー。ま、鳥頭の桜サンじゃ忘れてるんでしょうけど!」

 桜はむっとなって口を閉ざす。だけども、真砂の名前を忘れていたくらいなので、結界というものを見た記憶などさらになかった。これは鳥頭と言われてしまっても仕方がないのかもしれない。
 今度は忘れないようにしよう。そう心に決めて、桜は青年の筆の動きをじっと観察する。どうやら筆先に浸されているのは墨ではなく水であるらしい。真砂が筆を滑らせても、柱に茶色い水の痕が残るだけだ。こんなことをして意味があるのかなぁ、と桜は不思議そうな顔をする。

 だが、柱に刻まれた水痕から微かな変化が起きた。群青の色が浸食し、淡く発光を始める。次第、ぼぅと明かりが燈るように藍色の文字がそこに浮かび上がった。文字、とはいっても、読み書きを習っていない桜にはそこになんて書いているのかわからない。ただ下手であることだけは察せられる蚯蚓(みみず)がのたくったような形の文字群に眉をひそめていると、

「――『立ち入り禁止、押し売りはお断り』」

 と真砂が代わりにそれらを読み上げた。

「たちいりきんし?」
「おうともよ」
「それが、結界?」
「そ。これで、完成」

 最後に大きく丸をくっつけて、真砂は筆を離す。瞬間、藍色の光を宿す文字が脈動するように強く輝いた。

「――了」

 ひとつ、言葉が紡がれると同時に文字はふつりと輝きを失う。そこだけ時間の流れが速くなってしまったかのように、あっという間に文字が色褪せていった。

「どうでしょう?」

 真砂は金糸銀糸の派手な飾り房のついた筆をくるりと回し、こちらを振り返る。

「何か変わった?」
「……しずかに、なった?」
「ご名答。――今、この家から軒並み“霊”が追い出された。五年前からな、定期的にやらされてんの。こういうコト」
「……どうして?」
「さぁ、どうしてでしょーねー?」

 真砂はどこか真意の見えぬ笑みを薄く口元に乗せた。

「もしかしたら昔いたのかもしれないねぇ。霊に引かれた風術師が。心を狂わせた風術師が、いたのかもしれないねぇ。むかーし、むかし」

 くつくつと忍び笑い、真砂は目を伏せる。青年のまとう空気がにわかに変わったことに気付いて、桜はそっと彼をうかがうようにした。

「真、」
「さぁーて、桜サン。暴れんなよ」
 
 桜の声を遮って呼びかけると、真砂は筆をしまい、ひょいと桜の両脇に手を差し入れた。驚きのあまり硬直してしまえば、目線がぐんと高くなる。

「や、下ろし、」

 足が地面についていないというのがひどく不安定で怖い。桜は青年の手の中でばたばたともがいた。

「はいはい、静かにしましょーね。ほら、さっき俺うるさいの嫌いって言ったよな?」
「言った、けど」
「じゃあ言うこときかないとさぁ、――落とすぜ?」

 最後に添えられた言葉には脅しにも似た気配が漂っている。このままだと本当に落とされかねなかったので、桜は仕方なく口をつぐんだ。少しだけ力を抜いて、青年の肩にほてりと頬を横たえる。

「ふふん、イイコですなぁ。さすが夜伽」

 さすがに今のはすぐに皮肉だと気づいた。でも夜伽をしていたのは本当のことであったので言い返せない。桜はきゅっと眸を瞑った。いつからだろうか。そんな風にひとに言われることが嫌で嫌でたまらなくなっていた。夜伽じゃなく、桜、と。呼んで欲しい。見て欲しい。――何故かは、わからないけれど。

「ひとつ、昔話をしてやろうか」

 肩から滑り落ちた髪がひと房捕えられ、低く、少しかすれがちの深い声が耳朶を撫ぜた。桜は閉じかけていた眸をうっすら開く。

「ひとりの心狂わせた風術師のお話。そして奴を討った、風術師でなかった餓鬼んちょのお話」
「ん……、」
「あーだめか。桜サン眠そうだもんねー」

 ひそやかに笑うような気配がして、話は途切れた。続きが聞きたい、と桜は思うのだけど、顔を上げようにも身体にはまったく力が入らない。瞼がひどく重たかった。

「――ねぇ、アナタは」

 はらり、翠の葉が眼前を落ちる。光を帯び、色づき始めた一葉が。

「アナタはあいつを救うことができるかな?」

 問いかけを、桜は朦朧とした意識の端で聴いた。







 橘宗家の屋敷をあとにした青年はその足で葛ヶ原を出て、毬街へと向かった。足取り軽く、鼻歌などを交えながら青年は七夕の飾りつけのされた毬街の大通りを歩いていく。東の辺境にある毬街や葛ヶ原は都よりも七夕がひと月ほど遅い。緑・紅・黄・白・黒の五色の短冊が笹の葉に飾りと一緒に吊るされ、店の軒に立てかけられている。
 笹の葉さーらさら、と青年は歌を歌いながら、露店を冷やかして歩き、水茶屋のひとつ、赤い番傘の挿された縁台に座っている少女を見つけてにやりと笑った。

「よー、藍ちゃん久しぶりー!」

 名を呼んで駆け寄る。
 湯飲みに口をつけていた少女はすいと顔を上げ、無表情に青年を見た。黒羽織に身を包んだ少女。その背に刻まれているのは中央の花紋である。

「遅かったね」
「あーごめんごめん。宗家のほうで用を済ませてきたんよ」
「用?」
「野暮な用ですよ。語って聞かすまでもないね。――あ、おじさん俺、お酒とするめいか!」

 店先から出てきた店主を呼びつけ、橘真砂はぱっと笑った。